楽太郎です。
小沢健二さんのアルバム「So Kakkoii 宇宙」の中に、「失敗がいっぱい」という曲があります。
本アルバムは、小沢さん復帰後初の作品であり、90年代のノスタルジーと反省の気持ちがそこかしこに見えます。
小沢さんは90年代、「渋谷系」文化のカリスマとして一時代を築いたものの、21世紀を前に日本での音楽活動を辞めて渡米してしまいました。
日本での当時最後となるシングル「ある光」は今でも珠玉の名曲なのですが、日本を舞台にすることの失望と自分の命を繋ぐための希望が歌われ、その砕けたガラスのような心が突き刺さります。
小沢さんはこれからも更なる活躍が見込まれる時に突然消えた形となり、世間から好き放題に言われる状態に陥ってしまいました。
その頃の反省もあるのか、やはり頭の良い人だけに謙虚に過去を受け止め、若干弁明も込めつつ当時の自分と人々に「鎮魂」に近いメッセージを送っているように思います。
その中で「失敗がいっぱい」という曲は、キラキラ輝いていた青春時代の甘酸っぱい追憶と、どれだけ歳を取っても捨てきれない泥臭い後悔が見え隠れします。
小沢さんのような華々しいキャリアのある人でも、自分自身を見つめて失敗や後悔の念を素直に表現するのは感服します。
そしてこの曲は、失敗や後悔を避けて通れない私たち人間に対して、純粋な癒しとエールを送るのです。
私も自分自身のことを見つめる時、「もっとこうはできなかったのか」と悔やみます。
他の人からモノにするようなチャンスで上手くやれなかった自分が、時々嫌いになるのです。
そうでなくても自分よりも成功し、良い作品を作って賞賛を浴びている作家に対して、嫉妬の念だけでなく「自分がそうなれなかった理由」を考えたりもします。
私よりも絵が上手いし表現も豊かなのは、私がもう少し早くキャリアを積み始めていればとか、このスタイルを見出して形にしていればと、取り留めのないことを想像します。
しかし、仮に自分が彼らのように立ち回り彼らと同じポジションに立ったとしたら、何の不満もないのか、自分のやり方に絶対の自信を持って自分の生き方を貫けるのか、それはわかりません。
どんなに彼らのようになれたとしても、彼らの立場になり変わることはできないからです。
以前「才能とは何か」という記事に書きましたが、私たちは才能に憧れを抱く時、欲しい分野の欲しい能力を手に入れたいと思います。
しかし才能は自分の地の感性から湧き出るイメージと、自らの身体に備わった技術を通してのみ発揮されるものなので、ガワだけを合わせることはできないのです。
ガワだけをらしくしたところで、本物から湧き出るオリジナリティには到底敵いません。
私が「こういう可愛らしい絵が描きたい」とか「このテイストが再現できないか」とは考えるのですが、それが可能なのはあくまで技術レベルの話です。
私にしか引けない線、私にしか出せない画風があるからこそ、その作風そのものになることはできません。
人様のようになりたいという気持ちは自分らしさの否定から始まり、自分のやり方に満足できないからこそ上手くいっている人に憧れを抱くのです。
誰かに憧れを抱く時に感じる後悔も、自分が過去に上手くやれなかった後悔も、実は同じものです。
結局は今の自分に納得できないから、現在の不満を過去の自分のせいにしてしまうのです。
自分が未熟だったから気づけなかったこと、誰かを傷つけてその過ちをずっと払拭できずにいること、それは時間が経って忘れることはできても過去の失敗そのものを修正することはできません。
ただその過去が事実だとしても、自分の記憶にある過去の出来事は一人称の世界から見たもので、相手や第三者から観測した事実とは異なるかもしれません。
誰が真実を見て、仮に誰もが誤解しているとしても、その真相を知るために当事者を探し出し突き詰めていったとしても、事実に出会える保証はありません。
自分の過去のトラウマ級の失敗だって、他人から見ればとっくの昔に忘れていて、今更どうでも良いことを掘り返すのに興味はないでしょう。
それ以前に、昔の出来事を再確認する術は殆どなかったりもします。
自分が一昔前だから思い出せるようなことでも世間の移り変わりは激しく、当時いた人も土地も社会的背景も今は影も形もないはずです。
消え去ったはずのものに心奪われるのは、あまり健康的ではないかもしれません。
私は少し前、若い頃の仕事場のあった場所を訪ねました。
その頃の職場は酷い環境で、散々いじめられて挙句の果てに病気になってしまいました。
長年そのトラウマもあって、付近に近づくだけでも嫌だったのです。
けれどその時は不思議と恐怖心はなく、かつてオフィスのあったビルに立ち寄った時、かつての面影はなく変わりきっているのを見ました。
まるで狐か狸に化かされたように、目を閉じれば思い出せるあの場所が、魔法のように消えていました。
私はこの感覚を通じて、過去の記憶に囚われる自分の心こそ幻想であり、個人的な執着に過ぎないことを悟ったのです。
されど記憶の痛みというものは根深く、頭ではわかっていても過去を思い出しては苦しみます。
いくら執着や幻想だとわかっていても、心に刻まれた傷や後悔は簡単には消えません。
ならば、これから生きていく中でその痛みを癒やしていくしかありません。
小沢さんの「失敗がいっぱい」という曲は、そんな誰しもある心の傷が本当に誰にもあるということ、そんな痛みは日々の中で癒されていくのだ、と教えてくれます。
「どうして自分はこうなってしまったのか」「あの時こうしていれば今ごろ自分は」と無限に出てくる感情、それは毎日を真っ直ぐ生きていくことで「魂を救う」しかないのだと。
私は、今の自分の上手くいかなさや不遇な気持ちを過去になすりつけるくらいなら、もう少し強かにやっていこうと思います。
過去の記憶というのは、自分が見た主観的なストーリーに基づいており、ある程度脚色されているものです。
他人から見れば全く違うあらすじを、反芻するうちに勝手に信じ込んでいたりもします。
ならば、この「ストーリー」を自分で上書きしてやれば、いずれ一人で納得できるかもしれません。
昔の自分に対して「お前はああだった」と未だに思われているのが悔しいのなら、これからの未来でエンディングを書き換えればいいのです。
別に見返してやろうとか、ギャフンと言わせてやろうとかいうのではなく、自分が過去の出来事にアフターストーリーをつけることで自分の中で美談にしてしまえば、自分の中で別の意味を持ちます。
「あの頃はこうだったけど、あの失敗があったから今うまく行ってるのだ」と、中途半端な挫折物語をサクセスストーリーに変えてしまえば、いずれ後悔する必要はありません。
それはいつ何時でも、誰でも今から始めることができるのです。
そのために過去を振り返りながら生きるのではなく、これから物語を作るために未来に生きることです。
人間が一生をかけてやる殆どの物事は、現実として恐ろしいほど後世に残っていきません。
20年前のホームページが今はほぼ残っていないのはわかりますが、実際の構築物ですら10年すれば跡形もなくなるのですから、まして人の記憶など殆ど残りません。
そんな消えゆくものに心奪われるくらいなら、新たな幻想を自分で作り出せばいいのです。
そして、今を生きていれば誰もがそれを今日から始めることができます。
私には、それが後悔に対する癒しとなり前に進む力になるような気がします。
小沢さんの「失敗がいっぱい」の歌詞の一節です。
「涙に滅ぼされちゃいけない
毎日には笑えないを笑えるにする
力があるから」