「悟り」について

楽太郎です。

いつかの記事で、私は「悟ってからが本当の修行である」と書きました。

仏教における「悟り」とは、五十二の段があるそうです。
「悟り」と言うと、いきなりお釈迦様のような神秘的な目覚めをするイメージがありますが、実際に仏教において四十段までは「退転」、つまり崩れる可能性のある悟りとされます。

四十一段目になると「不退転位」とされ、決して揺るがない悟りの段階と言われます。
そして五十一段に入って仏様と同じ悟りの境地である「等覚」とされ、五十二段目でようやく真の仏の悟りである「仏覚」に辿り着きます。

何が言いたいかと言うと、いかにお坊さんであれどお釈迦様と等しい悟りの境地に至るには、これだけの修行が必要だと言うことです。
しかし、私は「悟り」について、仏門に入らなければ習得できないものだとは思いません。

嫌な上司の下できちんと仕事をこなすのも十分修行になりますし、子供の世話をして大人になるまで育てきる親も、人間として立派な修行になるはずです。
人間は「魂の修行」のためにこの世に転生するとしたら、生きているだけで大変な修行になるのではないでしょうか。

この世にある困難や障害に出逢い、その教訓や学びを得る時、私たちはこの世界の仕組みや人生の本質を知ります。
それこそが「悟り」であり、その知見は真実であるからこそ決して揺るがず、死ぬまで持ち続ける人生の知恵となるのです。

今、こうして不条理な世の中に揉まれ、大人になって様々なものを俯瞰して見る時、その見方自体を「悟り」と呼んでもおかしくないと思います。
酸いも甘いも知った今だからこそ、あらゆる物事の裏側も見通せてしまう状況では、そのカラクリも間違いもハッキリ見抜くことができます。

ただ逆に、本質を自分自身が理解するがゆえに、自分の犯した過ちや間違いの大きさもわかってしまうのです。
目の前にある「間違い」を見抜くだけなら役に立つ能力も、こと自分に向ければ未熟さを理解し、また変えることのできない、自らの過去に対する懺悔もいっそう深まるでしょう。

私が「悟ってからが本当の修行である」と言うのは、「正解」という不動の答えを知ってしまったがゆえに、多くの「間違い」と向き合わなければならないことにあります。
自分だけのことならまだしも、世の中には看過できないほどの誤謬が溢れ、しかも嘘を広めて金儲けをする人さえゴマンといます。

そういった多くの「過ち」と向き合いながら、変えられるものと変えられないものの狭間で、しかし自分と同じ過ちを繰り返し、苦しむ人を救うために何ができるのか、その問いを自分に向け続けることは、まさに「修行」そのものです。

私は、自分の過去の行いが決して褒められたものではないからこそ、この問いとしばし向き合います。

こうして自分の行いを糺すことは、決して仏教信奉者だから、神道実践者だから心掛けているわけではありません。
私は自分の「罪」と向き合うことの苦しみを知るからこそ、世の中に同じ罪悪感を抱えたまま、そこから抜け出せない人々を見ると、心からやりきれないのです。

だからどうせなら、世を変えて自分と同じ過ちを繰り返さないように、また苦しみを抱えた人をどうにか癒せないかと考えます。
しかし、自分自身がまだ自らを許しきれず、苦しみから抜け出せない状況では、誰かを救うことは叶いません。

自分の行いを改めながら反省を活かして行動する、この単純なことの繰り返しが修行そのものになっている気がします。
その実践の果てに自分が過去の全てを許し、人も許し誰かを救うことができるならば、私はまた一つ大事な悟りを得るのかもしれません。

前回の記事「ただ「真っ白」な自分に」の中で、「過去に囚われるな」という話をした後に、「過ちを反省して学びに変えよう」と書きました。
今、「昔と今」を意識する機会が多いと思いますが、哀愁だけでなく過去への後悔に引っぱられがちなのも、決しておかしなことではありません。

私には今、世界的に「罪」がテーマになっているのは感じますし、おそらくこれから「業」の返済がテーマになる時期がやって来ます。
その期間が長ければ長いほど、自らの過ちと向き合い、内省の度合いは高まるでしょう。

私たちは今思い返してみても、世の流れとは言え、あまり良い行いばかりしてきたとは言えないのではないでしょうか。
落ち着いた今だからこそ過去を見返せば、決して美談にはできない部分もあり、それを真っ直ぐ反省するのは大切なことです。

ただ「罪」というのは、いつかは許されるべきものです。

もし私が昔迷惑をかけた人を探し出し、無理やり会いに行って謝罪に押しかけても、逆にまた迷惑になるでしょう。
そして今さら謝ったところで、そもそも私のこともその出来事も、言われてやっと思い出すレベルのことかもしれません。
私が逆の立場なら、すぐに「いいよいいよ」と返すでしょうし、お茶の一杯でも勧めると思います。

未熟な人間同士、迷惑をかけ合うのは「お互い様」であり、共にこの世に修行しに来た魂なのだから、お互いが学び合う関係にあっただけなのかもしれません。

私は、なぜ人はあらゆる過ちを犯し、罪穢れを避けることはできない生き物なのか、考えることがあります。
それは元々、人間が過ちを犯し、罪穢れを負う生き物として神々に作られたから、という以上の結論には今のところ辿り着けません。

人間は「悪」となることで、「善」とは何かを知り、その経験を学びに変えるために地上に生まれてくるのかもしれません。
人間はその「悪」と出会う時、全く異質の力と対峙して多くの学びを得ます。
そうすることでより「善」を意識しますが、「悪」と向き合うこともまた大きな学びとなるはずです。

神々が「悪」という存在を生み出し、決して一方的に滅ぼすこともせず、この世に「善」と併存させる理由があるとしたら、「悪」がこの世界において必要不可欠な存在だから、以外に考えられません。

「悪」を生み出した神だからこそ、「悪」がなぜ「悪」を行うかも全てわかるはずです。
その者が「悪」を行う理由を天が知っているということは、そこに悪行への深い理解があり、悪人の事情をよく知るがゆえに、一方的な裁きが存在しないのかもしれません。

私たちは「悪」に対して、あまりに異質な動機を持つがゆえに、頭ごなしに批判し、よしんばこの世から抹殺しようとすら考えます。
しかし、それは悪人の全てを知り得ないから思い至ることであり、もし彼らが身近にいて動機も知っていたとすれば、また違う感じ方になるでしょう。

神々はおそらく後者だからこそ、一方的に「悪」のみを裁く理由を持たないのではないでしょうか。
ゆえに全ての悪は「赦される」べき存在であり、悪が元々赦されているからこそ、この世から消えることはなく、また必要な存在と考えられているのかもしれません。

神々が「寛容」なのは、この世をお造りになられたのが神々ご自身だからこそ、世界の仕組みやその機能も熟知しておられるからではないでしょうか。
それこそ「悟りの境地」ですが、自ら設定した世界の「仕様」に対して、何の感情も持たないのは当然かもしれません。
ゆえに「悪」ですら反感もなく、その役割に「愛情」すら注ぐことができるのは、神の視点であればこそとも考えられます。

これは私たち人間でも言えることで、悪人と同じ目線でものを考えていたら、ひたすら憎しみだけが湧き上がって来るはずです。
しかし「神の視点」で見れば、彼らの全ての言動には理由があるのです。

だから、私たちも誰かに迷惑をかけ、迷惑をかけられる時は「お互い様」である以上に、「迷惑」の理由も深く知れば、許す口実だっていくらでも見つかるのではないでしょうか。
ただ、そこまで考えを至らせるまでに、深い憎悪と向き合わなければならず、それを乗り越えることができない難しさがあります。

この「仕組み」に気づくのも、私にとっては一つの「悟り」でした。
ただ理屈としてはわかっても、目の前でタンを吐かれたらイラッとするわけです。
その瞬間にどういう感じ方をし、次の瞬間には何を考えているかを問うのが「修行」です。

私は正直、「コイツ頭かち割ってやろうか」と思わない自信はありません。
だからこそ、理屈と悪感情の間を行ったり来たりしながら、少しずつ「悟り」に近づきたいと思うのです。

ただ、それは今日明日とか、数年とかで決着をつけなければいけないものではないでしょう。
おそらく人は、その境地に至るために何度も転生を繰り返し、何百年、何千年かけて習得していくのでしょうから。