楽太郎です。
今回のテーマは「悪」、それも「魔」に類する「外道」についての記事となります。
前回の投稿で、「悪」とは「◉」という本来の形から中心の「・」が抜け落ち、外側の「◯」偏重になることで生じる弊害であると述べました。
この現象が人間ならず「神」に起こると、「・」の喪失が「穢れ(気枯れ)」となり、「病神=悪神」に陥ると考えられます。
「春の巻・第四十一帖」に、こうあります。
「光は神から人民に与えられている、光に向かうから照らされる、光は ・ 、真、善、美、愛となり、またその裏の〇、疑、悪、醜、憎となり現れるぞ、御用の善となり、御用の悪となる」
つまり、「◉」が「ワヤ化」すると「疑・悪・醜・憎」の性質となりやすく、それが私たちが生理的に抱く「悪感情」に結びつき、それを体現する者が「悪」となります。
また「同・第四十二帖」の続きには、こうあります。
「悪あく憎むは外道の善、外道とは上からの光が一度人民界にうつり、人民界の自由の範囲に於ける凹凸にうつり、それが再び霊界にうつる、それが幽界と申してあろう、その幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、外道の悪となるのだ、善にも外道あるぞ、心得よ」
神示には「魔」と同義として語られる「外道」は「悪」のみならず「善」にもあり、すなわち「神の道」から逸れた「光」そのものと述べられています。
「光」があるから「物質」は可視化されるのであり、私たちはモノに映った「反射」を見ているにすぎません。
「天」から注がれた「◉」の光が、地の凹凸に反射し、屈折して霊界に反映し、そこで生じた「光」が幽界を作り出したとされます。
その屈折した「光」が地上に降り注ぐ時、それが「外道」という価値観に変わります。
すなわち「外道」とは「自由」から生じたものであり「屈折した光」にすぎません。
「悪」とは「闇=病み」である反面、「光」の一面とも考えられます。
この「闇」こそ「倒錯する自由」の象徴であり、また「光」にも「歪曲する自由」が存在し、それを「善の外道」と呼ぶのでしょう。
私たちは、死後訪れる「地獄」という世界があるとしたら、「永遠の責苦」がもたらされる場所であろうと考えます。
ただ神示を読む限り「地獄」は存在せず、「幽界」という極めて「地獄」によく似た世界が広がっていますが、そこに住む霊人は地獄的世界を「天国」と感じながら暮らすと述べられています。
スピリチュアル界隈には「引き寄せの法則」がよく語られますが、霊界では実際にその法則が強く働き、「似た者同士」が集まり、そこで霊人は共同体ならず「世界」を形づくるとされます。
そこには、おそらく常に「戦争状態」「飢餓状態」の国があったり、魑魅魍魎が命を奪い合う「ダークソウル」のゲームみたいな世界が広がっている可能性が高く、その光景を地上人から見れば「地獄」としか形容しようがないと思いますが、彼ら幽界の霊人からすると「歓喜」の世界なのでしょう。
これは「善悪」という見方を超越した「自由」の世界であり、「倒錯する自由」は私たちから見ると「悪」に映ります。
ただ、現象としては天から降る「光の屈折」に過ぎず、そこで生じた「闇」もまた、光が作り出した「影」の一部なのでしょう。
ゆえに「闇」とは「光の側面」であり、「悪」もまた「屈折した光」であるとすれば、これらは全て「大神」の腹の中にある自由の範疇であり、それゆえに如何なる悪も「許されている」と言えます。
そして、一般的に「苦しみ」と認識できる「怒り」や「痛み」、「憎しみ」や「悲哀」もまた「負の喜び」であり、底知れぬ「闇」を感じる部分もまた「光の一部」なのではないでしょうか。
だからこそ、神示「地震の巻」では、岡本天明氏がしきりに「歓喜」をテーマになされているのだと思います。
「苦しみが喜びであるはずがない」と直感的に思うでしょうし、なかなか腑に落ちない部分があるかもしれません。
例えば、女王様に鞭を打たれてブヒブヒ言うことが最高にストレス発散の人もいれば、「ペヤング極激辛」を動画撮影関係なく美味しく召し上がったりする人もいます。
「蓼食う虫も好き好き」と言いますが、天の造り給われた「自由」が、「善悪」の多様性を生み出しているように思えます。
本来「◉」の要素を持つべき存在が、「・」の欠落によって「◯」となる「ワヤ化」を、私は「病」と表現しました。
ただ、この「病」は自ずと罹患するものでありながら、自ら「好んで」患者となれる性質もあり、どうも「病」の状態をアイデンティティにすることもできてしまうようです。
「悪神」を始め魑魅魍魎の類が「神に仇なす者」として、魂の病の「治癒」や「救済」を必ずしも求めず、逆に「魂の医療行為」そのものを憎悪する傾向すらあります。
どうもこれが「悪の外道」というものであり、私たちが想像する「悪魔」の存在に限りなく近い、地獄的世界に住まう者たちです。
私から見て、彼らは正直すぎるくらい「悪魔的」であり、漫画を描いていた私が言うのも何ですが、性質としては漫画に出てくるような悪魔そのものです。
そして、この世にはまるで「漫画のような」悪魔崇拝者もいて、実際に「悪魔的儀式」を行って「悪魔の力」を手にする者もいます。
こう言うとさらに胡散臭くなってしまうのですが、されど数年後にはこれが「眉唾ではなかった」と発覚するような事態も起こりうると私は思っています。
ただ、彼らは厳密には「悪魔」ではなく、「悪魔的性癖をもつ霊人」であり、地獄が存在しない代わりに「地獄的世界」が幽界に広がっているのと同じ道理です。
人間からすると彼らとの関係を断ち、一切の交渉も持たず「魔除け」をしていれば特に害をもたらす存在ではありません。
しかし人間が何らかの理由で「神に仇なす者たち」と霊線が繋がった時が問題です。
人が生きる中で抱く「憎悪」や「執着心」などの負の感情が「魔」の性質を引き寄せ、彼らとの霊線が強まれば強まるほど、悪霊的な干渉が強くなります。
それを「憑依」と取ることもできますが、厳密には「中に入る」という表現は相応しくなく、大抵の場合は「感応」であり、霊的影響が一時的に人格に出るに過ぎません。
ただ「悪魔的霊人」の階層が高度になればなるほど「神」に近い存在となってくるので、人間の肉体を守護する「大我」があっさり「悪神」に「神の宮」を引き渡してしまうことがあります。
その際に起こるのが「悪神がかり」です。
「富士の巻・第六帖」に、こうあります。
「悪神総がかりで善の肉体に取り掛かろうとしているから、よほど褌ふんどし締めてかからんと負けるぞ、親や子に悪の神懸かって苦しい立場にして、悪の思う通りにする仕組み立てているから気を付けてくれよ」
こう説かれると、ハッとする方もおられるのではないでしょうか。
この「悪神がかり」とは、実は私たちが思う以上に日常茶飯事で起こります。
ある条件で人が「豹変」するとか、突然人が変わったようになる時、大抵は「心の病気」や「ストレス」と考えるでしょう。
しかし人間が弱り目に幽界と「霊線」が繋がる時、その霊線を辿って「魔性の者」たちが現れます。
そして、宿主の波長に一番合った「悪魔的霊人」が肉体を乗っ取ろうとするのです。
宿主となる本人は、心が闇に染まり切っているので「悪魔的霊人」を「仲間」と思い、神の宮に引き入れてしまうのです。
こうならないために、普段から「身魂」が曇らない生き方をしながら、自らの心身を「祓い清め」していかなければなりません。
「邪気邪霊の類」から身を守り健康な生命であり続ける、それが「神道」の目的です。
この考え方が我が国に根づいていた頃には、まだ「現世」と「常世」との間に「境(坂)」が存在し、その往来に気を配っていました。
しかし現在、現界が「幽界同様」となったことで、魑魅魍魎の干渉をもろに受ける時代になっていると言っても過言ではありません。
つまり「神の道」が閉ざされ、「神道」の目的が希薄化した現代において、「穢れ」のもたらす弊害が十分に認識されていません。
現代人は心身に異変があったり、具合が悪ければ病院に行き、それなりの治療や処方箋を受けて一時的にでも「良くなった」と感じることがあります。
ただ「医学的処置」は物質面での解決方法に過ぎず、実際には霊的な原因が伴うケースが非常に多いのです。
医学的治療によって快癒し、それで全ての問題が解決すれば良いのですが、物質面で100%改善できたとしても、「霊的面」を合わせると目に見えるアプローチには50%ほどの処理精度しかありません。
とは言え「霊的アプローチ」でも最大50%程度の解決能力しか持たないため、本来なら霊物両面で問題に対処しなければなりません。
私は前回の記事で「◉」が「◯」となる時が「魂の病」なのだから、「・」を入れ直すことが「治癒」に当たると書きました。
そして「魂の治癒」とは「改心」にあり、「身魂磨き」こそが処方になるとしました。
ただ「◯」から抜け落ちた「・」が消失するにしても、再び入れ直す「・」はどこから持って来るのかについて、少し考え不足だったかもしれません。
そこで「・(キ)」とは何なのか、改めて問い直してみる必要があります。
大神が「◉」という魂の全要素を有するからこそ、「三種の神宝」の神能である「剣の御心」「鏡の御心」「玉の御心」の神力が均衡し相互に組み合い、「ウム」と「ナル」の経綸が発動します。
仮に「悪神」が「・(玉)」を喪失し「◯(剣と鏡)」だけの御力となったとして、完全に「魂(玉)」が消失した状態では「改心」したところでどうにもならない気がします。
何が言いたいかというと、実際に「・」が喪失したら入れ替える「心」すらないはずであり、実際に「・」はなくなったように見えて、本当のところは完全に消失することがないのではないでしょうか。
つまり「◯」となった魂の状態は、ごく僅かでも「・」が残っており、仮に九分九厘(99%)「悪」に染まっても、「一厘の仕組み」があれば再び「・」に火を灯し、いずれ完全な「◉」の形に戻るのかもしれません。
「黄金の巻・第二十三帖」には「残る一厘は悪の中に隠してあるぞ」とあります。
冷静に考えて、人間が「悪」となる時、完全に「・」が欠落するなら「改心」は容易に行えず、それどころか「人間」という定義から外れてしまうのではないでしょうか。
「・」とは神の「分御魂(わけみたま)」であり、これがあるから動植物とは根本的に異なると言えるからです。
ゆえに「身魂磨き」や「改心」の果てに「完全体」に戻りうるということは、「◉」という基本構造は如何なる「悪」と言えど変わらないと言えます。
もしかすると、「◯」の状態はろうそくの「火」が限りなく小さくなった状態に近く、これに再び火(光)を灯せば、また元の輝きに戻せるのかもしれません。
「悪神」がもし「世を金で潰す計画」を立て、人間に「金の仕組み」を吹き込み、世を腐らせる構造に造り替えたとしても、そこにある種の「創造性」や「才能」が見られるのも奇妙な話です。
もしかして悪神にも「・」が何らかの形で残っており、「・(ム)」から「◯(ウ)」を生み出す「ウム・ナル」の神力が継承されているからこそ、「悪の仕組み」をここまで完成させることができたのかもしれません。
つまり悪神も「愛・善」「真・智」という「光」を失い、「疑・悪・醜・憎」という側面に侵されていたとしても、まだ「ウム・ナル」という力が残るということは、やはり「◯」の状態でも微かに「・」の要素はあるのでしょう。
ということは、如何なる極悪非道な「地獄的存在」であろうと「◉」の基本構造を持つ以上は、「善」に立ち返る可能性が「十分十厘(100%)」存在することになります。
「◉」自体が「大神」の御魂の映しであり、遍く霊人・神がこの性質を受け継いでいるのだから、どんな魂でも「善」の全要素から出発し、その「闇=病み」も「光の屈折」に過ぎないのだとしたら、どんな「悪」も「善の一部」であり「神の現れ」と言えます。
これは神に仇をなし、自らを「魔」と称するような闇の者こそ、絶対に指摘されたくない事柄かもしれません。
だからこそ神示では「悪」が「悪の御用」と呼ばれ、「悪を憎むな」と語られます。
そして悪を憎む「善の外道」を戒めながらも、その「外道」も光の一つの現れとして、この宇宙に必要な要素のように説かれるのだと思います。
私たち人間は、「悪行」を目の当たりにした時、義憤だけではなく生理的な嫌悪感も伴い、その反応をほぼ「無意識」で行います。
「無意識」であるからこそ、私たちには「腹」の底から「悪」を憎む心が染みついていると言えます。
これは一朝一夕で改められる考え方ではなく、ふとした反応も完全に抑えるためには、草の根レベルの「改心」が必要です。
私たちは「悪を憎む心」を「改心」するべきである、という発想までに行き着くことすら困難です。
むしろ「悪を憎む心」こそ「善」や「正義」と考えている節があり、そこに真の課題が存在することに気づくことすらできません。
その思考の癖を直し切るまでに、どれほどの覚悟や努力が必要なのか、私たちには推し量ることすらできず、また実際にそれをやり切ろうとも思わないでしょう。
けれど、ここまで考えなければ「真の改心」に至れず、「悪を抱き参らせる」ことはできないのではないでしょうか。
私たちは「善」は「善」であり、「悪」の要素など存在しないと考えます。
そうではなく、神示には「善」にも外道があり、善の中にも「悪」があると説きます。
それゆえ、厳密には「善悪」を水と油のように分離することはできず、マーブル模様のように混合し、さらに「裏表」の関係で現れるような事象を「二項対立」で考えることに、そもそも無理があるのかもしれません。
そう考えると、「善の神」であられる大神が、「悪」をわざわざ世に生み出した理由が見えてくる気がします。
「悪」という負の性質「−」があるからこそ、「+(善)」のみでは成立しえない「多様性」が生み出されます。
それこそが大神の許し給える「自由」であり、悪が「倒錯する自由」、そして「屈折した光」とされる所以です。
もし「悪(−)」を滅ぼしてしまえば、「自由」は「+(善)」の世界にしかありません。
それでは善人が和気藹々とする以外の広がりしか持たない世界となり、多様性が存在しないゆえに宇宙は「弥栄えない」のです。
もしかしたら、既に全知全能の域に達し、「引き寄せの法則」で天国的世界しか創造できなくなった神は、自らの「弥栄」のために「地球」を造り、「天国」とは真逆の世界を生み出されたのかもしれません。
それは神々の「成長」のみならず、全宇宙の「多様性」や「自由」のためであり、それを容認し乗り越えるからこそ、新たな世界が拓かれるのではないでしょうか。
そう考えると、私たちは「悪」と向き合い、「悪」との共存を選択するからこそ「弥栄」となり、地上を「天国」に向かわせることができるのだと思います。
ゆえに「悪」を嫌悪するだけでなく、また「善」の世界に閉じこもるだけでなく、「悪」が悪たる理由を知り、彼らとの調和を志す必要があります。
ただ現実的に彼らが「話してわかる相手ではない」ことは歴史が物語っており、「酒を酌み交わせば理解し合える」とは言い切れないのも否定できません。
最も現実的な手段は、相互に「コロニー」の中での繁栄を認め合い、その「境界線」をしっかり定め、互いに干渉し合わないことかもしれません。
しかし「領土」を拡張したがる者たちに対しては、自らのテリトリーを「守る」必要があり、そこで持つべき「力」や防衛に係る「戦い」を忌避せず、現実的に「暴力」とも向き合う必要があるのではないでしょうか。
神道で言えば、それが「罪穢れ」に対する「祓い清め」となりますが、人間の世界で言えば社会における「防犯」や「国防」です。
「悪」を神が許し給えるなら、自らを守るための「力」を持ち行使することは、必ずしも「悪」とは言い切れません。
まして「必要悪」は避けて通ることはできず、やはり綺麗事ではこの凹凸だらけの世界を生きることはできないのでしょう。
もし私たちが真の意味での「多様性社会」を作るのであれば、「悪平等」に侵されてはならず、自由に伴う「凹凸」もある程度は容認するべきだと思います。
「白一色」の多様性を望むからこそ、グローバリズムのような歪な「悪平等」が世に流布してしまったと言えるからです。
ただ、ここで世の誤謬に腹を立て批判するのではなく、より時代を「合理的」にする方法を模索していく方が建設的でしょう。
そうして新しい価値観で世を塗り替えていけば、「グローバリズム」も学びの礎となり、いつかその考えも「悪の御用」を終え、世はより天国的社会に近づくのだと思います。
「凹凸」のある世界を受け入れ、「善」の悪癖も「悪」の悪癖も乗り越える、そこに向上精神の現れでもある「弥栄」の世界をお造りになられた、「大神」の御意志があるのではないでしょうか。

