楽太郎です。
近所の公園の桜が、徐々に咲き始めました。
この株はまだ蕾ですが、一部は8分咲きの桜もあります。
今年の桜を眺めていて、何となく違和感があります。花に元気がないというか、生命感をあまり感じません。
去年から冬の間の異常気象を鑑みても、木々としては調子が崩れるのもわかるのですが、なぜか今年の桜はパッと咲いてすぐ散りそうだと思いました。
何故だろうかと考えたのですが、大地のエネルギーが枯渇しているように感じます。
これも理由は考えてわかるものでもありません。ただ、この様子を見ていると今年は野菜や果物の実りはあまり良くないかもしれません。
これは直感にすぎないので、実際にどうなるかはわかりません。
最近、街ゆく人々を観察しながら、めっきり邪気の周波数に合わせることができなくなり、認識しにくくなりました。
それゆえ、「この人はすごい邪気を放ってる」という感想すら抱かなくなりました。
私がこの能力に目覚める前に、目に入る全ての人に感じていた「普通」の感覚です。
だから私としては外出もしやすくなりましたし、人間に対して違和感も感じづらくなりました。
しかし、やはり人々と自分には圧倒的にズレを感じる部分もあります。
東日本大震災の時、私は仙台のビルの一室で罹災しました。
あの時は正直死ぬかと思いましたが、とりあえず非常口から降りて下の公園に避難しました。
その公園では、皆が焦って着の身着のままで出てきたので薄着の人もいました。
3月11日、小雪が舞っている中、私たちは怯えながら途方に暮れました。
しかし、同じビルに入っていた会社の人々が何となくヘラヘラしているのを見て、私は「大変なことになったのに、何故笑っていられるんだ?」と思いました。
そして私たちが集団で避難しようと動き始めた時、彼らは半壊のビルの中へ、業務を再開するために戻って行きました。
人は急激な変化が起こった時、正常バイアスが働いて逆におかしな行動を取ることがあります。
震災によって人々が混乱する中、変化を受け入れられず何をすれば良いのかわからなくなった彼らは、さっきまでやっていたいつもの行動を選択することで、安心しようとしたに違いありません。
けれど、建物は事実上の半壊状態であり、その時にはすでに大規模停電が発生していたはずです。
彼らがその後どうしたかはわかりませんが、公園でもう炊き出しの準備を始める人もいて、色々な人がいると思いました。
今、街ゆく人々から感じるのは、その震災時の違和感です。
非常事態だし危機感を感じて動くべきなのに、わざと変わらない行動を選択し、安心しようとしているように見えます。
中途半端に戯けたり、怒ってみたりして行き場のない感情を発散させて、腑に落ちたフリをしているのではないでしょうか。
多くの人は、私の方がおかしいだろうと言うかもしれません。
焦りはあるけど何をしたらいいかわからないし、ジタバタしたところでしょうがない、という感覚なのでしょう。
ただ、私には人々が半壊したビルに戻っていった会社員を想起させて、何となく不気味に感じるのです。
思えば、あの震災が日本の岐路でした。
あの辺りからデマが説得力を持ち始め、日本の腐敗が一気に進行し、少しずつ日本人が正常な感覚を失っていきました。
時代に変化のトリガーがあるとするなら、新型コロナの流行と同じくらい、東日本大震災は日本人の霊格に強い影響を与える出来事でした。
そこには得体の知れぬ大きなシナリオがあり、そのシークエンスの一つだったのかもしれません。
厳密には良いとか悪いとかではないのでしょうが、果たして、あの頃日本人は正しい判断をしたのでしょうか。
今の世は良くない、というのは誰しも感じます。
しかし、今の世の混乱は「禍事」という形で、これまでの人の世のカルマの積み重ねによってもたらされたもののはずです。
自分が気持ち良く生きてきた暮らしの裏には、負の責任はずっと累積し続けてきたのです。
それは少しずつ、気づかないレベルで進んできたからこそ、誰もが「自分は関係ない」と思えました。
けれど、今こうしてその因果が顕在化している時、見て見ぬふりをすることはさらに罪を積み上げることになります。
そのカルマを解消しない限り、人と世を改めることはできず、人と世を改めることがカルマの解消になるのです。
ゆえに、今の世を見渡して疑問を持ち、問題をしっかり直視し、例え自分が全てを変えることはできなくても自分を変え、それによって行動を変えていく、それが世界を変えていく第一歩になるはずです。
世の中には巨悪があり諸悪の根源で、彼らを打ち倒さなければ平和も安寧もない、と考えるのは正しくもあるのですが、それでは平和も安寧も実現しません。
「悪」とは、悪というこの世に必要な因果を背負っているだけの人々にすぎません。
悪が犯す罪、罪によって生じる災いや禍事も、この世を糺すために世を乱す役目を持っているのです。
私たちが「彼らは間違っている」と思い、糾弾し世を糺していくことも社会にとって重要なことです。
しかし履き違えてはならないのは、間違っていることをしている人々は、「間違ったことを正しく行っている」のであり、それも天の道理の下では必要なことだということです。
岡本天明翁が書き記した「日月神示」において、「悪とは我よしの事ぞ(青葉の巻・第八帖)」とあります。
私は「日月神示」はどうやら本物らしい、と認めざるを得ません。
今の状況をここまで的確に説明するテキストは、スピリチュアリストの文章でもあまりありません。
そして、私自身この書を降ろされた神様とのご縁も感じるのです。
「黄金の巻第五巻・第九十七帖」にある一文を紹介します。
同・第九十六帖。
「善と悪との動きを心得なされよ、悪は悪ならず、悪(あく)憎にくむが悪、神の理(みち)は弥栄えぞ」
「日月の巻・第九帖」ではこう書かれています。
日月神示では、悪とはこの世の働きにおける一つの側面であり、善は悪(ア九)を改心させ和合することで「弥栄の世」となると説かれています。
悪を滅して世を糺すために「三千世界の大洗濯=大峠=神と悪神の戦争」が起こっているとされますが、その目的は「悪の改心」であるとのことです。
このように、悪とは必要悪であり、世界のめぐり(因果)の中では「陰」であるとされます。
私たち人間は、悪を滅ぼすためには悪を根こそぎジェノサイドしなければならないと考えます。
そう考えるから、「浄化すべき対象」を選択し、選択できなければ手当たり次第に殺戮をしなければなりません。
こうして起こっているのが戦争です。
しかし、弥栄の世に至るために必要なのは「あなない(助ける)」であると日月神示では説かれています。
「弥栄の世」は「ミロクの世」とも呼ばれますが、弥勒菩薩とは遥か未来、人を慈悲によって救済する仏であります。
この「あなない」とはまさしく「慈悲」であり、例え世界を混乱させたのが悪神であろうと、神の目的は「悪の救済」に他ならないということです。
私たち日本人は今、「あいつが悪い、これが諸悪の根源だ」と問題探しに躍起になっています。
かくいう私もそうです。それらしき原因がわかれば、そこに世を悪くした責任をなすりつけ、自分はさも問題がなかったかのような顔をします。
しかし、本当に一から十まで悪人だけが悪の権化であり、悪事の責任があるのでしょうか。
無碍の人々がその悪を支え、悪事の一端に力を貸したことは本当になかったのでしょうか。
そのことを深く、反省すべき時にいます。
その罪に心当たりがあれば、私たちはこの世界を荒らした責任に対して、反省して後片付けをし、元に戻していく必要があります。
それが、神様がお造りになられた地球という星に対する、人間の責任なのです。
何をしたらいいかわからない、それは皆そうです。
何もできないかもしれない、それも同じです。
しかし、こういう時こそ神様に手を合わせ、とりあえず反省するところから始めてみたらどうでしょうか。
きっと神様はその心持ちを認め、ヒントを与えてくださるに違いありません。