「才能」とは何か

楽太郎です。

夏至で「精神界」の気場が整い、その高次元のエネルギーを降ろして使うことができるようになってきました。
ただ、このエネルギーを使うには自分の意志よりも、神様のチョイスが優先されるような気がします。
どうも「才能」に使う力にしては潜在的というか、自覚していない方向に発揮されている気がしてなりません。

私の場合はエネルギーを読み取る能力とか、いわゆる霊能力的な開花に進んでいて、浄霊や浄化のお役目を任されているようです。
私は元々しがない絵や漫画を描いている俗物でしたし、今でも隙があらばナンセンスな漫画を描いて楽しく過ごしたいのです。
けれど、神様から与えられる能力と使命は、自分の予期する形で現れてくれはしないようです。

冷静に考えれば、精神界とは地球意識の統合的なエネルギーの場ですから、共同のものです。
地球意識は人間の「我よし」とする内向きのエネルギーから脱し、人間が破壊し尽くした地球を共有財産にしていく共存共栄の道ですから、神がかったエネルギーが貰えるからと、勝手に自分の手元に引っ張ってくる訳には行かないのかもしれません。

だとすれば、私が「精神界のエネルギーを使って神がかり的モテ講座のサロンを開いて大儲けしよう」と思ったところで、神様がその部分に才能というエネルギーを注いでくれなければ、私は恥を晒して終わるに違いありません。
本来「才能」とは大神の分身霊をお預かりした私たち人間が、自分の魂の力を引き出して使う能力一般を指します。
その才能は言わば神から与えられているものだからこそ、私利私欲のために勝手に発揮することも行使することもできないものです。

私は昔、音楽をやっていましたが好きだからというだけではモノにならず、自己実現的に努力したところで才能が花開くことはありませんでした。
「夢は願えば必ず叶う」とは若者の情熱を食い物にする大人の常套句ですが、才能に関しては努力も知識も技術も自分の望みとは少しズレたところにあるものです。

確かに才能に知識や技術は不可欠です。しかし、自分が好きでやることと得意でやることに対する人様の評価は違うもので、「得意なこと」というのは予め神様から与えられた能力なのかもしれません。

だから、この気場を使って活躍する人がこれから出てくるとしたら、「自分のやりたいこと」と「才能」と「神様の目的」が一致している、そんな人なのかもしれません。
ただ「自分のやりたいこと」というのが曲者で、神様からインスピレーションを受けた物事は、大抵いても立っていられなくなるくらいやりたくなるもので、大して自分の意志や趣味は関係ありません。
例えば「全然好みのタイプじゃないけど結婚してみたら最高の伴侶だった」という話を聞くことがありますが、魂で受けることと意識にはズレが生じているからです。

だから私が文章を書くのも元々好きだったわけではありませんし、霊的能力だって欲しいと思っていたわけではありません。
何もなければ、のんびりと変な漫画を描いてダラダラ生きていたかったのです。
でも、神様はそんな私の意思よりも強い思惑で私を導いて下さるのですから、不思議なものです。

これを「やらされている」と取るのか、「自分がやるべきこと」と取るかは、人それぞれです。
神様と意識が分離している人がこのエネルギーを受け取れば、義務感で何となく渋々やるはずです。
ただ、神様の意志と結びついていれば、意向に沿わないことは認識しつつも自分がやりたいこと、やるべきことと自覚した上ですんなり実行していくでしょう。

ここに「我」を出すか出さないかがポイントで、自己浄化が進んでいる人は躊躇なく神様のエネルギーを受け取り、才能として行使します。
しかし下手に自分のために能力を使おうと思えば、エネルギーの流れを捻じ曲げる分うまくはいかないでしょう。
自分を出さず、素直にエネルギーの流れる矛先に身を任せる人は、全く予想だにしない方向で才能を発揮し始めるはずです。

これまで「才能」は自分のやりたいことの分野で発揮しなければ意味がないと思われてきましたし、そこでうまく評価されなければ自分に才能がないものだと諦める要因にもなりました。
好きなことで認められたいがために、才能を発揮して成功するには良い学校に入ったり、偉い人の弟子になったり、肩書きを得たりコネを作ったり、という仕組みがありました。

その仕組みが確立されていながら認められる人と認められない人が出てくるのは、やり方云々だけではなかったからです。
当然、大した才能も魅力もないのに広告代理店的企画に採用されたことで売れる人もいます。
それとは別に、自分のやりたいことと得意分野が違うために、魂の能力を引き出さずに才能を求めるから、中途半端なことしかできないのも多分にあるでしょう。

私が若い頃はバンドブームもあって音楽を志す友人が多く、私自身もその一人でした。
もちろん突出したセンスを持っている人も、私みたいにからっきしの人間もいました。
今になってみれば、あの頃音楽をやって日本のトップに立つことを夢見ていた若者は今、料理人であったり運送業をしたり税理士をしています。
かく言う私もイラストや漫画を描いていて、それだけでなくスピリチュアリストの真似事まで始めてしまいました。

人生は思うようにいかないものですが、才能はましてそういうものだと思います。
私がいくらギターの神弾きができるようになりたいと思ったところで、その才能の発揮のしどころを用意なさるのは神様で、不要な部分に力をお与えになるとは思えません。
「ギターの神弾きなど死ぬほど練習すれば誰にもできる」と思われるかもしれませんが、その理論で言えば布袋寅泰やCharクラスのギタリストが5万人はいないとおかしいと思います。

「何となく上手くできること」「何となく続けられるから上手くできること」というのは、誰しも一つや二つあるものです。
それに気づくために人生経験は必要で、何事かに挑戦するから向き不向きもだんだんわかってきます。
その中で、やっぱり人よりスルッと上手くできてしまうことがあって、それを突き詰めれば立派な才能になっていきます。

近年では才能開花がビジネス化され、お金や権威に縋れば自分の欲しい才能が欲しい分野で手に入ると人々は錯覚しています。
しかし、才能は自分の好みとは別の軸に存在するものなので、「趣味」を追求することが必ずしも才能に結びつくとは限りません。
「好きも才能のうち」とはその通りだと思いますが、いくら好きでも才能が発揮できないこともあります。
結局は、才能が自分の魂と直結した能力だからこそ、自分の頭で考えて何とかできるものではないのだと思います。

これまで「自分には才能がない」と落胆して、長く夢見たことを諦めていった人たちがたくさんいました。
しかし多くの場合、才能がないのではなく自分の欲しい分野で欲しい能力が発揮できなかっただけで、実は別のところに才能がいくつもあったりするのです。
才能を自分の努力で作り出すか、運良く生まれ持った素質だという思い込みのせいで、自身が持つ天性の能力に気づかずに諦めてしまう人がいます。
けれど、ふと気を抜いて何となく上手くいく物事に気づき、その行為を好きになれば自ずと才能になっていくのです。

このカラクリも、人間の世界が「才能」という神様から与えられた賜物を歪め、金儲けの手段にするために色々と捏ねくり回した結果なのだと思います。
これまで純粋に夢を見て努力する若者や、実際に才能はあるけどそれ以外の能力がない人を食い物にし、食い潰して腐らされた人がどれほどいたのでしょうか。
私の身の回りにも、演劇にしろ音楽にしろ画業にしろ、花形の世界ほど魑魅魍魎の渦巻く世界でした。

私はそういうのが嫌になったから、どこにも属さず何も当てにせず、実力とアイデアだけでのし上がって行こうと思いやってきたのですが、これはこれで全く上手くいきません。
特に今は、純粋に才能や実力だけで注目される時代ではなく、巨大な傘の下で華麗に立ち回る人でなければ成功しません。
権威に気に入られることが最善最速のシナリオであり、それ以外の成功の道は今のところ皆無と言って良いでしょう。

だからと言って、超絶グレーな権力者に縋りつきに行くのが正しく才能を発揮する方法ではなく、それは才能がない人々が成功するために作り出したスキームに頼ることになるだけです。
成功するために才能が欲しいのか、才能を自覚するから成功する道が欲しいのか、その動機は似て非なるものです。
自分の意図しないところで開花してしまう「才能」というものは、それだけで周りの人を助けて評価を集めることで始まるのだと思います。

才能と評価、需要と成功に関する話は難しいので、長くなりそうですし今回は扱いません。
ただ、今の時代はオリジナリティが求められる風潮ではないからこそ、テンプレートに合わせる器量が求められ、大衆の移ろいやすい気分を推し量れないと何にもならないと思います。
需要と供給のバランスも性質も大きく狂っているからこそ、正論だけでは語り尽くせない状況です。

その環境に迎合するかしないかは人それぞれです。
ただ私はそれをしても新しいことはできないと思うので、愚直に他の道を模索するだけです。
そして、神様は愚鈍な私の斜め上をいくアイデアを下さり、私は半信半疑でそれをやっています。

結局、全てが自分の思い通りにはならないしできないのですが、それがこの世界における「才能」の定義であり、自分だけのレベルで考えていては見えてこない世界です。