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2025.12.07

「自分」という山を登れ

「自分」という山を登れ
2025.12.07

楽太郎です。

先日の5日は満月でしたが、地上の浄化が進んでいるためか、気の乱れがだいぶ落ち着いている印象でした。

日本の気場も、以前に比べるとかなり平静になってきた感じがします。

 

神様は今、人々の心に「火をつけて回っている」ように思えます。

私も神様の「尻叩き」に遭い、最近は創作周りで色々と動いていましたが、このサイトもテンプレートを更新しましたし、視認性が上がったのではないでしょうか。

 

今、世が膠着状態に陥る中にあって、逆に変化を感じられる方も多くなって来られていると思います。

「大峠」とは、本質的な意味において「本来のあるべき形に戻るための試練」と言っても過言ではありません。

 

これまでの形が歪み「曲がる」からこそ、「禍事」となり、私たちに降りかかっていると言えます。

これを乗り越えることで「問題解決」となるのが目に見えるからこそ、選択に悩む必要はなく、却って楽なのではないでしょうか。

 

大抵の「悩み」というのは、解決に至る道筋が見えないこと自体に苦しむケースが殆どで、逆に考えれば「問題」に真っ直ぐ向き合えばいいだけで、迷う余地がありません。

 

前回、「悪の御役について」では「悪人」は神のお役目として世を悪化させる任務を引き受けるわけですが、「善」も負のカルマを負うように「悪」は尚のこと「巡り」を積むことになるという話をしました。

 

人は誰しも、過ちを犯します。

その失敗を通して教訓を得て反省し、言動や心根を改めることで人は成長し魂が磨かれていきます。

それは何十年というスパン以上に、遥かに長い目で見れば「学び」のために起こるカリキュラムの一部と言えます。

 

人が過ちを犯す時とは、大抵の場合「知らなかった」「魔が差した」ことで自ら引き起こすケースが殆どです。

そこで「無知」や「未熟さ」は経験によって上書きされていきますが、果たしてそれは「自分のせい」だけと言えるのでしょうか。

 

今の世というのは「それは間違っている」と敢えて言わない方が、円滑に回るようにできています。

人々は「世の中が間違っている」と思っても、大抵の人は自分がおかしいと思う生き方を「正しい」と信じ、平然と受け入れていたりします。

 

私たちが10代の頃はそうした風潮に反感を抱き、何かしら反抗を形に現したりもします。

しかし、社会に出ればそんな芽は徹底的に摘み取られ、いずれは「保守的な大人」となり若者の反抗心を詰む側に回ります。

社会に反抗しながら、世の仕組みに迎合することはできないからです。

 

私たちは子供の頃「将来の夢は」と訊かれて、大抵は大人になったら就きたい職業を答えさせられます。

仮に「世界を旅をしながら自由に暮らしたい」とか言えば、もの凄く心配されるか、考えを改めさせられるでしょう。

 

また大人になっても、定職に就かずにフラフラ自分探しをしていれば、大抵は「ダメ人間」と見られます。

それは、この社会が「職業という経済の歯車」であることで「一人前」となり、その役割をこなす人間にのみ「社会の一員」であることを認めるからです。

けれど「職業」も「経済の歯車」に関しても、それらは既に作られた仕組みの中で、ある程度定められたポジションだからこそ通用します。

 

例えば「アセンションコーディネーター」なんて職業はありませんし、税務署に確定申告する際も書き方に悩むでしょう。

自分で肩書きを考えてビジネスする分には良いでしょうが、なかなか地に足がついた職業とは広く認知してもらえない可能性は高いと思います。

 

つまり、私たちは既存の仕組みに準ずることでしか、社会に居場所を見つけることができません。

それは過去がそうだったというだけでなく、おそらく将来的にも基本的な考え方は変わらないかもしれません。

 

しかし、その仕組みがあまりに融通性を失い、誰もがレールの上を走る「べき」という思考に凝り固まった社会は、とても居心地の悪いものにならないでしょうか。

人間は、これまでやっていたことでも「なんか違う」と思えば、自分の裁量でやり直して良いはずですし、もし先を決めあぐねるなら、自分探しに費やす時間をしばし作っても構わないはずです。

 

ただ今の社会はそれすら難しく、過去の時代以上にレールを踏み外すことができない空気となり、一度の失敗からのリカバリーも難しい構造になっています。

ゆえに人々は窮屈極まる社会の中でギスギスした生き方をせざるを得ず、誰もこの理不尽な仕組みを変えられないために苦しんでいるとも言えます。

 

その中で、私たちは周りから「お前は間違っている」「正しい生き方はこうだ」と軌道修正されながら、それを甘んじて受け入れ、社会に適合していきます。

自分は尚も違和感を抱いていても、それを口に出さず飲み込むうち、あれだけ嫌だった社会の常識がだんだん普通になってきます。

そして、「常識」を知らない不束者が目の前にいたら、その「無知」で「未熟」な者を次第に蔑むようになるのです。

 

けれども「世の常識」が正しく、誰もが履修しておかねばならなかったのは、その知識が処世術として有効であり、クレバーな選択であったからです。

果たして、その「世の常識」というのは今なお、今後の世界を生きる上で「正しい知識」であり続けるでしょうか。

 

私は、そろそろ「常識」を根本から疑い、見直しをかけるべき時に来ていると思います。

 

そもそも、子供に「将来の夢は?」と尋ねて、その子が大人になる頃にその職業がまだあるのか、あってもそれで食べていけるのかはわからない時代になりました。

「生成AI」が出始めの頃は、近い将来「プログラマー」という職業は消滅するだろうと言われていました。

まあ、実際そうはならないことがハッキリしてきましたが、それでも「なくならない」とは言い切れないかもしれません。

 

それほど激動の世にあって、近い将来に今の企業がどれほど国内に残存するかも、予測不可能な状況を迎えつつあります。

今なお「常識」という固定観念に囚われていては、下手すると「常識人」の方が足元を掬われかねないかもしれません。

だからこそ、私は「間違っている」と素直に思う心を大事にしてもらいたいのです。

 

この世は、多くの人々が思っているような世界ではありません。

「目に見えない世界」があり、「目に見える世界」にも隠れた世界はあります。

 

善良な顔をして懐に入ってきたモノが世の主流となり、したり顔で人々の思考や生活を縛り、静かな脅しをかけていることに、多くの人々は気づかないかもしれません。

その邪悪な横顔に気づけと言ったところで「陰謀論」と揶揄されますが、そもそも「気づけ」と促す言説が全て「陰謀論」と呼ばれる世が、正常な判断能力を持っているとはどうしても思えないのです。

 

私たちが「常識」を信じて損をすることがあるとすれば、それは「常識自体が間違っていた時」です。

人々が「人生」と考えるのは、経済の中で歯車となりエネルギーや時間を消費してくれることで、得をする者たちの作った仕組みの中にあったとは考えられないでしょうか。

 

それは人々に「間違った考え」を植えつけ信奉者として育て上げることで、体制の枠組みが再生産されるとしたら、社会はそれを「正しい」と呼ぶでしょう。

そこに権威の裏打ちがあり、権力関係によって確立した社会は正統性を持ちますが、その仕組み自体が時流に最適で、真の意味で「正しい」かは人間にはわかりません。

 

その枠組みの中で、私たちは互いに「競争」を強いられてきました。

望む望まざるに関わらず、「他人より優れていなければならない」という価値観を刷り込まれ、誰に対しても比較するような思考習慣を持たざるを得なかったのです。

 

しかし、そもそも「自分と他人を比較する」というのが人間に備わった認知機能だとしても、気にしないで生きていく選択肢はいくらでもあります。

それでも「自分は他人より劣っているのではないか」と不安に駆られるのは、自分が無意識に「競争意識」を刷り込まれているからではないでしょうか。

 

人は望まなくても他人に競争心を抱き、「マウント」を取るように仕向けられています。

ただそんな生き方は、やはりギスギスした心になってきて、望まぬ生き方はストレスフルになっていくでしょう。

そして、その苛立ちを「優越感」や「妨害行為」という部分で発散させ、その応酬を世は「競争社会」と呼んでいます。

 

しかし「競争」というのは、決められたルールと同じコースで似た者同士が並ぶから成り立つ「スポーツ」であって、ドーピング剤や凶器の持ち込みも可能なバーリトゥードのレースなんてのは、ただの「戦争」です。

 

それがノンルールだとわかった勘の良い人は、戦争を生き抜くために「ハック」を駆使し、手段を選ばない勝ち方を志すようになるでしょう。

私はこれが、今の世が歪んだ一つの原因ではないかと思います。

 

自分で「登山」をするには準備もいるし、気をつけて登って行かなければいけないのだけど、社会が山登りを「競争」にしてしまったことで、ハイキングに過ぎないものを過酷なレースにしてしまったのだと思います。

普通に「登山」する上では穏やかな斜面も、他人の妨害や罠があれば危険極まる道となるでしょう。

そこで「先に登った」とか「近道がある」という話が耳に入れば、素直に一歩一歩踏みしめながら登るのも、次第にバカらしくなってくるかもしれません。

 

ましてや「山頂までリフト片道いくら」などという商売を始める人がいれば、誰しも苦しい山登りをする必要も感じなくなります。

人々は楽をするためにこぞってリフトにお金を払い、我先につまらない山登りを終えて山頂ゴールをしたくもなるでしょう。

しかし、ここに「悪意」が潜むことに大抵の人は気づきません。

 

この「リフト業者」は山登りを危険極まるレースにして、リフトが必要になるような状況にした人々と利害が一致します。

世の仕組みはわりとこういう風に出来ていて、ここまで考えて「常識」を語れる人は少ないと思います。

大抵の人は「皆こう言っているから」という多数意見を述べるだけで、常識の意味までは深く考えません。

 

この社会における「成功」とは、「どうにか早く労せず山頂ゴールを目指す」ことに終始しているように見えます。

それでは「登山」の目的は曖昧になり、誰も「山登り」の楽しさや登ることへの充実を感じられなくなります。

豊かで安全な社会になったけれど、人々の心が満たされず温もりを失った理由がここにある気がします。

 

私がここで「登山に近道なんてない、一歩ずつ自分の足で歩め」と言えば、十中八九嫌われるのは承知しています。

しかし「目に見える地雷」というのを敢えて踏ませたくないからこその忠言であり、ただの老婆心に過ぎません。

 

最近の話なのですが、何かしらやらかしそうな若者と出会い、少し先のことが読めてしまうという出来事がありました。

正論というのは「言うだけ野暮」ですし、敢えて口にしないのもマナーです。

そうは思うのですが、「痛い目を見なければわからない」というのは、どうにかならないものでしょうか。

 

「踏んでみなければ地雷かどうかわからない」と考えて地雷を踏み抜く人が殆どですが、当人の「学び」のために踏ませるべきなのか、野暮だと分かった上で止めに入るのが大人なのか、私にはわかりません。

 

望む望まざるに関わらず、人が危険や誤りを知ることが難しい世界は、それだけで被害を増やします。

「救われる」という状況が用意されない限り、同じ状況が繰り返されるだけです。

人ひとりを助けるのも大事ですが、それよりも世の風潮や仕組みを変えた方が、地雷による被害を最小限にできるはずです。

 

「時代」という括りで、今を生きる人全員がもれなく地雷を踏むような環境は、やはり何とかするべきです。

今は社会の「常識」の方がおかしいのだと、そう言う天邪鬼でもいない限りは状況が変わらないからこそ、私はこうして長文で述べたりするのです。

 

「自分自身」という存在が本来、他人と比較しても比較しきれない唯一無二の存在だからこそ、自分の人生は自分の足で登りきらなければならないものです。

まして「リフト」や「近道」というハックを使って山頂を目指しても、辿り着くのは蜃気楼のモヤの中だったりするでしょう。

 

結局は、「自分」という山を登りきるためには、自分だけの生き方を地道に踏みしめながら歩んでいくしかありません。

この「正論」はすごく嫌われるでしょうけれど、明らかに間違ったことを広めるよりはマシです。

だからこそ、私は人々にもっと「自分」というものを大切にして欲しいと思うのです。

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