神様からの「クイズ」

楽太郎です。

昨日、街へ行きiPhoneの修理を済ませて来ました。

久しぶりに街へ行きましたが、また大型店舗が姿を消していました。
街の不況感は加速していますが、人々からそれほど悲壮感を感じないのは不思議でした。
むしろ若者の姿が目につき、彼らのエネルギーを強く感じました。

最近の若い親たちは、特に子煩悩だと思います。
目線を子供に合わせる大人が周りにいて、今の子供たちはある意味恵まれていると思いました。
世は混沌として大人さえ不安ですが、子供たちに不安を抱かせまいと頑張る親たちには頭が下がります。

けれど率直なところ、人々が変化を起こそうとしている気配は感じませんでした。
今あるもの、来たる現実を上手く乗り切るために、多少不恰好でも工夫を凝らしているように見えます。

私はその光景を見て、何となくギャップを感じました。
私は人々が困っているだろう、何とかしなければと思っていると感じていたのですが、街行く人々からは「今」という感覚だけがあり、今ある状況の中でできる限り楽しく生きようとしているように見えました。

人々がこのままで良いとは思っていないにせよ、自分の力、あるいは自分たち国民の力ではどうにもならないことは薄っすらわかっていて、かと言って落ち込んだ気持ちで生きるべきではなく、だから与えられた現実の世で楽しく生きようとしているのだと私は思いました。

街を見回してみて、これまでの私の考えが頭でっかちで、妄想じみた感覚で一方的に世の中を捉えていたわけではなく、やはりどう考えても立ち行かなる未来しか見えませんでした。
どの道、役に立ちそうにないAIや、奴隷労働に近い条件で雇用している東南アジアの人々に経済を支えてもらおうという考えは、早晩潰えると思います。
日本は、このままの規模の経済を保つことは難しいでしょう。

だからこそ、人々の健気なポジティブさをどう感じ取ればいいのか、私はしばし戸惑いました。

けれど、私は常日頃から人々が幸せに生きることを願っていますし、とは言えその生き方を続けるべきでもないと思います。
確かに、「美醜」や「善悪」に基づいて人々の生き方や価値観をジャッジしたくなる気持ちはありますが、それにしても「そのままではいけないだろう」という感情が無きにしもあらず。

ならば、人間はこの先どうすればいいと思う?

その問いと向き合うことが今日、私が街に行く用事ができた理由なのだなと思いました。

この国のあり方が例え正しくなかったとしても、私が自分の善悪で世を変えようと思った時、その正しさを人々に強要することは、日本を貧しくさせた一部のエリート階級や海外のテクノクラートが行ってきたことをトレースするだけではないか、そう私は自問自答しました。

私だけが「善」ということは決してなく、様々なやり方で幸せを感じる生き方があってもいいですし、とやかく言いたがる私の融通の効かなさも問題です。

何だかんだ言って、あれ程しょうもない自分を叩き上げて、一応立派に育ててくれた社会には感謝しているのです。
色々な人がいて様々な正解が用意された世界で、それぞれの学びや幸福があればいいのであり、それが世の本質なのではないかと私は思います。

ふと帰りの電車の中で、私は神様から「クイズ」の念押しがなされていることに気づきました。

ホームから電車から、常にスマホを片手に、あの板切れをしっかり握る人々の集中力の高さには違和感を覚えました。
スマホに変わる前はケータイで、ケータイの前は本か新聞だった電車内の風景も、なぜ疑問を持たなかったのかと言えば、私も普通に同じことをしていたからです。
けれどスマホに楽しさを感じなくなって初めて、この違和感に気づきました。

そこに醜悪さを見た時、神様から「お前はどう思うのか?」と問われている気がしました。
お前がこの世界をどう捉え、それに違和感を感じるならば、その世界をどう変えたいのだ、と。

私は確かに、人々がスマホに向かいすぎるのは、スマホには「何でもありすぎる」からであり、人との繋がりも娯楽もビジネスも、成功や人生の計画すらあの板切れ一つにぶち込まれていたら、確かにそれしかなくなると思います。
つまり、「何でも詰め込まれすぎている」この板切れがあるからこそ、人々がデジタル越しに見る世界に心を奪われるのです。
これをどう見るべきか、私は修理したばかりのiPhoneを思い出していました。

けれど冷静に考えて、今の状態が未来永劫ずっと続くわけはありません。
かつての新聞や本がケータイに、ケータイがスマホになっただけで、また次の時代には違う何かに変わるだけです。
スマホは実際に悪意ある商品だとは思いますが、かと言ってスマホ自体が悪なのではなく、人々は今ある状況の中で最善の方法を選んでいるにすぎません。

問題があるとしたら、学校へ行き会社へ行き、郊外の家に帰る電車の決まった時間が「退屈」で、ストレスが溜まることそのものであり、その習慣の画一性にこそあるのではないでしょうか。
そして、その暇つぶしが「スマホしかない」という今の状況にあるのだと思います。
或いは、商店や書店や映画館や劇場が廃れ、あらゆる産業がデジタル化した時代において、消費文化がスマホに一極集中していることにもあるでしょう。

要は、世の中にもっと多様性があれば、夕方に帰宅ラッシュは起こりませんし、隣の見知らぬ人と世間話をしても、ガムを噛んでもビートを刻んでも、好きにやったらいいのです。
けれど、「それをやったらおかしい」という同調圧力で、結局は一番大人しい、誰もがやっている行動に落ちつきます。
何でも没個性的に、「一つに纏まろうとする」傾向だけが問題なのであって、多様性に対する許容が人々になさすぎることが原因なのではないかと思いました。

特に左巻きの人々や、グローバリストは人の行動に色々な角度から難癖をつけたがります。
彼らは口では「多様性」とか「公平」とか言っていますが、多様性の権化たるオタクを叩きたがるのも、オタクが「叩きやすい対象」だからです。
この世界を綺麗事で塗り固めたい人々からすれば、「選択可能」な社会とは「自分たちが選択した選択肢の中の選択」を人々にさせることによって、世をわかりやすくしたい訳です。

そこに人々の自主性や個性に対する尊重や、人間が無条件に幸せになって良い、という発想がありません。
けれども、そう言った彼らの画一的思考も許容してこそ、真の「多様性」はあります。
本当の問題は、彼らの価値観があまりにも強権的になりすぎて、その影響力の発露を誰も止めることができず、抑圧される人々がいるということです。

だから、やはりテーマは「画一性と多様性のバランス」であり、今の世は真の多様性とは程遠い世の中になっています。
その画一性はルールやマナーといった規則的なものだけでなく、「皆と一緒なら安心する」とか「自分が変に思われたら嫌だ」という内面的な作用まで、外側に合わせる働きが強いために起こることです。

だから、この社会の問題と向き合うには、この「一極に向かう力」をまず認識するべきであって、この世の人々のしがらみも歪みも、この収束力に対する抵抗から生まれているのではないでしょうか。
とすれば、「善」というおおよそ一つになりにくそうな価値観ではなく、「悪」と人々が感じうるものにこそ多様性を見いだすべきであり、いちいち「あれが悪い、これが悪い」とジャッジする心が多様性を阻害しているとも言えます。

そう考えると、私がこの日街に出て考えたこと、自分が「この世界を変えたい」と思う時、私自身が「あれが悪い、これが悪い」と評価することは、結局グローバリストが人々にしてきたことを繰り返す恐れがあります。
神示にある「悪を抱き参らせる」とは、自らを「善」として相手を見下げた状態ではならず、最初に「悪」を無条件に許した状態から始まる必要があります。

しかし、おそらくその境地で物事を考えた人間は、歴史上どれほどいたのでしょうか。
直感的に不可能とさえ思える感情の両立を、どう乗り越えていけばそう考えられるのか、今の私には想像ができません。

「悪い」と思うから、不快に感じそのままではいけないと思うからこそ、世にある問題を解決しようとします。
不快に感じるにも理由があり、いくら度を超えた残虐さでも、それを許すところから始めなければならないのは想像以上に難しいことです。

けれど、その不快をことごとく排除しようとした結果、争いが耐えなかったり、人々が似通った行動ばかり取らざるを得ず、かと言ってその画一性を批判するのも悪になります。
ただ、この葛藤は「何が良くて何が悪いのか」から始まっており、つまり善悪を決定しようという意識がもたらしているものです。

確か、ギリシャ哲学には「エポケー(判断停止)」という概念があります。

私たちは自分の制御が効かない、あらゆる事象に「良し悪し」とジャッジをつけ、何とか干渉してコントロールできないものか考えます。
けれど、そんなのは当事者からすると「余計なお世話」で、むしろ放っておいてくれた方がお互い上手くやれたりもします。

あれこれと物を考えすぎ、人の足元を見すぎるからこそ、全く無関係の自由にやっている人の行動が気になるのです。
むしろ良し悪しを「エポケー」することで、善悪という思考のしがらみから抜け出すことができ、その方が無闇にストレスを感じず、自分のためにも世のためにもなるのかもしれません。

だから、神様からのクイズの答えは「自由にすればいい」です。
それでも不味ければ人々が自分たちで変えるでしょうし、人々に変える気がなければ神様が変えられるはずです。
私は、私のやるべきことだけをやって行けばいいだけですし、実際にそれ以上のことはできません。

これが私の答えです。
ファイナルアンサー。