スピッツの新曲「陽を護る」を聴きました。
この「小さい陽」と呼ばれるものは「希望」という言葉に掛けているようで、実は「日本」なのではないか、と思いました。
スピッツは政治的なメッセージの曲は基本的に作らないでしょうから、そういう内容を伝えたいなら何らかのメタファーを込めるはずです。
作詞作曲を手掛ける草野マサムネさんは、東日本大震災の折に心を病まれて一時休養をなされていました。
その繊細なマサムネさんですから、今の世に思うところがあっても不思議ではないと思います。
今の「日」が、護らなくてはいけないくらいに消え去りそうだから、それを消さないようにしよう、というメッセージだと私は勝手に受け取った次第です。
「日本」を考える時に、政治的なことはいくらでも思いつきます。
ただ何が悪いのか、どの原因を取り除けば良いのか、ほぼ無限に湧いてくるので犯人探しに暇はないでしょう。
大事なのは、私たち日本人が大切にしなければならない何かを、どこかで失ってしまったということです。
それが「陽」を小さくしていると言えます。
その「陽」というのは「希望」でもあり、心の中にあるべき「光」なのではないでしょうか。
そして、その「陽」は日常の中の一挙手一投足に映る「やりがい」であって、日常にある「喜び」のはずです。
今だからこそ、常日頃向き合わなければならない「仕事」について、今回は書いていこうと思います。
私たちは、いつしか「仕方ないから」と、「仕方ない」ことをすることに常に囚われているような気がします。
「仕方ない」というのは、他にやりたいこともあるし、大事なのはソレではないのだけど、やりたくないことをしなくてはいけない「世の中」だから、「人生」だから今日も明日も同じことを繰り返していかなければならない、という意味です。
だから「お金」を稼ぐために、「将来」のために、やりたくなくても「やるべきこと」をやっていかなくてはならないと思うのでしょう。
「やりたくないこと」をやる日常では、どこかで「面白いこと」「楽しいこと」に触れたくなりますが、それが「趣味」というもので、つまらない日常を支える「娯楽」です。
けれど、その「趣味」や「娯楽」に夢中になるためには、また「お金」が必要になり、その分「やりたくないこと」の比重が大きくなってしまいます。
理想を言うならば、「やりたいこと」が「お金」になり、「趣味」が「やっていればいいこと」になれば文句はないでしょう。
私は長年「絵」を生業にして、人からは「好きなことをやれて羨ましい」と言われることもありました。
けれど、正味な話「自分がやりたいこと」をやって人にウケるか、それが「お金」になるかは全く別の話です。
落とし所としては、「お金になりそうな人気ジャンルにやりたいことを見つける」です。
クリエイターというのは、その方針でだいたい上手くいくのです。
ただし、世間というのはミーハーですから、数年もせずに切り替わるトレンドに、クリエイターがその都度乗り換えていくのは難しいことです。
どこかで自分のジャンルを確立しようとしたら、それはそれでトレンドから離れることになり、続ければ続けるほどリスクは高まります。
ならば、常にトレンドに乗り換えられるようなフットワークでいれば良いのでしょうが、それでは自分の地位はいつまで経っても確立することはできません。
「同人」というセミプロの世界でやっていくなら、その度にトレンドに迎合して、いちいちポジションを変えていけば良いでしょう。
しかし、「プロ」として作家性や知名度を固めていくならば、一つのことをみっちりやり続ける必要があります。
結局のところ、自分の目的次第でそのバランスは変わってきます。
私も「自分のしたいこと」と「お金」そのバランスに四苦八苦した上、その落とし所は見つけられませんでした。
自分が「やりたいこと」で地位を確立するには、簡単に成果が出ないことを覚悟しなければなりませんし、仮に「お金や知名度」を求めて「やりたくないこと」を選ぶなら、「やりたいこと」と向き合う時間は相対的に減っていきます。
おそらく、どこの世界のクリエイターでも悩むテーマであり、だからこそ「自分の好き」と「成功」の均衡点をずっと探し求めるのです。
「需要」と「供給」という観点で見ればわかりやすいのですが、例えば誰かが「これが欲しい」と思った時、それを作り出せる人が望みのモノを作って渡すことで、「対価」としてのお金が発生します。
少なくとも自分が「作りたい」と思い、勝手に仕上げたものがたまたま売れるならいいのですが、大抵の場合は人が「欲しい」と思うものは違います。
だから、「お金」を手に入れる確実さを求めるならば、誰かの「欲しい」というオーダーに合わせてモノを作ることになります。
しかし、それだと他人の好みに合わせて「モノ」を作ることになるので、「やりたいこと」とは必ずしも言えないでしょう。
何が言いたいかというと、「人のためにやる」ということは、必ずしも「自分のやりたいこと」と一致せず、往々にして自他共に「需要」が100%一致することはありません。
つまり、「需要」と「供給」という関係で成り立つ「モノ」は、自分がやりたくて他人が欲しい、というシチュエーションはなかなか発生しにくいのです。
だからこそ、結局はニーズに合わせて「仕方なくやる」か、売れなくてもいいから「やりたいようにやる」のどちらかに傾きがちになります。
なかなか読んでいて頭が痛くなる話だと思いますが、結局のところ何でも「商売」を差し挟むならば、需要と供給の「均衡点」に最終的に落とし込まなければならず、「やりたいこと」と「仕方なくやること」の均衡点も探さなくてはならないということです。
わりとどんな業界の大物であっても、このバランスをどこかで割り切って成功しているものです。
だから「やりたくないことも、時にやらなければならない」というのは仕様であって、私もどの作家も世間に羨まれるほどには自由なことはできない、ということです。
けれど、会社で働いたり組織に属している人からすると、それが「自由気まま」で華々しく見えるのもわかるのです。
そもそも「絵を描く」のも「楽器を演奏する」というのも、人から見れば「趣味」の世界であり、「好きなことをやってお金を得ている」という風に見えるのは当然です。
すごく現実的な話をすれば、自分の描きたい作風で絵を描いても、結局は見向きもされないことが多いため、あえてHな絵にしてみたり人気ジャンルに手を広げてみたり、あるいは全く不本意なオーダーに従って作品を作ったり、というのは折り込まなくてはなりません。
そこまで割り切って「プロ」だと思いますが、そればっかりだと最終的に自分が何をしたかったのかわからなくなる時もあります。
ただ、これまでの話は「対価」を軸にした話です。
お金や社会的評価を中心にした「外側」に焦点を当てれば、自他の目的の相違に気づくというだけで、それは「趣味」を生業とした場合でも同様であるというだけのことです。
それは「結果」を求め、対価を中心に見ればそうなるというのであって、実のところ大事なのはそこではありません。
別の見方をすれば、自分がそもそも何らかの技術や知識を使い、そこでモノ作りやサービスを人に提供する時に、その「行為」そのものが好きかどうか次第で、全く意味合いが違うということです。
例えば、自分は料理は好きではないけれど、なぜかチャーハンを作ると皆からベタベタに褒められることがあったとします。
人が喜ぶからチャーハンをあえて作ってあげるけれど、自分としてその作業は好きではないわけです。
好きではないから、人が過剰に喜んだり「お礼」のようなものがあればやろうとなりますし、その対価が得られなければやる気も湧かないでしょう。
反対に、料理が大好きでなぜかチャーハンが作りたくてたまらない、そんな時に自分の料理を食べに来てくれる人がいれば、タダでも食べてもらいたいでしょう。
そこで喜んでもらったり、「お礼」すら貰えるとしたら、どんどん料理に対するやる気も湧きます。
要するに、これまで「需要」と「供給」で見てきた話は、主体として「行為そのものが好きか」という視点が抜けていたのです。
「やりたいこと」と「行為そのものが好きであること」は実は微妙に違います。
「やりたいこと」というのは目的ですが、「行為そのものが好きである」とは、手段自体が目的であるということです。
わかりやすく言うなら、「風景画を描きたい」というのが「目的」なら、「風景画を描いていれば楽しい」というのが「手段が目的である」ということです。
私たちは前者に思考が傾きがちで、ただ自分だけがひたすら楽しめば良いだけのことでも、必要以上に対価を得ようとしては、その実現ばかりに頭が行っているのかもしれません。
もし「料理」という行為自体が好きなら、「チャーハンを作ってくれ」と頼まれても、「カレーを作って」と言われても、何をやっても楽しいはずです。
それで「お礼」を得られるならば、「自分のやりたいこと」や「需要と供給」とか、小難しい話を差し挟まずとも十分商売は成り立ちます。
「商売」を軸にすると作業コストを負荷として捉えますが、行為を「趣味」とすれば作業のコストは限りなく「ゼロ」に近いはずです。
なぜなら、人は本当にやりたいことは身銭を切ってでもやろうとするからです。
現実的にそれでは損失となるのですが、主体となる自分にとって、それが「投資」や「利益が出るまでのランニングコスト」と思うかは人それぞれです。
持って回ったような話ばかりで恐縮ですが、わかりやすく言うと「自分が本心から好きでやりたいことなら、基本的にノンコスト」なのです。
子供たちが「絵」を描いたり歌を歌う時、大人に褒められたいからするのではなく、行為そのものが楽しいからです。
しかし「お金」や「社会的評価」を軸にして考えるから、子供のような無邪気な行動は「ムダ」に思えてしまいます。
そこで「楽しさ」や「やりがい」という主観が外れているからこそ、「実益」という面で仕事を考えがちになります。
要は、「楽しいと思っていない行為」で対価を得ようとするから、人々が考えるような義務的な「仕事」になってしまいます。
けれど、「楽しいと思う行為」から発生した案件に、嫌悪を伴う義務感は生じないはずです。
むしろ本来の「仕事」とは、こうした「楽しいと思う行為」が結果的に対価になることが至高であり、「好きこそものの上手なれ」で得意なことをやっていれば、その技術や才能もいずれ認められ、そのうち対価になっていくでしょう。
私たちは、出来上がったモノから先に売ろうとし、自分が作ろうと思ったモノから買い手を探します。
けれど、まず先になければならないのは「行為としての楽しさ」の追求であって、「自己満足」の尺度をどう他人と共有するかという点について、あまり考えることがありません。
だから常に「売れ筋」とか「トレンド」に乗っかれば、とりあえず損をすることはないと考えます。
けれど本当に大事なのは、自分がそれをやって損と思わない行動を取ることであって、損得勘定は後回しでも構わないはずです。
近年、「芸術」という分野にAIが持ち込まれたことで、芸術行為そのものに「成果物」としての評価を重ねる人が増えました。
たまに生成AIにプロンプトを打って出したモノを「表現」と形容する人がいますが、そこに本来の「創造的行為」や技術的習熟に対する根源的な「喜び」という尺度は存在しません。
正直言うと「生成AI」というアプリ自体も問題が多いのですが、それは置いといてクリエイター自身が生成AIの成果物と自分の仕事を比べがちで、インスタントな作品との差別化が自分で行えないのも憂慮すべき事柄です。
つまり生成AIが浮き彫りにしたのは、私たちが芸術という分野に「結果」を求める風潮が強いという事実であり、それが現象として顕在化したに過ぎないのではないでしょうか。
どれほど私たちが「表現」という行為を「商業主義」に落とし込んでいたか、という事実の反映であり、「生成AIという治外法権が作り上げたコラージュ」と割り切れないのは、それだけ私たちが表現を軽率なものにしてきた、ということかもしれません。
人間が「表現」をする時、そこに内面的な反映があり、それを見た人が「何か」を感じ取ることで「価値」が生まれます。
それこそが「芸術」であり、「上手い下手」という尺度で芸術を持ち回っていたからこそ、生成AIを鼻で笑うことができない現実が生じてしまったのではないでしょうか。
つまり芸術的表現において、手作業を「コスト」だと認識し、そこで得るべき成果が「評価」や「お金」であったからこそ、人間としての「行為」そのものへの動機が希薄になっていたように思うのです。
ゆえに「下手かもしれない自分が」一生懸命に好きなモチーフで好きな作品を創る、という本来の等身大の表現や芸術的行為に、今こそ立ち返るべき時に来ているように思えてなりません。
「結果物」だけを見たら、著作権を逸脱したAI生成物のクオリティに「敗北」し、自らペンを持つことの意味を感じなくなるかもしれません。
しかしペンを持つ自分自身は唯一無二であり、その自分がペンを走らせること自体に「芸術」は真の意味を持ちます。
私たちはそれを履き違えるくらいには、「結果」や「対価」というモノで頭がいっぱいになり、自分がまず「行為を楽しむこと」への目的、「向上すること」への喜びを見失っていたのではないでしょうか。
だからこそ今、人間の手に「行為の喜び」を取り戻し、例え稚拙でも形にするやりがいを思い出す必要があります。
それは表現や芸術の分野だけに関わらず、あらゆる「仕事」とされる行為全般に言えることです。
問題なのは、日常の中で「行為そのもの」に対する喜びや楽しさを見失ったことにあるのだから、どれだけ自分のモチベーションを「ノンコスト」にした上で何をやり、何を繰り広げていくかだと思います。
あまりにも完成されすぎた社会の中では、仕組みから逆算して入った方が成功しやすいのは事実です。
しかし「結果」を求めるあまり、行動ばかりが形骸化し肝心の「楽しみ」を忘れがちになります。
そして「楽しくない」から余計に対価や見返りを求めてしまうのです。
そうして本質から離れた「仕事」は、「やらないに越したことはない」ものとなり、功利主義に走っては既得権益にぶら下がり、挙句の果てには公金に吸いつくハックですら正当化されます。
こうして「仕事」も「芸術」も人から離れた結果、人心が社会や経済から離れていった現状があるのではないでしょうか。
だから、今だからこそ愚直にも「損にも得にもならない」自分自身のモチベーションに立ち返るべきだと思います。
「それをしたところでどうなる」という考えは一旦捨てて、自分がどうなろうと「やりたい」と思う行為に真っ直ぐに向かっていくことです。
これから世の中が変わる、というより自分が軸になって世の中を変えていこうとするなら、それは「仕方なく」から生み出されるものではないでしょう。
経済としても社会としても行き詰まりを見せる世の中だからこそ、「仕事」という日常行為から見直すべき時に来ていると思います。
日常の中に小さな希望を持ち、小さい「陽」を宿し、それを守る。
それこそ「陽」が沈みかけている「日本」に、再び「陽」を灯すことであり、その光を集めることで、いずれまた「太陽」は登るのかもしれません。
