「誠」とは何か

楽太郎です。

前回の記事「神の心を知る」の中で「悪とは弱さである」と書きました。
これは、直感的には受け入れ難いことかもしれません。

「悪」とは常に暴力的であり、力で他人を組み敷くからこそ逆に力を持ち、強権的手段に打って出ることが多いです。
常に「強者」なのは悪の方であり、実際に善良な人ほど大人しいがゆえに騙され、搾取される側に回っているのは否定できません。

しかし、それは数年とか数十年という人間の尺度としての話です。
「神」の時間軸から見れば、悪はいずれ「破滅」する存在だから、温かく見守る必要があるということでしょう。
常に他人を組み敷くということは、常に力と引き換えに敵対を増やすということです。

そこに抑圧や搾取があるから自分の「力」となるのであり、表面的に周りが同調しようと、水面下では不満や反抗心を育てるはずです。
それを抑えるために更なる力が必要になるため、どんどん力を拡大して影響力を支配に変えて行かなければなりません。

ただ、その横暴に比例して反抗勢力も強まってくるのです。
その軋轢と常に対峙しなくてはならないのが「悪」であり、自分の身の回りを焼き払うことを続けていれば、いつかは自分以外の全てが灰になり何も残りません。
そうして悪は「自滅」していくのです。

「焼畑農業」は、森に火をかけて残った残滓を肥料にすることで、開墾や農地整備が楽になる農法ですが、きちんと肥料を撒いて正しい農業をするより生産性が低く、そのため農業の世界では推奨されない手法となっています。

でも「悪」の世界においては、「農業」のように年度ごとに見られる時間感覚はないため、数十年という時間をかけ、結果に至るまで順風は続きます。
だから悪が勢力を持つうちは、側から見れば世が尽きるまで繁栄が続くかのように錯覚してしまうのですが、不毛な農作放棄地を拡大し続ければ、いずれ得るものがなくなるのは「法則」に近いのです。

ゆえに自分の周り以外には見通せない視野の狭さと、先を見通すにしても数年程度のもの、自分の力と「運」に任せるようなやり方が長く続くはずがありません。
それゆえに「共存共栄」の道を選択し、きちんと土地を耕し、肥料を撒いて作物を丁寧に育てるやり方が、末永い繁栄をもたらすのは言うまでありません。

「我良し」で一世一代の繁栄を目指すのが「悪」のやり方のため、栄枯盛衰のタイムテーブルが短く、それゆえに悪は滅するのも早いのです。
そこで悪に与せず、歯を食いしばって短期の利得を拒み続ける人というのは、逆に「損」をするように見えます。
しかし、ここで盛者必衰の流れに飛び込んでしまった者は、やはり親玉と共に凋落の道を辿ってしまうでしょう。

これは「目先の利得に弱い」ということであり、「共存共栄の価値がわからない」ということでもあります。
それゆえの「無知蒙昧」であり、「智(智慧)に弱い」からこそ自分の首を自分で締めて、自滅するようなことを選んでしまうのです。
またそれを避けるために更に「力」を求める脳筋さのせいで、合理性に欠ける極端な行動を選択し、むしろ自滅の道を早めてしまいます。

これを俯瞰した視点で長年ご覧になられた神様が、逆に「悪の方が気の毒だ」と思わない理由があるでしょうか。
神様ですから、いちいち悪を裁くことも可能なはずで、敢えて細かく手を入れようとせず、成るに任せている節があるのは、黙っていても滅ぶ性質のものだからとしか考えられません。

「智に弱い」ということは本質がわからず愚かであり、それだけで不幸と言えます。
だからこそ悪を憐憫し、万物の産みの親である伊奘冉命は「黄泉の国」に残り、亡者たちを見守るお役を選ばれたのかもしれません。

「目の前の利得が全てであり、それを得るためには手段を選ばなくてよい」という考えは、目に見てわかるような「悪人」だけが行うこととは言えないでしょう。
私たちは多少なりとも「方便」を使い、うまく利益を誘導しながらお金を稼ぎますが、それが度を過ぎたら、私たちが忌み嫌うような悪業と同じになるかもしれません。

例え方便でも、勢い余って「嘘」になっても、儲けた方が良いというのが今の世の中ではないでしょうか。
むしろ、方便を使い分けて成果を出す者ほど「優秀」と呼ばれ、組織でも経済界でも上に登っていく仕組みだからこそ、金と数字さえ揃えば何とでもなる社会になったと言えます。

ただ、そこに「誠実」があるとは限りません。
お金を稼ぐのに、思うほど「誠」である必要はないのがビジネスの世界だったりします。
「誠」があるとすれば、利得と打算に対する「忠誠心」であるとも言え、お金や成果のために感情を犠牲にできるかという覚悟でもあるはずです。

逆に言うと、自分自身の感情に正直であり、他者に対して誠実であれば、姑息な手段を取ることはできません。
ゆえに「誠」であろうとすることは、時に自らの利得に反し、短期的な成果を望まない姿勢は逆に忌み嫌われる対象となり得ます。

つまり、「誠」であるほど得をしないのが、この世の道理と言えます。
世が「利益追求型」の社会だからこそ、自ら利得を捨てる行為は「愚か」であり忌避される考えであり、それを選び取る者はますます少なくなるでしょう。

「誠」を行動に移す者が世から姿を消すほど、社会はどんどん捻じ曲がっていきます。
それでは全員が不利益を被ることは誰にもわかるため、「誠実さ」の代わりに同調抑圧を強め「ルール」を徹底した社会にしようと画策し、例えば業務中にコンビニで飲み物を買っていけないような「コンプライアンス」に喘ぐ社会を作り出したのではないでしょうか。

「リンゴ」を「茄子」だと言う人はいません。
しかし、「利得を善」だと思う人が、本当の「善」を見ても「善」と思わないとすれば、本当の「誠」を見ても「偽善」のように感ずることもあるでしょう。

実はこの「蒙昧さ」に悪が潜むのですが、ここに気づく人はあまりいません。
「リンゴ」を「茄子」と言う人がいれば、誰しも見れば間違いであるとわかるため、人は揃って誤りを笑います。
しかし大抵の人が間違いに気づかず「リンゴ」を「茄子」と信じていれば、ずっと取り違いを誰も咎めない状況は続きます。

世の中というのは、未だに「リンゴ」を「茄子」だと言い切り、それに対する反論を許さないからこそ、ずっと「方便」を容認し「悪」を受け入れる風潮を生み出し続けているのではないでしょうか。

そこで「それは茄子ではない、リンゴである」と言えば、そう信じきっていた大抵の人からは、批判されるのは目に見えています。
しかし、誰かがその間違いを指摘しなければ、永遠に人々は「リンゴ」と「茄子」を混同し続けるのです。
この間違いに気づいた人がいても指摘せず、誰も修正しようとしない状況が続いたからこそ、世の中は歪みを深めていったのではないでしょうか。

それゆえに今は、「誠」という知性の光が届かない世になったと言えます。
人々は「利得」と「善」、つまりは「リンゴ」を「茄子」だと信じ切っているため、自らの正当性や確信が揺らぐことを恐れます。
「事実」に気づくよりも、「誤謬」の中に身を置いていた方が自分にとっては都合が良く、認識を糺さなければ自らの過ちに向き合わずに済むからです。

その「誠」とは確かに「真実」であるでしょうが、証拠を揃えて人々を屈服させる「真実」とは、必ずしも同じ意味ではありません。
「誠」とは真実そのものではなく、真実に向かう力であり、真実に対して「誠実」たろうとする姿勢そのものです。
ゆえに真実を知るということは、他人を組み敷くことを目的とはしないのです。

真実を追求する姿勢は、より「蓋然性の高いもの」、「最善」に向かう力として現れます。
ただその「最善」は、必ずしも現実としての「最適」を伴わないでしょう。
世が利益追求を至高とすれば、利益に反する「誠」は逆に忌み嫌われる対象となり、実践には批判や「損」が付きまとうからです。

それを加味した上で、敢えて誠実さを選ぶところに「誠」があるのだと思います。
ただ周りに事実を指摘し、自ら筋を通すというのは、自分だけでなく他人にも不利に働くことがあります。
全てにおいて「真実」をあるがままに口にするようでは、どこでも爪弾きにされるのが世の常というものです。

だから「誠」を行う者は、実は黙っていた方が身の為なのです。
「バカ正直」と「誠実」は違います。人間は建前を最も重視する生き物ですから、むしろ本当のことを指摘すること自体が「野暮」だと思われることが殆どです。
ゆえに「真実」を知りながら沈黙することは、事実や本質を知る「責任」を抱えながら「他人に伝えない」という呵責も同時に抱えることになります。

そして、ここで抱える「呵責」もまた「誠」を持つ者にとっては「損」であり、試練の一端となってしまいます。
ただし、リスクや責任を受け入れながら「誠」を信じて実直に生きるところに、人は「使命」を実感します。
「使命」とは簡単に果たせるものではない、人生を貫くようなテーマがあるからこそ、その役割に気づいた人は「誠」であることの重責を受け入れることができます。

そこにある「信念」は、おそらく容易く他人と共有できるものではなく、大体は自分一人で抱えることになり、孤独の道を歩むことになるでしょう。
そうして突き進む道は、ただひたすらに高みを目指すものとなり、それは「孤高」に向かうと言えます。

そこに他者の同調や追随を許すことがないからこそ、自分は世界で「唯一無二」の存在となっていくのです。
それが日月神示で言う「富士(不二)」への道であり、「魂」が全てを貫くからこそできる生き方です。

そこで自分自身を「誠」だと、「誠実でありたい」と言えば、大抵は人様から弱いところを突つかれて恥をかくものです。
だからこそ、生半可に「私は誠実である」と言わない方が身の為ですが、逆に宣言するからこそ油断が許されなくなり、より「誠」は芯を持ちます。

逆に言うと「油断をしない」という自信がある者だけが、「誠」と言いきることができるでしょう。
そこで孤立を恐れず、批判を避けないという覚悟にこそ「誠」が宿ると言えます。
芯を貫くために必要なのは肝や勇気ではなく、自分の信念を貫くことへの覚悟であり、誠への「確信」であるのだと思います。 

その時その時代の正解、最適解が必ずしも最善ではない、という話はしてきました。
言わば「誠」とは、人々の論調に対峙するためにあるのではなく、論破して落とし所を見つけるためにあるのでもないでしょう。

いつの時代も、結論として同じ所に行き着くのが「誠」であり、それが世の本質であり法則だからこそ、時代を超えて揺るがない思想となりうるのだと思います。

これらを実際に徹底すれば、どう考えても不利に働くのは言うまでもありません。
だから、「誠」であるという理由だけで目先の利得を放棄する者は、日月神示的に言えば「阿呆」なのです。
けれど「利口」ばかりの世の中が、なぜこうもギスギスした居心地の良くない社会なのかと言えば、その「利口さ」が本当の賢さではないからである、と言えるのではないでしょうか。

利得を考えれば、嘘や方便を上手くつけば良い成果は得られるでしょう。
神示で言う「逆さ大の阿呆」というのは、自らの利潤のために焼畑を行うような者たちのことで、その意味での「利口さ」は、いずれ行き詰まるのは言うまでもありません。

「誠」は正直な道ゆえに損もしますが、それ自体が「器」を試されるとも言えます。
どれほど貶されても、落とすことのない信念だから「誠」と言うことができるのであって、最初から批判が怖くて出したり引っ込めたりするようでは、「誠」という言葉を当てることはできないでしょう。

いくら「阿呆」と言えど、自ら進んで貶められ、騙されに行く必要はありません。
「悪」を知り「偽り」というものがどういうロジックで成り立つのかを理解すればするほど、「誠」は強くなり説得力を持ちます。
だから「阿呆」になるということは、真の意味で「利口」になるということです。
その聡明さは、自分の身を守るだけでなく、守るべき人を守り、迷える人を導く光となるに違いありません。

今の世というのは、「蒙昧」であることを個人の「利得」に繋げようとする社会です。
それはサービス元が人を欺くという意味だけでなく、私たち消費者が「騙されていた方が楽しい」という意味でもあります。
ただ長い目で見ればそれも「搾取」であり、こちらとしてはイーブンどころか得していると思っても、実際のところは一方的に毟られている部分の方が多かったりします。

これに気づき、周りに「こうなんだよ」と言ったところで、大抵の場合は聞き耳を立ててもらえず、白い目で見られるでしょう。
しかし「誠」で生きようとする人は、それを黙っていても呵責を感じてしまうはずです。
その時、こう思うかもしれません。
この世の中の仕組みを、根本から変えるしかない

私はその結論に辿り着き、こうしてブログを書き始めて、今回の投稿でちょうど一年です。
時に不安に怯え怒りに震えながら、フラフラすることはあっても、ブレずにやってきたことだけが私の自信に繋がっています。

「どこの馬の骨か」と言われるのも重々承知ですが、「誠」に肩書きを求めれば、逆に誠というのは掴めないものです。
その点、私は自分の求める「真実」に忠実であれたことに誇りを感じます。

これからも気に食わないことは「気に食わない」と正直に言い、自分が思うことは素直に表現して書きたいように描く、私はそんな「阿呆」でありたいと思います。