楽太郎です。
前回の記事に書きましたが、私の夢は崇敬する瀬織津姫様に立派な神社を建立することです。
今のところ、「瀬織津神社」という社名にしたいと思っています。
全国に瀬織津姫命を主祭神とする神社は珍しく、龍神や弁財天、不動明王や宗像三女神としてお祀りされていることが多いようです。
瀬織津姫様は祓戸大神として有名ですが、滝や川などに神社が鎮座されていることがほとんどです。
神社を建立する時には、清流のある土地か滝が近くにあるような水辺が理想的だと考えています。
「お金」は目的達成のために必要な手段ですが、神様は手段を目的化してでも願いを叶えて欲しいとは思われないでしょう。
予想可能な「成功」という仕組みがあることで、どれほどの人々が自分の個性や生き方を捨て、同じ方向に群がっていたのかを考えねばなりません。
その栄枯盛衰を予期することがビジネスチャンスであり、その機運を捉えることを人々は「金運」として崇めてました。
そして「神様のご意志」をきちんと聞いて実行するというお役目を果たしてこそ、巡ってくるものではないでしょうか。
人間は「性善説」を好みますが、特に日本人はその善良さを逆手に取られ、今の有様があることに未だ気づきません。
しかし人間は「安定」をこの世に求めるからこそ、自分たちの力だけで完成する「経済」というエネルギーの場を作り出しました。
そこでは、自分のエネルギーを自己犠牲的に献上するほど、「真面目」とか「忠実」などと美徳扱いされてきました。
しかし、その美徳はこの社会経済を維持するため、仕組みの一部として機能したのも事実です。
自分のエネルギーを労働としてお金に変換し、企業や人に奉仕することで評価を得るシステムに忠実なほど美徳とされたわけです。
その中でも成功者は、経済の枠組みを保つためにメディアや業界でフィーチャーされ、その姿を輝かしく見せ、理想のモデルとすることで人々のマインドを作り上げました。
社会奉仕としてのビジネスがあり、ビジネスの上での自己犠牲は美しいとされてきました。
しかし、実はその美しさの背後に悪意があったからこそ、いくら働いても楽にならざる、貧しい国となったのが近年の我が国ではないでしょうか。
我々日本人が「おもてなしの心」や「企業努力」として美化してきた奉仕精神の背後に、人々の労働を媒介として肥大化してきた権力構造が存在します。
この国の中枢にいる権威筋は、人々の勤労意欲をエネルギー源として駆動し、未だに圧倒的な影響力を持っていることを忘れてはなりません。
この社会において、搾取に忠実であることが「善良」とされるため、世には批判が許されない風潮がありました。
自分のエネルギーを可能な限り献上するのが美徳であり、人々が美徳を追い求めるほど労働に変換されたエネルギーは吸収され、消耗してしまいます。
その自己犠牲は社会の同調圧力によって固定化され、人々は愚痴はこぼせても反発することが許されませんでした。
人間にとって、エネルギーとは神様から与えられるもので、人間の身体に備わる生命力は本来自分のためにあるものです。
精神的なエネルギーは、神の分身霊から湧き出る神性を抽出し、思考や行動に変換させています。
ただの物質だと思われている自然や動物のエネルギーも、素材を取り出して加工し、それを身体の一部として取り込むことで私たちは生きることができます。
本来、人間が社会に貢献する上で役に立つ才能や元気は、一人ひとりが生きるために神が授けているのです。
しかし、これまでの社会では、人々がそのエネルギーを即座に換金するために使っていました。
自分の健康な生活を保つために必要なエネルギーが不足すれば身体を壊す原因になり、精神を病んでしまい命を絶つことすらあります。
けれど、エネルギーを使い切ってもそれに相応しい対価など、この社会においてほぼ得られないのです。
お金は確かに万能ですが、全てに使えるからと言って全ての物が手に入るわけではありません。
しかし、拝金主義の世では資本と権力さえあれば事実はおろか、一般認識すらも捻じ曲げることができました。
そうして現実を唯物的な世界にすることで、人間の持つ形而上学的なエネルギーを効率よく物質に変換してきたのです。
ただ、そのエネルギーの循環システムは今、限界を迎えつつあります。
もし通常の流れで一向に進まなかったり、改善せず悪化していく一方だとしたら、どこかに循環の障害があるということです。
人々が発展に向けて勤勉に努力しているのに、衰退が加速する一方なのは明らかにおかしいのです。
つまりこの社会では、どこかでエネルギーが漏れており、誰かがエネルギーを吸い上げているからうまくいかないのです。
これが、我が国に今蔓延っている停滞の原因です。
ただ、この停滞を打ち破るにはエネルギーを阻害している原因を取り除くことが必要ですが、今の日本人にそれを行う能力はありません。
いかなる権威に縋ろうと、今ある権威が真の意味で人々や社会を守りきれなかったからこそ現状があり、今ある権威によって世を糺すのは現実的ではなく、それゆえ新しいやり方が必要なのです。
神の視点で見れば、人間がこうして自身の生命エネルギーを換金し消耗していく仕組みは、決して美徳には感じられないでしょう。
人間が自分らしくあり、健康にのびのびと生きてこそ魂の喜びがあり、生の価値があります。
たかだか一瞬の快楽や、不安を打ち消す安定のために、人生の時間や生命力を犠牲にするのは勿体ないと感じておられるに違いありません。
人間の価値観では正しいと思われてきた勤勉さが、これまでの社会の枠組みの中では残念ながら裏で悪用されてきたのです。
それゆえ、人間社会で「善」とされてきた行いは、必ずしも神の目線では善とは言い切れないはずです。
魂の本来のあり方を抑圧するような生き方は、実際に人間本来の生き方ではありません。
「お金」とは望む生き方を実現する上で、生活と自由を保つための道具にしか過ぎません。
しかしその道具を手に入れることを目的化したために、お金という道具を求めて人々は生き方を決めるようになってしまいました。
それを人間に改めさせたくて、神々が世界の変革を行っているのです。
この世界で「善」とされている過剰な奉仕、自己犠牲によって人々の生命力は枯渇しようとしています。
この状況において、人間社会で善とされてきた価値観は見直されるべき時に来ています。
それを疑うことは決して反社会的なことではなく、各々の生命を守る上で大切なことです。
「お金」よりも大事なものを軸にしてものを考え、行動を決める。
生殺与奪の権利を腐敗した人間に委ねるくらいなら、人生の指針を自分の手に取り戻し、あるいは神様に委ねるべきです。
もし心に迷いがあるのなら、今一度神様に手を合わせて祈ってみるのも手だと思います。
「金運」とは、自分の行動の先にあるものです。
神様の恵みが先に来ることはありません。