「神代」とは何か

楽太郎です。

先ほど、散歩をしていたところすごい光景を見ました。
薄曇りの雲の向こう、太陽を取り囲む広い円形の虹がかかっていました。

あまりに不思議な光景で唖然としました。
スマホも持ってきていなかったため、残念ながら写真に収めることはできませんでした。
こういう神秘的な光景は、カメラで撮って見せびらかせば良いというものでもないので、これはこれで良かったかもしれません。

13日の深夜の満月から、確かに何かが変わりました。
私の目線からは、見える景色が全て美しく感じ、木々や自然の風景がまるでジブリアニメか新海誠監督映画のような、キラキラした空想的なイメージと重なります。

出会う人それぞれが輝いていて、以前のような良くない波長を感じ取れず、全ての人が善人であるかのような印象に見えます。
確かに波長の高い低いは感じますが、基本的に邪気を感じません。

身体が軽く、頭の一つ上のあたりに意識がある感覚で、若干フワフワします。
息をしているだけで脳が蕩けそうになるというか、何も意識しなくても気持ちが良いのです。

不思議なことに気がついたのは、眼鏡をしていないのにやけに物がハッキリ見えるということです。
私は目のピントが合ってる感覚について、これまでの近視そのものが霊障だったのかもしれないと思いました。

これほど感覚が変化した理由は一つで、私の魂が「神代」に上がったからだと思います。

歩きながら、「神代」とは何かを考えていました。

私が神代と言って上がることを目指してきた世界は、特別な異世界という訳ではありません。
ただ普通の意識の波長域とは違うというか、現実的に目に見える世界は変わらないのですが、高い次元のエネルギーと感応しやすいという特徴があります。

そのエネルギーの波長を捉えることによって、インスピレーションや想像力が刺激されます。
この波長域の向こうに人々が言う、神々や天使や精霊などの高次元の存在がいるのでしょうが、実際に何か特別なものが見えるわけではないと思います。

この高い波長域に意識がある限り、ネガティブなエネルギーは受け取りづらくなります。
目に見える現実が違うということは、引き寄せる現象も変わってくるということです。
ポジティブな波長は前向きで発展的な展開をもたらし、世がどれほど混乱してもカオスの波動に飲まれることはないでしょう。

ここに至るまでに様々な試練がありましたが、おそらく神仏に対して無自覚で、どのような信念であっても「来る人には来た」という世界線だと思います。
私自身は、「神代か人世の人か」という線引きはあまり意味がない気がしています。
その人それぞれに引き寄せる事象が違うだけで、これまでの世界のように運の良い人は運が良いし、不運続きの人は不運が続くようなものです。
それぞれの人に人生のテーマがあり、それを他人がどう批評しても意味のないことです。

ただこれまでの時代と明確に違うのは、「魂を人格よりも優先する」ことが出来た人に幸運が巡って来るということです。
魂を人格より上位に置く、つまり頭で考え欲望や感情で動くよりも、心の奥底から湧き出る力を優先させて行動することを言います。
魂とは神から与えられたものであり、ゆえに魂と繋がることで神のエネルギーを自分に降ろすことができます。

そのためには「心」と向き合う能力が重要で、自分自身の魂と繋がるからこそ、自分本来の力や才能を引き出すことができます。
心と向き合い、自分の本音や本当にやりたいことを知るのはとても難しく、感情的なもたれ合いや依存があれば、それを手放さなくてはこの感覚を自分のものにすることができません。

神代に上がるための修行とは、「浄化に始まり浄化に終わる」というものでした。
そのための浄化は、自分の波動をクリアにすること以上に、社会的な依存や精神的な依存から自立し、自分自身のエネルギーを自分のために使えるようにしなければなりません。
自分のエネルギーを自分のために使えるからこそ、余剰なエネルギーは他人に分け与えたり、世の中のために使うことができるわけです。

しかし、私を含めて人々は生きる上で働かなければならず、「お金」を得るためには自分のエネルギーを労働に変換する必要がありました。
ただ、働くことはしょうがないにしても仕事を人生の全てと考えず、自分の人生の指針を生きる道筋として定め、現在のルーティンから精神的に自立すれば今の職場まで投げ出す必要はありません。

神代に上がるために、神様が重要視されていたのは、自分自身のエネルギーを自分自身のものに出来るかにかかっていたのです。
そのプロセスにおいて、自分のエネルギーを社会のシステムに依存したり、他者からエネルギーを搾取して自分の支えにしていた人は、当然ながら自分のエネルギー源を自分の元に取り戻すことができません。

そのエネルギーこそ、「分身霊(ワケミタマ)」として人それぞれに授けられた魂の力であり、この生命力を引き出す過程を人や何かに依存している以上は、自己の独立性を得られません。
自分で生命力を引き出す能力が乏しいため、そういう人は他人を使役してエネルギーを奪ったり、富や財産を吸い上げて物質的なエネルギーを自分に集めたりしました。

ただ長い間、これまでの社会にエネルギーを搾り取られた人々が残り滓のようになってしまったため、企業や政府はもう搾り取れそうにない日本国民を見限り、外国人を大量に呼び寄せてエネルギー源を代替しているのです。
そういう仕組みに気づき、実際には完全に抜け出せなくとも、精神的な自立を守り抜いた人は次の世界に足を踏み入れることができたのだと思います。

神様は、そう言った搾取の枠組みの中に目的意識を見出し、自分を疎かにして生きるのはやめようと促しておられたのだと思います。
だから、「自分のエネルギーを自分のために使う」には、あくまで独立独歩の精神が必要でした。

神様は心ある人々の心根を立たせるために、これまで手放しや浄化を促すような気づきを社会に与えてきたのです。
世に起こる悪夢としか呼びようのない事象も、究極的に言ってしまえば人間に気づきと目覚めを促すために起こされたと言って良いと思います。

普通に見れば破滅的で暗澹たるものにしか見えませんが、ここで人々が心を改めて立ち上がることこそ、神様が意図したことだったのでしょう。

私には、数週間前に「水と油」のビジョンが突然見えました。

ここで言う「水」というのは人々の感情であり、感情で繋がったり離れたりしているうちは、水に漂う油も一つになることはできません。
油がまとまるには、水のような「感情」ではなく同じ意識、同じ目的である必要があります。
その目的意識こそ「魂」からの繋がりであり、感情で似たもの同士で繋がっているだけでは、目的意識が一つになることは困難です。

だからこそ、独立独歩の精神で生きる人々が理性と情熱で繋がって行ける場を神様が用意しました。
それが「神代」であり、新しい世界の基盤となるエネルギーの空間なのです。

私はここまで到達した人が多いのか少ないのか、まだ今のところ認識できていません。
おそらく波長の高い低いでわかるのは当面先のような気がします。
しかし、見回す限り人々の波長域が全体的に開放的になっている印象があります。

私は未来に関して全く悲観していませんが、喜ばしい時代になるには悲惨な過程を経験しなくてはならないと思います。
今、この世界や社会に巣食う搾取の仕組みは、想像以上に悪辣で、複雑に足元まで張り巡らされています。
これを取り除くためには、ジワジワ世の中が良くなっていく程度では不可能で、どうしても大変革は避けられないように思います。

結論的に、「こうすれば助かるだろう」と言う目論見はほぼ通用しないはずです。
その誰にも予測し得ないカタストロフを凌ぎ切るには、自分の直感と神様からのメッセージが頼りです。

逆に言えば、それさえあれば生き残れるかもしれません。
人間の人智を超えた法則が発動する世界、「神代」がいよいよやって来ました。