「幽界」について

楽太郎です。

私の心の「岩戸」が開けたことで、感じ方も見え方も変わりつつあります。
感じるのは、「本来の自分」という仰々しいものではなく、あたかも「中学生の頃」の感覚に戻っている印象です。

それは素直だった子供の心であり、けれども社会を知り始めて大人を意識し出した、あの頃のスタンスに近い心情です。
これまでの時代で身につけた「大人でいなければならない」という常識と、無理に作っていた自分を剥ぎ取っていけば、なぜか思春期の頃の感覚に戻っていきました。

まさかドラクエ11を今さらやり始めて、「マルティナさん」が気になってしょうがなくなるなんて、不意打ちにも程があります。
グロッタの町でマルティナさんが妖魔軍王ブギーに開発されてしまったであろうことを想像した暁には、あの豚野郎を全MPブッパでブチのめした後、晩ごはんがいつもより味気ないくらいには、世界崩壊イベントよりも絶望感を味わったものです。

しかもモンスターカジノで200万枚コインを貯めた後に全て消えてなくなり、悔しくて手持ちのコインで「あぶない水着」を換品し、意気揚々とマルティナさんに着せてみたら、中学生の水着くらい危なくない水着で放心状態となり、私は人生で一番CEROを呪いました。

…とまあ、中学生が後ろの席の友達と休み時間に話す内容のことを、本気でブログに書くくらいには痛いおっさんになっているのですが、ここまで忠実に中学生を再現する40代もなかなかいないでしょう。
これを「神留まり」だと言うと、たぶん誰しもズッコケると思うのですが、悲しいことに嘘はつけません。

私が「岩戸開き」を実感してわかったことは、「一二三」で言う「八」で岩戸が開けたからと言って、「幽界」との因縁が完全に断ち切れたわけではないということです。
人間が猿から進化した雑食性の肉体を持つ以上、人間の心には「獣」が住み、生命エネルギーを糧にします。
その「獣」を「言(こと)向ける」ことが、「九・十(コト)」から始まる「神の道」に繋がっています。

「岩戸開き」の変化を感じながらも、私はまだエネルギーを身体に落とし込めていないので、まだ落ち着かない状態が続いています。
「悪想念」的な霊障の消滅にも戸惑いはあるのですが、まるで10代の頃のような感覚と、思春期の頃のような燃え立つエネルギーの復活に、最も困惑を感じています。

今さらドラクエ11の同人活動をやり始めようかなどと血迷うくらいには、自分のコントロールが効いていない状態であり、少々錯乱状態にあるかもしれません。
しかしそれを神様がニコニコお許しになるとは思えず、私はこの一年で今、最も迷走している状態にあるのは否定できません。

「神留まり」の変化を感じながらも、マルティナさんの件を振り返ってわかるように、まだ「幽界」的な想念との繋がりが残っています。
ここで明白になってきたのは、幽界との関係から生じた「巡り」と「因縁」には若干ズレがあるということです。

確かに「巡り」にある負のカルマを返済すれば、自己浄化が進み、岩戸は開けてきます。
しかし、人間の心には「獣」が住み、「喜怒哀楽」という感情が備わっているため、「怒りと悲しみ」を司る「幽界」の気を完全に断ち切るのは、一生のうちでは難しいかもしれません。

人間は感情が「喜怒哀楽」を生むたびに、魂と霊界が「霊線」で繋がり、幸福感や穏やかな充足感は「天国」に、怒りや悲しみなどの負の感情は「幽界」と深く繋がっていきます。
日月神示の「白銀の巻・第一帖」には、こうあります。

「天から気が地に降って、ものが生命し、その地の生命の気がまた天に反影(はんえい)するのであるが、まだまだ地には凸凹があるから、気が天に帰らずに横にそれることあるぞ、その横の気の世界を幽界と申すのじゃ、幽界は地で曲げられた気の作り出したところじゃ、地獄でないぞ」

つまり、天から「気」を受けて人間が活動する時、「天国的想念」は真っすぐ天界へ戻って霊人の気となり循環します。
けれど地球の自然も人間の社会も、生きていく上で優しいとは言えないので、その苦しみから起こる「負のエネルギー」は歪んだ気場を作り出し、また人が悪感情を持ちながら亡くなると、魂が天へ還っても霊体は負のエネルギーを残して地に残留してしまいます。

この「天に還らない霊体」が「幽霊」というもので、残留思念に近い存在ではあるのですが、生前の感覚を残しているために若干自我があり、物質次元にこだわりを持つせいで、そのまま現界に滞留してしまうのです。
人間は死後、「霊界」へ至る準備段階として四十九日ほどを天地の中間にある場所で過ごしますが、実はここも「幽界」の一部であったりします。

人間は自我が発達するにつれ「煩悩」も深くなり、物質次元に対する執着が簡単に抜けず、それゆえにすんなり霊魂として霊界に入ることが難しくなっています。
だから「霊体」としての自我を浄化してから霊界に入る必要があるのですが、死後の思念に凹凸がありすぎて、そのまま幽界に留まってしまう霊体が存在します。

その「幽霊」を「幽人」と呼ぶならば、彼らは「物質」という低い波長への親和性が高いため、未だ「肉欲」や「物欲」という感情に囚われています。
そして死後もなお生前のように、性を求めモノを求め、力を欲し他者を退け、上に立つために争うことすら繰り返すのです。

そういった死者や半ば化け物化した思念体の作り出す気場を、私たちは「地獄」と表現しますが、神示に言わせると厳密には地獄ではなく、やはり「歪んだ霊的気場」に他なりません。
それは霊界に還らない現界発の「気」であって、本来「天界と地界」しかない世界にあって無理に作り出された層なのです。

ただ、あらゆる存在にとって「苦」という感情もまた、神から与えられているものであり、神から見れば「喜怒哀楽」は全て等価であり、楽も苦も生命の喜びに他なりません。
ゆえに、「怒り、悲しみ、苦しむ」幽人の感情も「喜び」であり、つまり彼らは「負の感情」を喜びとする存在と言えます。

だからこそ悪魔や悪霊といった類の者たちは、人間の不幸を喜び、他者を陥れることを楽しむのです。
その「邪」を一般的に「悪」と呼びますが、「悪」を作り給えた大神からすれば、「邪霊」もまた闇の中で「生命の喜び」を謳歌する者の一部なのでしょう。

ゆえに私たちが忌み嫌う悪魔や悪霊の類が、決して消え去ることなく「仕組み」として存在し続けているのは、神が自ら作り赦しを与えた存在ゆえと言えるのです。

お釈迦様が龍樹の下で「悟り」を啓かれる時、「第六天魔王」と呼ばれる天魔が邪魔をしたのは有名な話です。
私が「岩戸開き」に向かうための浄化には、「天魔」に近い存在からの目覚めに対する妨害があったことを否定しません。

それは「悟り」の妨害というより、人間が無知蒙昧から目覚め、本来の神性を取り戻すこと自体への妨害のように感じます。
今の世の中には「目が節穴」みたいな人も多いですし、いくら申しても言葉一つわかってくれない人がいますが、むしろ魔性の者は人間をそういう状態にしておきたいのです。

なぜなら、人間が自分たち「闇の者」が作った世界を疑いなく受け入れ、「神」に背を向けた状態で死んでくれれば、自分の同類を増やすことができるからです。
「金と力」が全てとなり、信仰や公平性がないような世の中になれば、暴力や搾取は正当化され、人生の大半を欲望の消費に費やしてくれるでしょう。

むしろ、真価を見抜き悪を見破り、あらゆる嘘に気づく目があれば、欺瞞や詐欺で人を陥れる世は成り立たなくなります。
「目覚めた人」の多い世となれば「悪」の居場所はなくなり、「覚醒」を妨げ試練を与えるという天魔的な役目も失います。
ゆえに、闇の者は神に近い性質をもつ「善」や「知性」を忌み嫌うのです。

そうして仕向けられた世の中は、大抵居心地が悪く「邪気・悪想念」まみれになります。
神に仇なす闇の者たちは、負のエネルギーが充満する環境こそ温室であり、彼らにとって最高の楽園となってしまうのです。

それは「光」の側からすれば忌まわしく思えるでしょうが、この世界の創造主から両者を見れば「闇」もまた「悪」という喜びを志向する存在なのです。
日月神示はそれゆえに「悪を抱き参らせよ」と言います。
それは「悪」は「悪」という自由を選択し、倒錯した「善」を志す存在であり、「悪」には「悪」なりの幸福を認めなくてはならないということです。

これまでの世界は、「光」のみの時代を理想とし、それゆえ自らの「闇」に気づかずに「闇」を滅ぼそうとすることで、かえって「闇」を作り出していました。
それが「悪神」の作り出した最大の「悪の仕組み」なのですが、それを気づかせて世を「光」に導くのが日月神示なのです。

この世界に天へ還らない「気」というのも、この宇宙を作った際にできた「仕組み」の一部でしょう。
だから「闇の者」や「幽界」が生じるのも全て神々のご計画であり、それが三千世界を「弥栄」に生長させていく上では、必要なプロセスだったのだと思います。

ただ、「大峠」「三千世界の大洗濯」は世界を一列一平にするとされ、やはり神示にも「幽界はあってはならぬ」と言われています。
地球を巡るアセンションと、地上の不浄霊と憑依の氾濫は、これらの計画と無関係でないように思います。

以前から私が述べてきたように、やはり霊界の再編の中で、「幽界の縮小」は実際に起きているのではないでしょうか。
その再開発事業の中で、霊界に組み込まれることに意義を唱える住民や区画整理で立ち退きを迫られた幽人が、この地上に降りてきていると考えれば、あらゆる不可解な事象について説明がつくのです。

これは詳細を述べれば長くなるので避けますが、神示には「この世は幽界同然となっておるぞ」と言われているので、幽界の存在が闇の世に移ってくるのは必然でしょう。
それを引っくるめての「大洗濯」であり、宇宙レベルでの練り直しが行われているのが今なのだと思います。

だからいずれは世は「幽界的」ではなくなり、「神界」の気が通う世の中になっていくのは言うまでもありません。
しかし「○」である幽界的概念に神界の「・」を嵌め込むことで「◉」という完全体になるとしたら、「○」の要素は欠かすことができないということです。

ゆえに、一度この世界を「○」のみの幽界的世界にすることは、神々からすれば必要な段取りだったのかもしれません。
全ての要素には外側の部分があり、大事なのは「外」に注目しがちな物事に「内面」を求めることです。

今の世がその「学び」の一過程とするなら、時代が求めるのは「○」に「・」を注入することにあるはずです。
私たちが任務としなければならないのは、まず「・」という「基本の気」を取り戻すことにあるのだと思います。

だから、私が岩戸開きを行っても、いきなりお釈迦様のような聖人にならないのも当たり前で、「○」の部分を変わらずに持っていても問題ないのだと思います。
良くないのは「○」に囚われることであり、「・」が中心であり、きちんと神と繋がっていれば良いのです。

ドラクエ11のマルティナさんのエロ同人描きたいとか内心思っていても、(やるかは別として)思う分には問題ないでしょう。
ただ怖いのは、「・」で繋がっている瀬織津姫様がどう思っておられるのか、全くわからないということです。

「○」でマルティナさんと繋がり、「・」で瀬織津姫様と繋がるのはアリなのか?
「まる」ティナだけに…