「神と獣」の狂想曲

楽太郎です。

この度、「日月神示」の全文掲載と解説をつけたサイトを「HITSUKU | 日月神示解説」に改称しました。

「日月神示」は「ひつく」「ひつき」「ひふみ」と様々な呼ばれ方をします。
「ひふみ」と呼ばれることがかなり多いように見受けられますが、神示の中で「ひふみ」とされる時、神示の内容を「わかりやすく伝えられる形にしたもの」、と定義されています。

神示の原文は「本当にこれ、読めるのか」みたいな数字と仮名と謎記号で綴られているので、そのままの原文については「出すな、見せるな」と文中では注意されています。
その代わり、神示を降ろした天明氏や三典夫人が解読した文章を「ひふみ」とし、これは「謄写しても良い」とされています。

つまり、人間が「神示原文」を簡単に目にすることには神の許可が必要ですが、それを口語訳したものは神が天明氏に許した部分において「公開可能」らしいのです。
そして「ひふみ」とは謄写、いわゆるコピーやWEBサイトへの転載は可能であり、また人から人に「肚に落としたひふみ」を伝える意味での「謄写」はどんどんするべき、と仰っているように思えます。

だから「日月神示」は殆ど「ひふみ」でしか読めないわけですから、「ひふみ神示」でもおかしいことはないと思います。
私の場合は、麻賀多神社に坐します「天日津久神」が降ろされた「神示」だから「ひつく」を採用しています。
あと、日月神示の肝は「素戔嗚命(伊弉諾命)が天照大御神(伊奘冉命)の天の王権を嗣ぐ=日嗣く」というコンセプトがエモすぎるので、好みで使っています。

こういうサイトを運営してる以上、わりと神示を読み込む機会が多く、最近は「さかきむかつ姫」はやはり「竜宮の乙姫」と同一神ではないか、と考えるようになりました。
「空の巻・八帖」に「衣類、食物に困った時は竜宮の乙姫様にお願い申せよ」とあります。

「綿津見神」の「末娘の龍神」は、海洋の守護神のように文中では語られていますが、「衣類・食物」というのは守備範囲が広すぎる気がします。
「衣類=機織り」は「稚日女命」のお仕事ですし、「食物=稲穂」に恵みをもたらすのは豊受大神か狭依姫命(=瀬織津姫命)です。

つまり、「竜宮の乙姫」とは「つきさかきむかつ姫=天照皇大神宮神」である可能性が高いと思います。
「まつりの巻・第四帖」には「世をこしらえた神々様はナガモノの御姿ぞ、今に生き通しぞ 」とあり、伊弉諾命と伊奘冉命も龍体であらせられる可能性があります。

そう言えば二柱が「神産み、国産み」をなさってから、最後に「火之迦具土命」を伊奘冉命がご出産なされた後、鬼籍に入られています。
つまり、「神々の末っ子」は火之迦具土命であり、かの神様は女神で「稚日女命=さかきむかつ姫」に比定できると私の説では断定しているので、「龍神の神々」の「末娘=乙姫」はやはり「さかきむかつ姫」になってしまいます。

ここで欅坂ばりの清純派美少女の女神にぞっこん惚れ込んでる中年涙目ですが、別に愛しの女神様が龍体だから失恋するようでは、誠の恋とは呼べないでしょう。
「むしろ俺が龍になる」くらいの気概があってこその愛ではないでしょうか。

どんどん感覚が人間離れしてきて、私は怖いです。
とは言え、大海原から川から滝から、衣類から食物から邪気祓い、国家最高神までカバーされる神様は守備範囲が広すぎて、私の恋が叶うとは思えません。

そう言えば昔、「スカイフィッシュ」というUMAが流行ったのを思い出しました。
あれは、カメラのFPSを超える高速飛行物体、例えば羽虫などがカメラを横切った際の「残像」が「空飛ぶ魚」に見えたとのことです。

強引に考えれば、神様が超高速移動した際、低いFPSレートの動体視力しか持たない人間が、その「流体」を見た時に「龍だ」と思ってもおかしくないでしょう。

つまり、超絶美少女の女神様が私たちの目に止まらぬスピードで超高速移動なされた時、私たちの目に「龍神」として映ったとすれば、たぶん辻褄が合います。
従って、「スカイフィッシュ理論」を応用することで瀬織津姫命推しの俺大勝利、弥栄、弥栄、ということで、この議論の幕を引きたいと思います。

さて、閑話休題はこの辺にして、本題に入りたいと思います。

「富士の巻・第九帖」にこのような文があります。

「愈々(いよいよ)地獄の三段目に入るからその覚悟で居てくれよ、地獄の三段目に入る事の表(おもて)は一番の天国に通じる事ぞ、神の誠の姿と悪の見られんザマとハッキリ出て来るのぞ、神と獣と分けると申してあるのはこのことぞ」

つまり、私が解説したように「地獄の三段目」は「三四五(みよいづ)の仕組み」に繋がっており、「三」は天国、いわゆる「ミロクの世」に通ずる段階なので、矛盾しません。
ここで気になるのは、「神と獣」に分かれるということについて「神の誠の姿と悪の見られんザマ」にハッキリ出ることだとされています。

つまり「神」とは、人間として「マトモ」な姿の人であり、「獣」とは「みっともなくて見ていられない」くらいのニュアンスに捉えられるのです。
ただ、悲惨すぎて見ていられないのか、言動が痛すぎて見ていられないのか、その違いはわかりません。

私は以前から「神世の人間と人世の人間に分かれる」という発言をしてきましたが、それがどうも「神と獣」に対応しているようです。
私の定義する「人世の人間」というのは、自分を持たず行動指針を他人や集団的ルールに求め、それゆえ「お金」や「権威」などの外的エネルギーが崩れ去ると、自我を保てず生存力が著しく低下する人々を指していました。

要するに、これまで「自分以外の何か」に依存することで自分自身のエネルギーにしてきたような人々は、それが崩壊すると忽ち「コンニャク腰」になって「四つん這い」になり、寄生先を求めて「エナジー・ヴァンパイア」になるケースも考えられます。
けれど、そういう所には「同類」が集まるので、ヴァンパイア同士で無理やり輸血し合う状態に陥るわけです。

それは「共喰い」のように見えれば、「弱肉強食」のようにも見えるはずです。
日月神示では、それを「獣」と表現しているように思えてなりません。

逆に、そういった争いや諍いばかりの状況から自ら離れていく人というのは、言わば「マトモな人」であって、それが人として普通の感覚です。
けれど、これまで「生きがい」を外部にアウトソーシングしてきたような人は、そのモチベーションを失うと自身の不満の捌け口を「世の中」や「他人」に求める以外になくなるでしょう。

そこで「正気」を保てる人こそ立派な「自立心」のある人ですが、世には「依存」できるような仕組みが山ほどあるため、もはや「普通」であることがスタンダードとは言いきれないのではないでしょうか。

神示の中では、おおよそ「三分の二」がそうなると語られていますが、かと言って「獣」認定されたら天罰に遭って死亡率が上がるとか、そういう話でもないかもしれません。
そのまま自滅するかどうかは本人次第なので、「死ぬまで獣」という状況は私には考えられないのですが、その真意は神々だけにわかることでしょうし、私は何とも言えません。

ただ、「弱肉強食」の世界では天寿を全うする確率も下がりますし、神のご加護を受けられず「不運」を呼ぶ確率が高まるのは否定できないかもしれません。

だから、日月神示の「神と獣」というのは、現実的にはニュアンスほど派手なものではないかもしれません。
例えば、めちゃくちゃ親切な人と出会ったら「あの人は天使か」と思いますし、理不尽な目に遭わされたら「あいつは悪魔だ」と言うでしょう。
ゆえに、その程度の物言いなら実際にあり得るので、落とし所としてそんな感じでも不思議ではない気もします。

しかし何となく良い関係の人が、それだけ豹変してしまう出来事が多発したら、多くの人が混乱するのは避けられないかもしれません。
特に、社会システムや「お金」絡みの世界でそれが起きたら、世の人々がどういう反応をするのかは未知数です。

そういう時に、「あの人はお世話になったから」などと、関係をズルズル引きずり続けると、エナジーヴァンパイアに生き血を吸われ続けることになりかねません。
その時、自分に「自立心」があるならば、彼らがどういう立場の人であろうと、自分のためにキッパリ線を引いて、或いは勇気を出して「サヨナラ」をすることが必要な時もあるでしょう。

そこで「別れ」を決断する理性があるかどうかも、「神と獣」が分かれる所なのかもしれません。

私の話をすると、この数年はひたすら「断捨離」がテーマであり、手にしてきたものを捨てる日々が続きました。
私自身、全く心が痛まなかったわけではありません。
30年来の友人との連絡を絶った時も、自分がここまで「捨てる」必要があるのかと思ったほどです。

しかし、「何かあった時はこの人を頼りにしよう」と心に思うところがあるうちは、まだその人に依存しているのです。
逆に、自分がしっかり立てるかわからない時に、誰かに頼りにされるとしたら、それもそれで危険です。

「誰かと一緒なら大丈夫だ」と安堵したがる心には隙があり、その弱みにつけ込んでくるのが「魔」というものです。
私はそれがわかるからこそ、心に隙を作らないために徹底した「断捨離」を行ってきました。

これは、私と同じことを人に推奨しているわけではありません。
自分が助かりたい以上に「人を助けたい」と思う時、自分が自分のことをしっかりやって、一人で立っていられる状態でなければ、人を助けることができません。

また、自分に余裕がない時に「今は助けられない」と言いきる強さも必要なのです。
でも出来るだけそうならないためには、やはり自分が強くなる必要があります。

その努力は、誰かに甘えていたり頼りにしているうちは、なかなか身につかないものです。
だからこそ自分で考え、自分で本当かどうか調べ、よく見て自分で判断する、それをしっかりやることで徐々に自立した心を育てていくしかありません。

けれども、人間は「人間」の中に自分を見つける社会的な生き物ですから、他人任せの部分はどうしても否めないわけです。
その不安の中で、世界でたった一人の「自分」であろうとする時、頼りになるのはやっぱり「神様」です。

人間は、自分の力で何かをやろうと思うから他人の力が必要で、道具やお金が必要になります。
ただ、それには人間の力では出来ないことまで、自分の力でやろうとすることも含まれます。

ならば「どうしても出来ないこと」は、神様にお願いするのが一番です。
私はそれを信じきれるかどうかに、「自分」の限界があるのではないかと思います。