ただ「真っ白」な自分に

楽太郎です。

最近の私は先走りすぎというか、未来を見据え「すぎ」と受け取られても仕方ない言動をしています。
言うほど世の中は変わらないし、沈鬱とした停滞感をいっそう深刻に感じられることもあるでしょう。

私が読む「エネルギー」というのは、現象化するまでに通常3か月から半年くらいのタイムラグがあります。
しかも、「◯月に地震が起こる」というような具体的な事象を必ずしも伴わず、解釈次第と言えるような抽象度の高い現象として立ち現れます。

実現性で見れば人畜無害な「予想」のレベルですが、私はかねてから先の世に対して楽観を貫いてきました。
しかし春分以降、世の中の閉塞感は変わらずとも、特に深刻な社会的事件もなく、何となく「明るい気」が差し込んできたのは、わりと感じられるのではないでしょうか。

私は予言者ではないので、先々のことを知って動いているわけではありませんが、今起きていることとエネルギーの流れを読み取って、それなりに見当をつけています。
しかし、実際に起こる世の事象や今の人々の言動と照らし合わせて、私が言うほど変化があるとは思えないのも無理からぬことです。

おそらく、私の言葉を間に受けて「これから新しいことを始めよう」と考えて今、行動に移されている方は市井の人々より「1周」くらい早いと思います。
だから、今すぐ形にしようと意気込んで、焦る必要はありません。
まして、今の世の「主導権」を握っているタイプの人々からは、「3周」くらい早いと考えて良いと思います。

現在の社会経済を動かしている人々の考え方と「3周」離れているのだから、世の動きに矛盾していると感じられても不思議ではないでしょう。
今の世の閉塞感は、従来の既得権益システムと権力構造が不動すぎるがゆえに起きています。
オールドメディアから毎日垂れ流される情報を見ればわかりますが、全く進歩がないところに需要があるから「オールドメディア」と呼ばれるのです。

最近、世の行き詰まりに伴う沈鬱さに対して、不可解な「陽気」が流れ込んでいることで、混乱が生じている人もいらっしゃると思います。
むしろ今深刻なのは社会状況ではなく、人々の心理的な葛藤や、人間関係の軋轢などの精神面にあるのではないでしょうか。

少なくともこの80年、日本を貫く「大峠」は、人々の集合意識の中で起こっていたように見えます。

戦後の復興から、高度経済成長という栄枯盛衰の世にあって、私たちは「失われた30年」という低迷期も経験してきました。
そこで生きてきた私たちの半生を振り返ると、「幸福」や「成功」への「夢」を抱きながらも、社会の矛盾や理不尽な仕組みにぶち当たって揉まれてきたはずです。

そこで「妥協」した人も多いでしょうし、うまく仕組みに取り入り社会的に成功した人もいるでしょう。
そこにある「割り切り」は、現代社会の中で生じる葛藤と共にあり、そこで私たちが体験した苦労こそが「大峠」の過程だったと思えます。

今、人々の葛藤の根本に、「昔のようなやり方が通用しなくなった」という動揺があるのではないでしょうか。
多くの大人たちにとって、「昔」という幻影が去来し、過去と今を見比べて「こんなはずではなかった」と思っている人も少なくないでしょう。

「昔は良かった」と思うのは大抵の場合、多くの分野が「若者主導」の世の中であって、その活気や創発性に当てられていた部分が大きかったはずです。
自分も周りも若く、経済的にもまだ勢いがあったから、多少の失敗は笑って跳ね除けられる時代だったのです。

それが年を重ね、周りに身持ちの固い人が多くなれば、大した冒険はできずに安定志向は強まります。
かつて新進気鋭の若手だった人も、一度成功してしまえば保身的になり、「権威」に頼って生きていこうとするでしょう。
そして「権威」というのは、社会的には実力と知名度が実証された目に見える「安牌」だからこそ、安定志向の人々はビジネスとしてそこに寄り集まっていくのです。

こうして世の中は膠着化し、社会や経済は新陳代謝が著しく悪い環境になっていきました。
そこで風穴を開けられる「若者」がいれば良いのでしょうが、若者からすると巨大な利権に立ち向かうより、権威に迎合して楽に成功できた方が良いに決まっています。

特に若者は年々世代数が少なくなってくるので、昔のような集団力はほぼ発揮できません。
しかも、お金もなく人脈のない若者には、「権威」ある大人に太刀打ちできるものが一つもないでしょう。
このボトルネックが、ますますこの世の風通しを悪くしてきたと言っても過言ではありません。

だから、現行体制ではどう考えても先細るのは目に見えています。
「お金を使いたがらず、興味関心の薄い年寄り」に主導権のある時代は、いずれ袋小路に陥ります。
しかし誰もが我が身は大事ですし、一人二人反旗を翻したところで何一つ叶えることはできないのが現実です。

しかし、それは「人間なら」の話です。
もし、全て「神々」が織り込んでいた事象であり、それも考えられた状態であるなら、必ず落とし所はあるはずです。
それを行うために、神々が動かれていることも私は感じ取っています。

私が「日月神示」を真の神の啓示であると思う理由は、単に霊的直感によるものだけではありません。
現代に起こる様々な事象と日本を取り巻く歴史的な流れが、神示に示された「あらすじ」の一部であると確信しているからです。

私は常々、最も神々の「配慮」が行き届いている世代が、今の子供たちであると感じます。
大人たちから見れば、今の子供たちを不憫に感じるでしょう。
ゆえに大人からの子供たちに対するケアは厚く、私たちとは全く違う育ち方だからこそ、新しい時代の騎手に相応しいのです。

その子供たちに「社会」というバトンをきちんと渡すために、今の世を変える役割の大人が必要です。

そこにおいて、「昔のやり方」にこだわり、過去の栄光に縋る年寄りだけが問題なのではなく、世を変えようとする私たち自身が「過去」という幻想に囚われていてはならないのです。
大人たちの誰もが「昔は良かった」「こんなはずではなかった」という思いを、多かれ少なかれ持っています。

けれど、それを一度捨てなければ「新しい何か」を掴むことができません。
私たちは「過去」というものを、無意識のうちに力一杯握りしめているからこそ、そのしがらみに囚われていることに気づけないのではないでしょうか。

今を生きる大人たちは、右へ左へ世の流行に振り回され、損か得かもよくわからない半生を送ってきました。
自分が本当に望んでいたのかもハッキリしないまま、周りの雰囲気に流されて過ちを犯したことも沢山あったでしょう。
今だからこそ、当時の自分にどれだけの本心があったのか、その判断は正しかったのかを省みることができます。

過去は変えられず、今ある現状も大して変えることはできませんが、記憶というのは「知識」でもあるのです。
自分の半生から得た経験を活かし、知識を知恵に変え、これからの時代を要領よく生きて行くことが、何より大事なことだと思います。

私たち大人は、昔に比べてずいぶん汚れてしまいました。
けれど「魂」だけはいくら薄汚れても、まるで生まれたままのように綺麗にできることは、あまり知られていません。

自分の身体だけではなく、過去も経歴も綺麗とは言えなくても、「魂」は磨けば磨くほど昔のように、溌剌とした輝きを取り戻すことができます。
なぜなら、魂は歳を取ることがないからです。

魂を磨くことを「穢れを禊ぐ」と言えば抽象的すぎますが、自らを悔い改め、学びを次の行動に活かし、人生の指針にしていくというのは、案外具体的です。
私はそれこそが神示にいう「身魂(みたま)磨き」であり、「祓い清め」なのだと思います。

魂が歳を取らず、無限に魂を磨くことができるならば、私たち人間でも「祓いの化身」になれるということです。
つまり、私たちは努力次第で「瀬織津姫」「瀬織津彦」になれる器なのです。

これまでの時代は、社会に定義された「こうあるべき」という何の根拠もない価値観に振り回され、私たちは本来の生き方を見失っていたのです。
誰かが「お前は〇〇だ」と批判するのを恐れて、自ら先回りして、遠慮しながら生き方を決めてきたのではないでしょうか。
けれど、そうして人を縛り上げる世の中そのものが先行かない現状、もはや批判を恐れる必要はありません。

社会にキッチリ規定された「普通の人」であろうとすれば、この世を変えることは難しいと思います。
それには神々の力添えが必要であり、その祈りの力を自分の行動に紐付け、神と共に歩み出すことです。

私たち人間は、自らを省みて魂を磨くことで本来の自分を取り戻すことができます。
世にある「限りなく白に近い黒」を「白」と言い張ることなく、自分の心の「灰色」を白く洗い切り、本当の「白」に戻って生き直せる時が訪れたのです。

「過去」のしがらみを捨てるのは大変ですが、それを捨てきる勇気を出す人から先に、道が開けていくのが「大峠」だと思います。