「今」できること

楽太郎です。

やはり、「秋分」を境にガラッと空気が明るくなったのを感じています。
私自身が日食新月を通して、「巡り」つまり負のカルマの精算がだいぶ進んだのも大きいと思います。

この「大峠」というのは、古い時代から新しい時代の間にかかる「峠」を意味します。
それゆえ「古い自分」を捨て去り、「新しい自分」に生まれ変わる過程が、本来の意味での「大峠」なのだと思います。

これは目に見えず、本当に起こっているかは本人にもわかりません。
しかし、誰しも今のやり方、今までのやり方に対する疑問や葛藤を感じているのではないでしょうか。
その内面的な抵抗が、現世で私たちが立ち向かう「大峠」の正体です。

ただ、「葛藤」というのは勝手に生じてくるものではなく、それなりに現実的な根拠があるから心に起こります。
例えば会社のやり方が酷く気に入らないとか、自分の仕事がこの先続いて行けそうにない、という状況に巻き込まれたり、あるいは世の政治に疑問を持ったり、SNSでの人々の意見に違和感を持ったり、というのもあるかもしれません。

「大峠」というのは、人それぞれに人生のテーマや使命が違うように、立ち現れ方も目的も異なるでしょう。
それぞれの人にそれぞれの「大峠」があるわけですが、今は全ての人にそのきっかけが与えられているように見えます。
それを世の現象に当てはめてみれば、世界的な政治経済を巡る混乱であり、モラルハザードや文明の衰退であったりするのだと思います。

「広義」の大峠と「狭義」の大峠があり、そのどちらも本質は一緒ですが、広義の大峠が先立ち、それに巻き込まれた個人が狭義の大峠と向き合うことになります。
各々が狭義の大峠を乗り越えた時、最大公約数としての広義の大峠が終わるのだと思います。

そして、それぞれの「大峠」は量産型の生き方に染まった古い自分を脱ぎ捨て、唯一無二の自分に立ち返り復活する時、踏破することができるはずです。
それが神示に語られる「富士=不二」であり、その登山の苦労が終わる時「苦(く)の花が咲く」、富士山の守護神たる「木之花咲耶姫」は花を咲かせます。

それが「鳴門=成る戸」の仕組みであり、「岩戸開き」なのだと思います。
この岩戸開きにも「狭義」と「広義」があって、個人が唯一無二の自分に立ち返ることが狭義の岩戸開きだとしたら、広義の岩戸開きが成就した時、「国常立尊」が天の日を嗣ぎ、「天日月大神」としてご降臨なされ、「弥栄の世」つまり神世が始まるのだと、私は考えています。

その現象の一環として、世の閉塞は元より「次元上昇(アセンション)」が起こっているのではないでしょうか。
そう考えると、近年に起こったことは大体辻褄が合うのです。

「グローバリズム」という、不可解なレトリックが世を席巻し、大衆は反感を持ちながらも巨大権力が高圧的に押しつけ、無理やり推進してきた経緯があります。
私は、そこに「金と権力」の最終形態があるように思えてならず、魔物化した「資本主義」が、人々の命すらも換金の対象にし始めたように思えます。

それが現在も続く、いくつかの不可解に始まった戦争です。
これらの戦争の違和感の中心には「アメリカ」という国があり、「わざと煙が立てられたように見える」所から始まっているということです。
これまで事実上、アメリカという国が賄賂で回る政治を採用し「利権」がものを言う国だからこそ、戦争という「事業」がアメリカの権威を下支えしてきました。

それはまさにアメリカがこの1世紀、対外的に行なってきた明々白々たる歴史であり、私たちはそのトリックの内側で目を逸らされ続けてきたのです。
その傘下にある日本が、彼らの影響を全く受けていないはずはありません。
それが戦後80年を経てこれまで以上に表出しているのを、私たちは目の当たりにしているのです。

そして、その帝国主義的「帝国」の崩壊は間近に迫っており、その後の混乱もある程度は予想がつく段階まで来ています。
この状況を鑑みるに、広義の「大峠」はスケール的に見れば中腹に差し掛かってすらいないでしょう。
そして、この事実を間に受けている人は殆どおらず、各人はまだ「これまでの世界は続く」と信じているため、まだ大峠の入り口にすら立っていない人も多いのです。

これから、人々の「長い旅」が始まります。
それに先立って「大峠」を登り始めた人々は、もうすぐそれを乗り越えるはずです。
ただ、「大峠」という枠組み自体が壮大な現象であるため、個人が「狭義の大峠」を乗り越えたとしても、全体としての大峠を終えるためには人を導かなくてはならないでしょう。

人類としてそれら全ての行程を終えてこそ、真の意味での「大峠」は終わります。
だから私が一つの山を越えても、全体から見ればまだまだ続くように思えます。

ただ体感的に一番しんどいのは、「巡り」が自分に返ってきている、つまり過去のカルマを精算している期間です。
自分の過去を振り返り反省する中で、「後悔」というのは決してタイムリープして解決できるようなものではありません。
今生きている自分が、どうしようもない過去の記憶とどう向き合うか、ということだけなのです。

それゆえの葛藤であり、むしろ今「どうすれば良かったか」ということが身に染みてわかるほど、その後悔は深くなっていくはずです。
私は「悟ってからの方が修行」だと思うのは、答えが明らかなほど、間違いの大きさに気づくこともあるからです。

その葛藤は、決して他人からは見えません。
同様に人がこの世の障害に出くわし、それぞれの人生のテーマにある「大峠」と向かい合う時、その心の葛藤も簡単にわかるものではないでしょう。
目に見えるとしたら、「悩みがある」とか、「人が良くなった」とか、「生き方が変わった」という程度に過ぎないかもしれません。

ゆえに、誰の目から見ても「大峠」という現象をはっきり捉えられないはずです。
だから一般的には「これだけ世の中が大変だと、みんな悩むだろう」と思うでしょうし、後になって「金融支配の文明の過渡期が、大峠だった」と振り返るのでしょうが、実際はもっと内面的なものなのです。

そして新しい文明の時代は、人々が「お金のため」に職業を選択し、会社や組織に従属する生き方ではなく、それぞれの人生の目的にある仕事を探し、自主的に「働いて」対価を得る、という生き方に変わっていくのだろうと思います。
そこで「唯一無二の自分」に責任を持ち歩むことで、誰にも比較されない独自の「幸福」を掴む人生に向かっていくはずです。

無闇に競争を煽られ、社会の歯車として没個性的な生き方を押しつけられてきた私たちは、ようやく「お金」とそれに付随する「権力」から自由になっていくのです。
それこそが人間本来の生き方のはずでしたが、人間が「神の道」たるその生き方から外れ、魑魅魍魎の誘いが蔓延る「闇の時代」が長く続きました。
その時代を乗り越え、新たな時代を迎えるために「大峠」が起こっていることは、言うまでもありません。

私たちが何の疑いもなく生きてきた、これまでの「当たり前」の社会は、神々から見れば全くイレギュラーな世界だったのだと思います。
人々が物質文明を築き、地球を意のままに改造し、自分たちに都合の良い環境にしている間は、神の存在を都市伝説にすることさえできました。

それを裏付けするのが「科学」でしたが、物質一面の説明では精神的な世界観がお座なりになり、その次元を忘れることで荒廃が起きていることも、今では明白になりつつあります。
人々の心はビタミン成分やお金で買える快楽では満たされず、結局は心の深くにある情緒と向き合う必要があり、それこそ「愛」や「信仰」であると、人々は気づき始めています。

実は、まだそこまで目が行かない人の方が多いのですが、私はそれも時間の問題ではないかと思います。
現段階でさえ、「このままでは先がない」というのは誰しも薄々気づいているはずです。
それがますます如実に具体化してくれば、目を逸らし続けることは不可能でしょう。

これらは全て神々の「ご計画」であると、私は確信しています。
そして全てが終わった時、世の中はもう少し「神の存在」を信じる空気に変わるのではないでしょうか。
神々がそれを見通しておられたからこそ、天にツバを吐く人間をあえてお許しになられてきたのでしょうし、その時に人々が神に懺悔し、感謝する日が来るのだろうと思います。

その日を迎えるために、神々からご用命を与えられている人々がいます。

私たちはまず自分のことを成し、その上で人のために働いていくことになります。
理不尽なこともあるでしょうが、それを耐えることができる器だからこそ、お役目を与えられているのだと思います。

その重要さを受け止めるあまり、責任感を強く感じられるでしょう。
ただ、率先して人を導こうとするあまり、拙速になったり焦る必要はないと思います。
まだ多くの人々は、自分の置かれている状況にすら気づいていないからです。
だから焦る時間ではないですし、しばらくはこれまでと同様、目の前のことをコツコツやっていけば良いだけなのだと思います。

私たちが「今できること」は、とりあえず自分の巡りを精算し、心を落ち着けて己の「大峠」を乗り越えることではないでしょうか。
しばらくの間は、その時間が重要になってくるように思います。

私自身は、新しく何かを始めるのはその先、という気がしています。