反転攻勢が始まった

楽太郎です。

6月21日夏至に「精神界」の気場が完成し、25日の新月から神世の時代が始まったことを実感しています。
以前として世に変革の波は出て来ず、邪気も浮遊霊による霊障も収まる気配はないように思います。
精神界という新たな霊的空間にアクセスできる人々は、こうした幽界的影響から相対的に距離を取っている状態ですが、それゆえに襲いくる邪気の強度は比例して高まっているはずです。

私の体調がとても不安定だなと思うのは、憑依が抜けている状態と霊障を受けている状態では天と地ほどの落差があることです。
憑依を受けている間は殆ど重病なんじゃないかみたいな錯覚すら受けるのですが、それが取り払われると天国にいるような感覚になります。
やはり、普段は精神界に接続していると高い波長の平和的なエネルギーを受けて、何でも許せるような気持ちになるのですが、憑依体の悪意の強さは身体で受けきれないレベルになりつつあります。

正直、もう少し霊障に関しては穏やかになると思っていたのですが、逆にエゲツなくなってきているようで、しかし私が次元上昇にしくじっているわけではなさそうです。
体感としては、これまでになかったエネルギーの高まりの中にあって、「霊障は肉体レベルで抑え込める」という感覚になってきました。
これほど強い霊障を受けるのは、私が常日頃から「神に仇なす者たち」を再三ブログなどで挑発しまくっているからで、これだけ神様と共にお祓い作業をしていたら、それは狙われるだろうという納得感もあります。

この「抑え込める」という感覚がどこから来るのか考えてみれば、これまで憑依に対しては受身的というか、来るものから耐えるという防戦一方の感覚がありました。
ただ最近は少し違くて、私がまるで自分で挑みに行って戦っているような、そんな力強さを感じています。
現実面では具合が悪くて寝ているしかないような時にも、私の霊体は違う次元で目に見えない者たちを相手にやり合っている、そういう印象があります。

常々思うのですが、人間は自我がコントロールしていて、ハイアーセルフが全てを知っており何もかも取り仕切っている、というのは若干違うのではないでしょうか。
ハイアーセルフは「霊界の自我」であって、それは魂として自分で感じ取れるのですが、その魂は自分自身に対して対話的な存在ではなく、むしろずっと沈黙しているように思えるのです。
そのハイアーセルフ自体も、おそらく過去世から因縁のある霊人たちや現世の先祖霊、現代に関わる人々からの生き霊、外的に存在する不浄霊や精霊や神々、そういった雑多な霊的コミュニティが存在していて、その霊団の中心にいるのが霊体としての自分なのではないかと思います。

だから何かインスピレーションを受ける時、特にメッセージや言葉を受け取る時は、最終的に自分の言葉に置き換えられるとしても、その発信源は自分の魂を取り巻く霊団から送られてくるのが殆どで、自分にはない波長だから「メッセージ」としての外部的要素を持ちうるのではないでしょうか。

よく人間は寝ている時に魂が身体を抜け出して、魂の故郷に戻るという話を聞きますが、私たちは霊魂であるのが本来の姿であり、この世は修行のために用意された仮初の仕組みですから、実際の働きがあの世で起こっていると考えるのは辻褄が合います。
スピリチュアルの世界でも「霊主身従」と言われますが、霊界という沈黙の世界に真の自分がいて、その命令を受けたこの世の自分が、「自由に物事を考えて行動している」と錯覚しているだけのような気もします。

日月神示など伝統的な心霊書でも、「霊界で起こったことが現実界に反映される」という話があり、その認識は遍く全世界にあります。
つまり、やはり私たちの本体は目に見えない世界こそにあって、その本当の私が様々な霊人と関わり合い、折衝をしたり反発したりして現実界の私の現象に立ち現れてくるのだと思います。

だから、私が現実界で人間の集合無意識にアプローチし、その背後に蠢く「神に仇なす者たち」を挑発しまくって、目に見えない霊的世界でバチバチにやり合っているというのは意外に考えられるのです。
「争いなんて野蛮だ」と思われるかもしれませんが、おそらくこの世界の浄化は日月神示でも言われている「正神と悪神の戦い」の中で起こっており、人間が平和が良いと言っていても神様たちはおそらく戦っている最中です。

人間のために戦ってくださる神様にばかり戦いを背負わせて、守られている人間が「争いなんてヤダヤダ」と言っているわけにはいかないのではないでしょうか。
だからこそ私は精神界の気場の防衛に参加してきたという実感があるわけですし、今バチバチに戦いをしているという感覚もあります。

ただ先ほど書いたように、この「戦い」も感覚が変わってきて「攻めに転じた」という印象があります。
これまでの防衛的な意識では、やはりどこか耐え忍ぶ部分があり、状況を守り通すことで精一杯という感じでした。
けれど最近は「やってやる」という前のめりな勢いがついてきて、現実の行動もそのエネルギーを受けて積極的になってきました。

この「反転攻勢」の感覚は、やはり精神界の気場の完成と始動において無関係ではないと思います。
おそらく、私が神様たちと共にお祓いをしている相手は、「人治の世界」を支配してきた存在です。
彼らを倒すというより霊的浄化や改心を促して回っているのだと思うのですが、彼らを弱体化させることは「人世の気場」を削り取っていくことを意味します。

つまり、この反転攻勢は盤石すぎて飽和した状態から身動き一つ取れなくなった世界を切り崩し、風穴を開けていくことになると思います。
だから石破総理とトランプ大統領の就任以降、特に何も変わらずダラダラ悪くなっていく世界は、これから霊的次元からの変化が反映していくことになるはずです。

今、この状況でどれほどの人が精神界の気場からエネルギーレベルの変革を行っているのか、私には判断がつきません。
しかし、霊的な次元は時空を超越しているので、参加者が実際に知り合いでなくても霊団としてすでに繋がっていることはあり得ます。
その人々が実際に出会わなくても、霊的次元で済む話なら出会うことはないかもしれません。
そこら辺は神々のご計画の範疇というか、必要な時に必要な者たちが巡り合わされていくのだろうと思います。

先日、国内回帰して復活した小沢健二さんの新曲「演歌がいいから」を聴きましたが、ああいう日本を代表する人が日本文化への憧憬と海外文化への懐疑を直接曲に表現するというのは、感慨深いと思いました。
おそらく、日本の神々からの「温故知新」というメッセージを正しく受け取っている人は思ったより多いかもしれません。
それだけアメリカ始め社会情勢のレベルで「何やってんの」という空気になっているのも現実にあるわけですが、そうでなくとも感性の鋭い人は似たようなインスピレーションを受けているのだと思います。

小沢健二さんに関しては往年のファンで、復帰以降も新曲共によく聴いています。
単なる感想ですが、「東大900番講堂講義」あたりで小沢さんの癖が出たというか、ファンというより日本人なら誰もが「ラブリー」とか「愛し愛されて生きるのさ」みたいな底抜けに明るいポップソングを歌って欲しいと思っているのでしょうが、そこで我を出すあたり小沢さんらしいなと思います。

ただ、やはりどの曲も破天荒な楽観主義と人生讃歌が小沢さんの作品の真髄にあって、今何となく「この世界がつまらない」と思って生きる人々には良いカウンターになると思います。
そう言ったパンクさが今の時代には必要であり、神様はこの世を変えうる人々にそのメッセージを送っているのだと思います。

日本人よ、今こそ飾り立てられた古い衣を脱ぎ捨て、心地良い大和の衣を着直そう」と。