楽太郎です。
9月30日の午後から深夜にかけて、異常な邪気に襲われました。
体感としては、悪霊です。
あまりの体調変化にびっくりして、しかも不調のレベルが桁違いなので動揺しました。
その原因を考えれば考えるほど、混乱してしまいました。
その日は氏神様の神社に行った日だったので、パワーをもらいに行ったつもりが、変なものを連れてきてしまったのかと思いました。はたまた、道中で拾ってきてしまったのか。
あるいは、元々自分に憑依していたものが出てきたのか、身近な人から受けているものなのか。
それとも、人間の集合的無意識が悪霊化して襲ってきているのか。
あらゆる可能性がありすぎて、犯人探しを始めてパニックに近い状態になりました。
それでも一日の仕事はしなければならないので、冷や汗をダラダラ流しながら、何とかやり終えてから寝ました。
その夜は緊張して3時間で中途覚醒しました。
ただ悪夢を見たという実感はなく、どこかの観光地に遊びに行く呑気な夢を見ました。
そして今朝になり、改めて冷静に内観してみました。そしてこれは、やはり邪気というより憑依であると確信しました。
霊障は意識するほど術中にハマる
これまで何度か霊障に陥ったことはあるのですが、霊感が上がった今の状態から振り返ってみると、気づかないうちに霊障による体調不良とずっと付き合ってきたんだな、と思います。
私は基本的に健康体なので、この不調は更年期障害とか自律神経失調症あたりなんだろうなと、わりとセルフケアで何とかしようとしてきました。
ただ、それでもどうしようもない不調もあって、我慢してやってきたのですが、今思えばこれも霊障だったかもしれません。
私はネット越しとはいえ、人気商売をしている面もありますから、念を受ける環境と言えばそうです。
創作をする上で、人間の集合意識と近い場所にメンタルを置いているのもあるかもしれません。
どうやら霊媒体質のようなのですが、そういった性質を特に深刻に考えたことがありませんでした。
だからほぼ無防備の状態でこのアタックを受けて、本当に混乱したわけです。
今、冷静に考えてみると、この「悪霊に取り憑かれた!霊障で苦しい!何とかしないと!」と動揺すること自体が、悪霊にとっては意図したものだったのかもしれません。
混乱するあまり、妙な悪霊退散の儀式をしたり、様々やスピリチュアルな情報を漁ったりして、ますます状況を拗らせてしまえば、憑依霊の思う壷なのではないでしょうか。
でも、逆に考えると悪霊にとって困ることと言えば、「相手にされない」そのことに尽きるのではないでしょうか。
悪霊と言えど、人間の意識に干渉するにはエネルギーを消費するはずです。いくらエネルギー体であろうと、取り越し苦労はできるならしたくないはずです。
だからこそ、こうやって憑依を感じた時は、いくら吐き気や不調が著しく出ようと、平常心で跳ね除けるくらいの気持ちでいた方がいいのかもしれません。
対立軸で問題を解決しようとしない
私には生まれつきの因縁があるようで、そういった原因を考えると実は一つには絞れません。
いくつもあるからこそ、最も可能性の高い原因をあれこれ考えたり、誰が悪いのかをぐちゃぐちゃ考えたりしていました。
そうすればするほど、どんどん具合が悪くなっていきました。身の回りの信頼する人まで疑い出した途端、自分が「まともじゃない」状態に気づき、改めて冷静になろうと思いました。
おそらく悪霊は、こうして疑心暗鬼になり、対人関係を悪くしたり、不用意な発言をさせたりして、憑依した人間を悪い方に引き摺り込もうとするのでしょう。
私はそれが悪霊にとってのハックなんだなと思ったので、「じゃあ気にしないほうがいいな」と割りきり、不調をカバーすることだけを考えるようにしました。
あと、これは霊的世界のことなので、神様のご加護にお任せすることにしました。
神道のお祓いで「祓いたまえ、清めたまえ」とありますが、祓いとは神仏との信頼関係によって助けていただくこと、清めとは自分自身が清廉潔白であり成長しようと努力することを指すそうです。
私は特に最近、天照大神様や瀬織津姫様とのご縁を感じるので、神様のお名前を唱えて加護を祈願しました。
結論から言えば、これで霊障はだいぶカットされました。
あと、私にも気の緩みがあったんだろうと思います。慢性的に気は枯れてますし、邪気を呼びやすい状態です。
それでも、「気の壁」を作って邪気邪霊の侵入を防御するやり方を覚えました。
私にこれほどの混乱をもたらすのは、かなり強い霊だった可能性があります。特に手口が知能的で、うっかり落ちるところでした。
なぜ、今この時期に唐突な霊障が起こるのかと考えると、まあそれも心あたりがありすぎるので、あえて考えないようにします。
最後に一つ書こうと思います。
全ての物事が拗れる理由の一つに、「対立構造」があります。
自分が被害を受けた、だから対応しよう、問題を取り除こう、と考えて動くのは自然なように感じますが、対抗意識を持つことで問題を深刻化しやすくなることも留意せねばなりません。
それが見えないものであろうと、何かしらの意図があって干渉してきます。
下手に同情しようとするのは危険ですし、彼らを助けるということは彼らの願いを叶えることではありません。
ただし、誰しもが互いが尊重され、平和な分け隔てない幸せが理想であり、その答えに意識を持っていくことが全ての問題に対する出口のように思えてなりません。
だからこそ、あらゆる問題に対する対応は、掘り下げることだけではないのだと思います。