「怒り」を捨てるな

楽太郎です。

人伝に聞いたのですが、政府が一律2万円の給付を行うそうです。
というのも、私は国内情勢に関してはあまり見ないようにしていて、その理由は「腹が立つから」です。
この国のために、私なりに考えて日々行動していますが、あまりに出鱈目なことばかり罷り通るのを見ると、正直耐えられなくなります。

私を含め、日本人の一人ひとりがいくら良心を痛めたところで、多数決の良くない部分で社会は変わっていきます。
自民党が小手先で国民にバラ撒きをすれば、低下した支持率も多少は戻るでしょう。
そのカラクリが見え透いていたとしても皆お金は欲しいでしょうし、おそらくどう足掻いても結局は自民党の思惑通りになります。

こうして全てがなし崩しになっていくのを私はただ見ているしかないですし、周りの誰もが疑問も持たずにただ流されていくだけです。
私はこの状況には本当にガッカリしますが、ここで愚痴を言いたいわけではありません。

この国がここまで狂ったのは、おそらく日本を取り仕切る神々のご計画のうちでしょう。
それは日本を一度打ち壊す必要があるからであり、立て直した国を世界の中心に据える意図があるのだと思います。
ただ「日本はどこで間違えたのか」を考えると、おそらくいつからとは言えないほど歴史を遡るはずです。
私は幕末期と明治維新あたりでやらかしたのではないかと個人的に思っているのですが、ややもすれば稲作伝来以降、三千年来の因縁かもしれません。

この国に「国家」という観念が根づき、権威が人々をまとめ上げていく過程において、人間が国家という巨大な力や富を扱いきれた時代はありませんでした。
結局は、中央集権内部の権力闘争でいがみ合い、権力者同士が覇権を取り合い、肥大化した自己顕示欲によって対外戦争を仕掛け、その悪癖に国民はずっと振り回されてきました。

そして、今も尚そうなのです。
ただ、この歴史が遥か未来の人類にとって、「学びの期間だった」と顧みるために起こるのだとしたら、これからを生きる私たちはそれを学びに変えなくてはならないのです。
「学ぶ」ためには、正解を知らなくてはなりません。正解を知るということは、誤りも知るということです

だから、そのご意志を神々から受け取っている人ほど、今ある状況に胸を痛め混乱するでしょう。
私も、あからさまに人々が何も考えずに崖に進んでいく様にはさすがに動揺しますし、それを止める手立てがないことには辟易します。
それでも、頭の中では「これは必要なプロセスなのだ」と言い聞かせるのですが、どうも心が追いつきません。

私は、これは本当にどうにもならないことなのだけれど、自分の気持ちの面だけでもどうにかしたいあまり、「国内報道を一切見ない」という日々を送っています。
それも良いアイデアかと言えばそうでもなく、実は本当の問題は日本にあるのではなく、この現代社会を見て「腹が立つ」という私自身の感情にあるのかもしれません。

「アンガーマネジメント」という心理学講座が注目を浴びて久しいですが、確かに「怒り」という感情は、抱かないようにするほど人生も人間関係もうまくいくのは事実だと思います。
人間が経験するだいたいの失敗には「怒り」があります。
それを表には出さずとも腹の中で抱えていたり、その感情を無意識に抑圧するから変なことになってしまいます。

だから怒りは持たないに越したことはないのですが、普通の人間が社会生活を送りながらそこまで達観できるものなのか、私にはわかりません。
「怒りはない」と自分で思って感じたとしても、それが単に意識に登って来ないようにしているだけのパターンも多分にあるはずです。
そもそも喜怒哀楽は人間に本質的に備わっている心理機構ですから、いくら社会に生きる上で都合が悪くてもなかったことにできるとは思えません。

ただ、考え方としては確かに「怒り」が湧かないようにする方法はあると思います。
例えば、ある日家の前にたくさんゴミが捨てられていたら、「誰がやったのか」と腹立たしくなりますし、もしかして自分の嫌いなアイツがやったのでは、とまで考えます。
これはゴミが捨ててあった場所が「自分の家」だから腹が立ったと言えます。
仮に、このゴミが自分の家の前ではなく他人の家とか、自分の通う学校とかならそれほど怒りは湧かないでしょう。

つまり、「自分がされた」という被害意識によって怒りは湧いてきます。
全く知らない他人の家なら「お気の毒」と思いますし、学校の前なら「他の人も同じ目に合った」と考え怒りもだいぶ相殺されるはずです。
ゆえに怒りの本体は「自意識」に宿り、自我があるからこそ自分に対する不利益に反感を持ちます。

だから人間が怒りを覚えるのは、それに「自分が関わっている」という意識があるからです。
日本人なら、神社に落書きをしてはしゃいでいる外国人を見て憤る人は多いでしょうが、土地の水資源が一企業に握られて住民の飲み水がない国があっても、それほどの怒りは湧かないはずです。
つまり「自分に繋がりがある」と思えることほど、怒りという感情を持ちやすくなります。

これは「自分が所属する」だけでなく「自分が好きなもの」にも通用します。
去年起こったロサンゼルスの山火事に関して「裏の事情」ばかり私は気になっていたんですが、オーストラリアで大規模な森林火災が起こった時、私は火から逃げ惑うコアラを見て胸を痛めていました。
結局、人間は自分の見たいものだけに意識がフォーカスするようにできているので、「正義の怒り」なるものがどれほど絶対かなど疑わしいのです。

だから、日本の現状を憂いあまりに身勝手なことばかりする人たちに対して腹が立つのは、それだけ「日本」を自分のことのように思っているからです。
私が日々のニュースや誰かの言動を見て苛つかないために、この「自意識」を捨てれば良いのかもしれません。
ただそれでは、怒りを失くすために日本人としてのアイデンティティや愛国心を手放すべきなのか、という話になります。

これに関して、私の結論としては「怒りは捨てなくていいし、愛国心も捨てなくていい」と思います。

これからの日本に必要なのは、この国のために本気で怒ることのできる人々です。
しかしその怒りは、決して暴力や批判に向けてはいけません。
怒りは、発散したら消えてしまうものです。SNSを見ればわかるように怒りの感情が一時的に発散されてしまえば、また同じ怒りを同じ手口で発散すれば良く、それによって刹那的に溜飲を下げているだけで物事は決して改まらないのです。

だから本当に必要なのは、怒りを信念に変え実践のエネルギーにしていくことです。
怒りの力も世を変える原動力に変えてしまえば、決して負のエネルギーにはなりません。

無抵抗主義を平和主義と履き違え、非暴力を無抵抗と勘違いした日本人は、今自分たちが虐げられながら嘲笑われていることに気づいていません。
それに気づいた人々が正しく怒ることで、この迫害の時代を終わらせることができるのです。
そして、その志には「日本」という国家観がなくてはなりません。それによって、人々は団結することができるからです。

ただし常に怒りを抱え、目鯨を立てながら腐心して生きるべきではありません、
やはり、どうにもならないことはどうにもならず、なるようにしかならないことは実際たくさんあります。
だから大事なのは、自分の要領を遥かに超えた事象には立ち向かわないことだと思います。

例えば、政府や官庁が諸悪の根源だとして、そこがいくら政治活動をして良くならないのであればと、究極的手段が頭に過ぎる人も出てくるでしょう。
しかし、これまで人類の歴史において「テロリズム」が理想社会を作り出したことはありません。
真の問題は、この世界を作り出している人々の心にこそあり、人々の心を変えない限り形だけを変えようとしてもうまくいかないはずです。

ゆえに政治活動に腐心することではなく、自分がきちんと日々を生きながら正しい心で出来ることをやる以上のことはないのです。
国家の長官を変えるために動くよりも、地元で変な政治家に権力を与えないために票を投じることです。
その小さな積み重ねがなければ、どんな実践も理想も絵に描いた餅なのではないでしょうか。

「怒り」という感情は、表に出さなければ出さないほど良いのは確かだと思います。
しかしその感情を押し殺して不安定になるより、強い感情をバネにして正しい動機に変えていくことです。
その心理的昇華によって、怒りという強いエネルギーは静かに世を良くするために回り始めるのです。

私たちは、悪いイメージによって「悪いもの」を作り出してしまいますが、それが世にあるのはどこかで必要になったからです。
その「悪いもの」も、立場と機会が違えば「良いもの」になったりもします。
「怒り」もそういうものであり、まして今の日本のあり方もそうなのかもしれません。

今が酷く「悪い」と思えるこの国も、ある時を境に「あの頃があったから今がある」と言えるような、そんな日のためにあるのかもしれません。
この災いが立て直しのためであり、陰謀が悟りのためにあるとしたら、その負のエネルギーも正しいエネルギーに変えられるはずです。
おそらく私たちは、今それを試されているのです。

全てが神々のシナリオだとしても、慢心して問題から目を逸らしていれば良いものではなく、かと言って目鯨を立てて世を批判して回れば良いというものでもありません。
その難しい匙加減の中で、自分の感覚や感情を少しずつ実践に変えて世に働きかけていく、それが一番大切なのだと思います。

怒りを抑え、尚且つ怒りながら、正しく怒りを発散させて冷静沈着に生きていく。
その賢さこそが、人々に求められています。