「神人」とは何か

楽太郎です。

先日、「個の岩戸が開けた」と書きました。
「岩戸開き」とは、一般的に「○」という「カタ」、いわゆる形骸化した物事に本質的な部分「・」、「キ」を入れることで「◉」の完全な形に納めることを言います。

日月神示の言い方を鑑みるに、人間が「◉」の状態になることが「神人」になることであり、それには人間の「・」と神の「・」を繋げることで、人間と神の心が一つになる、と表現されています。
この「神人」というのは、ある特別な能力者を意味するのではなく、身魂を磨いた人間なら誰もが到達できる、大乗的な性質を持っているように思います。

私はこれを「神留まり」と呼んでいますが、神人となった人は信派や宗教に関係なく、また自覚や思想に捉われず、いずれは人々が無意識にそうなっていく「状態」に過ぎません。
今はだいたいの人の身魂は曇っているので、神様と繋がることはできず、それゆえに「神人」と言えば特殊能力者や救世主のように捉えがちですが、今は稀有なだけで最終的には人類全員が「神人」となっていくでしょう。

それに何百年、何千年かかるかわかりませんが、この「大峠」「三千世界の大洗濯」は、その「神の道」を切り拓くための大事業であり、だからこそ今、時代や文明の変革期を迎えようとしています。

今は「九分九厘」まで「幽界」の領有物となっており、「○」だけになっているからこそ、人は本質を見失い形だけに囚われ、根拠のない常識に流され権威や数字の大きさに判断を頼る思考になっているのです。
そこに「・」を入れ本来の「◉」とする時、そうなった物事は「神界」の事象となり、「弥栄」の性質を持つでしょう。

こうして考えれば、「岩戸開き」があらゆるレイヤーに起こりうる、全てに準備されたエレメントなのだと思います。
「一二三(ひふみ)」は〇から十まであり、「八」が開きの数字であることから、岩戸開きの段階は八段目に当たり、残り「九・十」の二段あることになります。

「九・十」で「コト」と表現する、神示の表現に重要なヒントが隠されています。
「地つ巻・第三十四帖」には「神は言波(ことば)ぞ、言波とは誠(まこと)ぞ」とあり、また「日月の巻・第十五帖」には「神称える辞(こと)が光透(こと)ぞ」「神の申すコトはコトであるぞ」とあります。

「八」で人の心に神留まった後、その神を「祀る」生き方の実践が「光を透す」「九・十」になるのだと思います。
それは「一二三」の終わりでありながら、全ての始まりでもあり、終わらない「一」であり、「キ」の入った「一」が「十」を意味するのだと思います。

つまり、「神祀りの実践」こそが「九・十(コト)」であり、神は言葉となり言霊となり「誠」となり、その使命が「命(ミコト)」になるのではないでしょうか。
「九・十」とは実践こそがコト、「一二三」であり、日月神示の教えを実地で広めていくことになるのだと思います。

ゆえに「大峠」の終わりの「九・十」は「神祀り」であり、「八」で岩戸が開け「神の道」が開通し、真の神道の実践が始まる「一二三」を以て「十理(トリ)」となり、大峠は踏破され終焉を迎えるのです。
しかし「下つ巻・第三十四帖」には「胸つき八丁からが正念場」とも書かれており、「八」の岩戸開きからが本当の試練かもしれません。

これは厳しい道のように感じられますが、大神から「分御霊(わけみたま)」を授けられ、身魂を磨けば誰もが神人になれるからこそ、その「神の道」は大道であり、宗教や思想を問わず全ての人が「実践」することができます。
人類全員ができることであるがゆえに、今は「○」のみとなっている「幽界魂」の神の子らも、改心せよと神示では口酸っぱく語られるのです。

「神道」とは「実践」であり、それが生き方の「技術」であり「方法論」であるからこそ、戒律も集団も必要なく神の「導き」と身魂を磨く心構えさえあれば、全人類が歩める「道」となるでしょう。

私はその実践方法をいち早く取り入れたに過ぎず、従って自らを「神人」と名乗ったところで、いずれは通りすがりの人も神人となる時代が来るのだから、それを口実にして得をすることに大した意味はありません。
大事なのは、この道が神様から示されたものだからこそ、多くの人に広めていかねばならないということです。

それは「実践」を通して、実地に見せて「こういうことだよ」と言っていくのが一番です。
それが人に背中を見せることだからこそ、私自身が中途半端であってはならないのです。
今は、それを考えると身の引き締まる思いであり、自分の人生が開けていくことに浮かれる余地もありません。

さて、いきなり濃い話をしてしまって恐縮ですが、今回はもうちょっと実世界の話に戻そうと思います。

今、おそらく日本で生活している殆どの人が「生活のしづらさ」を感じ、物価高と賃金据え置きで苦しんでいます。
仕組みから言えば、企業が従業員の賃金据え置きに加え、物価高との微妙な差額分を企業の「利益」とし、インフレを利用して内部留保を蓄える傾向にあります。

だから企業は営業利益は横ばいでも、フリーキャッシュフローは伸びているはずです。
ゆえに企業の増収増益が相次ぎ、日本の株式市場は好調なのです。
この現象は国家経済からしてみれば左団扇でしょうが、労働従事者である日本の国民からするとジリ貧になっていくだけなので、とても好ましい状態とは言えません。

この「企業はどんどん堅調になっていくが、従業員はますます痩せ細っていく」という構図は全世界共通です。
企業は株主に対して配当を出し、組織として存続していくために数字上の利益を伸ばさなければならず、この景況で組織として生き残るためには物価と従業員の賃金に転嫁して儲けとしているわけです。

人間が社会で生きる上で働いた賃金でモノを買い、生活しながら自身の幸福を叶えるという当たり前のことよりも、むしろ「概念」や「理念」に近い組織や企業の名目の方が優先されているからこそ、人々の生活が逼迫され続けているのです。
これこそ「本末転倒」であり、市民の幸福のために行われる経済活動が、むしろ市民の生活を犠牲にして成り立つのが現状であるからこそ、もっと憂慮されるべきなのです。

つまりは従来の「経済の仕組み」を維持するために、物価高を容認し賃金を据え置き、日本人よりも外国人労働者を優遇し、経済的には何の得もない円安傾向を受け入れているのです。
時代は変わるべき時に来ているのに、日本企業は未だデフレ時代の経営手法を変えることができずにいるため、サービスの質を犠牲にしながら従業員の幸福度を下げ、企業維持に徹するという選択をしています。

ここで「企業」のあり方を批判するのは容易いのですが、実はここで俯瞰的な見方をする必要があります。
企業が内部留保を貯め、経営として健全化を目指しているということは、逆に「倒産」の増加による経済危機に備えているとも言えます。

従業員として見れば、賃金が上がらず割の合わない仕事と思えたとしても、いきなりクビを切られたり倒産の憂き目に遭うよりはマシです。
今の企業のあり方はやや病的ではあるのですが、組織が自己保身に血眼になっているからこそ、多少如何わしいとは言え集団としての破綻を免れています。

中小企業や個人事業主は、この景況の煽りを強く受けて淘汰され始めています。
しかし、社会全体としてはむしろ、危機を予見し体制を固めている段階にあると言えるのではないでしょうか。

やり方はともかく、これは近い将来に起こるであろう「大恐慌」に対する予防措置のように思えてなりません。
残念ながら、これからアメリカ経済の崩壊は100%起こるでしょう。
そこで見えてくるのは世界同時大不況であり、ただ国際経済が混乱する中にあっても「お金」は消えるわけではないので、投資は引き続き行われます。

現在、米国寡占企業に集中している投資が途絶える日が来れば、経営基盤が盤石な日本企業が、海外から投資を呼び込むには絶好の投資先になるでしょう。
だから、市民として見れば「企業病」に染まった日本経済も、「防災」という観点で見れば最善の行動を取っていると考えてよいのです。

全ての物事には「良し悪し」の面がありますが、「最悪」を避けるためには「微妙な悪」を選んだ方がマシということもあるでしょう。
今の世の中というのは、何事においても汚いやり方になってしまっているのですが、そこを踏み台にしなければ掃除もできないのが現実というものです。

スピリチュアルな話に戻すと、ここでは全て「お金」がテーマとなっており、「お金が必要だ」となるか「いや、お金より大切なものがある」となるかは判断が分かれるところです。
「何はともあれ金」という頭であれば、モラルや社会規範を無視して金儲けに走り、我よしと手段を選ばない方法を取るはずです。
逆に「他に大切なものがある」と考えれば、別のやり方に突破口を探し、創意工夫や発想の転換をして新しいやり方を見つけるでしょう。

この考え方の二極化は、神示で言う「神と獣」を分ける条件になってくると思います。
「お金よりも大切なものがある」という考え方は「・」に向かい、より本質的な部分を追求していくはずです。
しかし「やはりお金だ」となれば、相変わらず「○」の部分だけを求め、手段の選ばなさは結果的に自らの信頼を削り取っていくのではないでしょうか。

これは誰が攻撃するでもなく、はたまた神が手を加えるでもなく、自分の行いによって自滅していくやり方です。
「黄金の巻・第九十一帖」には「神が変えるのでない、自分でなり下がるのであるぞ 」とあり、やはり自因自果による堕落と考えるのが妥当ではないでしょうか。

それでも自分の考え方・やり方を一切疑わず、省みることも改まる気も起こさなければ、現状はどんどん煮詰まり窮していくはずです。
その混乱は周囲に向かい、同じレベルの競争相手や同士討ちの中で、いずれ「共食い」というエネルギーの奪い合いを始め、その様相はさながら「獣」となるでしょう。
それを俯瞰する立場を取れるのが、「我よし」ではない「神」であり、「人」なのです。

この不毛な争いに巻き込まれないためには、「身魂磨き」がやはり重要なのです。
曇ったままの魂では、救いの船と泥舟の見分けがつかないからです。

「これは有名な造船企業の船だし、大きいし見た目も立派だ、この船なら沈まないだろう」
そう思って乗った船がハリボテだったとか、容易にありえるのが今の世の中です。
どうせなら腕のある漁村の船大工の方が、堅牢な船を安く作ってくれたりするものです。

これは「○」の外側の部分だけを見ていたら、判断を誤ってしまうところでしょう。
だから「・」という本質を見抜く目は重要であり、ただ残念ながら見極めの能力を持つ人が極端に少ないのが現状です。

おそらくこの先、「やはりお金だ」と言っている人には用心した方がいいかもしれません。
確かにお金は大切だし無くてはならないものですが、お金を得る手段をどう取っているかに、その人のスタンスが現れます。
それが手段を選ばないようであれば、自分が餌食にされる可能性があり、距離を取って関わるべきではないでしょう。

人間は「良くないもの」に目を向けやすく、騒々しくて扇情的なものほど頭の中に入ってきやすい性質があります。
ゆえに惑いやすいと言えるのですが、逆に落ち着いて物事を見れば、何が危険で何を信用できるかをはっきり見極められるものです。

この「気づき」に対する意識が、ようやく人々の心に芽生えつつあるかもしれません。
世はあまり変化がないように見えて、徐々に空気は変わってきているように感じます。
人々が徐々に冷静さを取り戻し、俯瞰的に物事を見れるようになれば、世の化けの皮が剥がれるのも時間の問題です。

その気づきの先に、世の変革があるでしょう。
しかしそれは神々が一から十まで作り上げるものではなく、この地上に生きる人々が実社会で行っていくべき事業です。

それは骨が折れるでしょうし、今のところ誰にもマニフェストはなく、どうしたらいいか理論的にも見つかっていないのが現状です。
その中で、人間の才知のみでコトを起こすことは不可能に近いかもしれません。

だからこそ「神」の智力が必要であり、これからは天と地の柱となり、心に神を宿した人が活躍していかなければならないのです。
それは決して絵空事ではなく、これまでの歴史が「天才」の出現のたびに世を刷新してきたように、人々が自らの才知を持って世を切り拓いていくということです。

それを行うためにも、やはり「身魂磨き」が必要になってきます。
その浄化を差し置いて世の建て直しは実現せず、時代を切り拓く鍵は、人それぞれの心のあり方に掛かっています。