「後悔」と向き合う

楽太郎です。

11月5日、今回の満月は強く「癒し」の力が働いているのを感じています。
正確には今日の満月は朝の8時頃ですが、4日の夜から5日の夜まで跨がるようです。

私は満月の日のたびに、かなりの確率で酷い頭痛になっていました。
私の浄化が進んだからなのかもしれませんが、満月に係る不調は4日の午後までに終わり、なぜか夜半からは逆に落ち着いてきました。
これまで、こんなことはありませんでした。

以前の満月には、「浄化」の力が強く働いており、神々の祓いに当てられて人間の邪気や、世に漂う魑魅魍魎の類が暴走していました。
その気の荒ぶりを受けて、満月の日はだいたい世間には気の乱れが起きていましたし、自身の邪気も浮上して、余計に気分が悪くなることが多かったのです。

この力を「癒し」と感じるのは、10月満月の「天王山」の折にあらかた大型の邪気が祓われてしまったのだと思います。
つまりはだいぶ地上の浄化が進んだため、暴走するような邪気がかなり弱まったのではないでしょうか。

私が何の根拠もなく、感覚だけで予測した「エネルギー」が、まさかここまでその通りになるとは思わなかったのですが、まあ私の思い込みだとしても、これほど穏やかな満月を感じるのは久しぶりと、しみじみした次第です。

私が言っていたように、神々による「邪気祓い」は現在かなり進み、この落ち着いた空気の状態で11月20日新月を皮切りに、神々の会合が始まるのだと思います。
今の世の中は、古い権力構造がより強権的になることで変に安定した状態にありますが、それがむしろ神々の計画にとっては「時間稼ぎ」に使われているように見えます。

というのも、新しい時代の芽もまだ生え揃ってはおらず、実際は準備がまだまだ掛かります。
だから神々も一気にちゃぶ台をひっくり返すのは容易いのでしょうが、それではお膳が全て吹き飛んでしまうので、しばらく食事無しというのもしんどいでしょう。
だから替えのお膳も用意する必要があって、むしろそっちがメインディッシュなのだから、当然時間は掛かります。

この「時間稼ぎ」のために古い体制の方々に粘って頂いている、というのが正味なのではないでしょうか。
日に日に規模の大きいニュースも出始めてきてますが、旧体制の力が削り取られれば削られるほど、その損失を埋め合わせるためにより強大になろうとし、力を結集させ強靭に固まろうとするはずです。

それが側から見れば「強権的」で「手段を選ばず」、「極端な手に打って出ている」ように見えるのです。
そういう目でヘッドラインを眺めてみれば、だいたいの世界の動きが読めるのではないでしょうか。

その「時間稼ぎ」も、神々からしてみれば計画が順調すぎるからこそ、むしろクールダウンの時間を作っておられるように感じます。
その落ち着きの中で、じっくり話し合われる「2026年の方針」とは一体どうなるのでしょうか。

さて、今回の記事は「浄化」に絡めて、今人々の心の奥底にあるだろう「どうしてこうなってしまったのか」という、柔らかい部分を攻めていきたいと思います。
というか、今回の満月にテーマがあるとしたら「悔い改め」ではないでしょうか。

「浄化」というのは、宗教的な言い方にすると「懺悔」に近い心理作用があります。
「心のデトックス」という一時的な作用というよりは、自分の悪い癖や間違いに気づき、その反省を通して気を改め、しっかりと生き直すことにあります。
浄化が行われるためには、浄化されるべき「汚点」をまず見つけなければなりません。

この「汚点」と向き合う時に人は、葛藤や後悔を覚えます。
この不安定な心の波を嫌がって、誤魔化そうとしたり変に意固地になるから、なかなか人間は悪い癖を直すことができません。

ただ、その痛みや苦しみにきちんと向き合い、背筋を伸ばして生きて行こうと気を改めるところに、「浄化」が起こります。
これには痛みが伴うので、今回の満月は神々からの「労い」の意味を込めて「癒し」のエネルギーが降りてきているのかもしれません。

私だけでなく様々な人々が今、これまでの生き方を問い直し、その痛みや後悔と向き合っている気がします。
確かにこの「失われた30年」どころか戦後80年、いや明治維新やその前の時代から、日本人は右へ左へ流されては、良くないことにばかり巻き込まれて来ました。

私の若かりし頃なんてのは、ズボンを太ももまで下げてパンツを見せながら歩くロン毛茶髪の若者が、電車の床に座ってマックをベチャベチャ食べながら、ゲラゲラ大笑いしている光景などザラでした。
今、そんな人がいたらスマホで撮られてネットで晒し者にされるでしょうが、そんな贅沢な時代があったのです。

今では「パパ活」などと呼ばれていますが、父親に近い年齢の男性を捕まえて「援助交際」をしていた女子学生なんてのも珍しくなくて、ヴィトンのバッグ欲しさに身体を売っていた少女たちも、今はどこかでしっかりした母親になっているのでしょう。

誰もが脛に傷を持ち、心に傷を抱えて今の時代を生きています。

それにふと気がつく時、心の闇深くから自分の本心が顔を出して、誤魔化しの効かない過去と目が合ってしまいます。
その恐怖と向き合うのは壮絶な経験でしょうが、しかしそれを誤魔化して自分の本心は知り得ず、また真の「悔い改め」も起こりません。

「あれは時代だったから」「自分は若くて未熟だった」と言って処理するのは簡単です。
しかし、そうは言っても心の奥底に残る後悔や、記憶にまつわる複雑な感情をなかったことにはできません。

そして、自分の過去の行いを「何か」のせいにしているうちは、自分自身に対する責任と向き合うことは難しいのです。
私たちは確かにあの頃、大切なことを大人からなかなか教えてもらえませんでしたし、それがわかる状態でもありませんでした。
そうだとしても、なぜ時代があそこまで狂っていたのか、その狂った社会の雰囲気に流されてしまった自分自身も、正直にしっかり見つめるべきなのです。

ただ、こうした「狂った時代」に人生の多くの時間を費やし、過ちの多い自分の人生に何の意味もない、と言えるでしょうか。
私は、その後悔だけでなく楽しかったことすら、全て「学び」というものに収斂されていくような気がしてなりません。

「なぜ自分はあんなことをしてしまったのか」と考える時に、やはり参考になる教えが「日月神示」にあります。
「黒鉄の巻・第二十三帖」には、「自分の自由にならんことは、大き自分が自由にしているのであるぞ」とあります。

私たちが後悔しがちな失敗や過ちのきっかけというのは、大抵の場合、当時の自分では「どうにもならなかった」ことが殆どです。
「何も知らなかった」「他の方法が思いつかなかった」「なぜかわからないけど離れられなかった」と、自分の意志でどうにもならなかったからこそ、歩んでしまった道もあるはずです。

この時、判断したのは本当に「自分」でしょうか?
もしかして、自分の外側に「大きい自分」がいて、その自分が「小さい自分」に、つまり自由意志をもち自分で考えて行動していると「思っている」自分自身に、「大きい自分」がそうさせていたとしたら、それは本当に「自由」と呼べるでしょうか?

よく考えてみると、「なぜかふと口に出てしまったこと」や「なぜかその時に限ってやってしまったこと」が起きる時に、大抵の失敗があったように思います。
それは自分から見れば、「あの時こうしていれば」と思ってしまうことです。

その時、もし「大きな自分」がわざと「失敗しよう」と思って、その行動を小さい自分に起こさせたとしたら、どうでしょうか。
小さい自分から見れば、あり得ないミスのようにしか見えないでしょうが、大きい自分から見ればミスを経験することで人生の道を変え、より困難になる道を選択したことになります。

もし人生が「魂の修行」なのだとしたら、その失敗も「学び」のために必要な出来事であり、そこに教訓や自覚があるかに関わらず、大きい自分はそれで目的を果たしたことになるのかもしれません。
そう考えたら、人間の「悩み」の意味は大きく変わってくるでしょう。

大きい自分からしてみれば、小さい自分がいつまでも過去を引きずって、クヨクヨしていることすら「学び」の一部なのです。
「大きい自分」は霊魂に近い存在なので、人間の意識で考えて物申すことはあまりなく、「小我」である自分の意識とはまるで価値観の異なる存在です。

「大我」の自分からして見れば、過ちを乗り越えて成長するのも、失敗して堕落していくのも、人間としての「経験」を通して魂が学ぶ、一つのプロセスなのだと思います。
成否がどう傾こうとも、それを「自由」に選択しているのが「大きい自分」の意志であり、小さい自分はその選択を甘んじて実行し、跳ね返ってきた結果を受けるしかないのです。

人間は、誰もがここでジタバタしてしまうのですが、それこそむしろ「小我」である私たちの役割であり、大きい自分から一方的に与えられる選択を、私たちは「運命」と呼ぶのではないでしょうか。

だから、「なぜああしてしまったのか」「どうしてこうなってしまったのか」という部分において、私たちは不可抗力だったことを認め、それを大人しく学びに変えていくのも、ある種の潔さなのかもしれません。
「小さい自分」はどう足掻いても「大きい自分」が決める自由には逆らえないのだから、下手にジタバタせずに飲み込むことも、一つの賢さと言えるのではないでしょうか。

そして、これまでの時代は誰もが大きな「学び」のテーマにぶち当たり、その反省をもって今は、更なる学びに変える期間に入っているのかもしれません。
それを選択するのも「大我」の意志なのでしょうが、特にこのブログを読むような方は、ご自身の半生をしっかり見つめ直せる真面目な人だからこそ、より大きな人生の「学び」に向き合っていると言えるでしょう。

だから、「過ち」や「後悔」それ自体をネガティブな意味として捉えず、その出来事の本質をしっかり考えてみる必要があります。
私も若かりし頃には、まるで「素戔嗚命」のように荒ぶった時期もあったのですが、その頃の苦い記憶に目を逸らさずに向き合うことで、過去の「カルマ」を精算できるという側面もあるのです。

神々が、そんな「穢れた」「罪悪」ばかりを抱えて生きる人々を決して咎めず、今なお癒しのエネルギーで私たちを包み込んで下さるのは、神々がその理由を深く理解なされているからでしょう。
それを私たちは「神の愛」と受け取りますが、その愛の裏には「可愛い子には旅をさせる」という厳しい愛情があり、それゆえに人間が傷つき汚れ、たまに腐ってしまうのも見越した上で、全てをお赦し下さるのだと思います。

全てを神が作り給い、その仕組みや仕組みの中にある人間の宿命も、凡そ熟知しておられるからこそ、神々は底知れぬ愛情をもって人々を見守っておられる気がしてなりません。
ただ一つ言えることは、人間は人々が思うような存在ではなく、より神秘的で計り知れないバックボーンを持った存在だということです。

これまでの時代は、生まれついた社会階層とか、ステータスなどに応じて進む教育課程や、条件付けで進める就職先や参加できるクラスタ、住める場所まである程度は予め世の中に決められている部分がありました。
その縛りの中で、右へ左へ流されながら「どうしたら幸せになれるのか」と、私たちは必死に泳いできたのです。

しかし、人間が単なるケミカルの集合体ではなく、肩書きで全てが定義づけられる存在でないのは、周知の事実です。
私たちは今の時代を通してあるべき自分に立ち返り、これまでの生き方の反省を通して、本来あるべき「人間としての生き方」を取り戻す時に来ているのではないでしょうか。

今しばらくはクヨクヨ悩みながら、俯き加減に生きて構わないのかもしれません。
大事なのは、この「大峠」で立ち止まることなく、一歩ずつ歩みを進めることです。
その様子が多少無様に見えても、よく旅する人にはこういう言葉をかけることがあります。

「旅の恥はかき捨て」と。