スピに惑わされるな

楽太郎です。

私はスピリチュアリズムを学んでいる最中ですが、あえて言うならスピリチュアルの界隈自体にはそれほど興味がありません。

界隈は、どこの分野でも権威を中心に回ります。
最近話題のマスメディアの問題を見てもわかる通り、「間違っていても正しいことになる」正当性を保証するのが権威なのです。

だから、私はインフルエンサーがさもありなんと語ることほど冷静に捉えます。
代わりに、「これは真実かもしれない」と思うことは、世間の評価とは無関係に直観を信じます。
私が思うに、「界隈の偉い人が言っていたから」と信じる行為は、土の時代のトップダウンの思考と同じ仕組みです。

権威だろうが、流行りだろうが自分の直観を信じて判断することが、風の時代における自由の在り方なのではないかと私は思います。

今回この話をしようと思ったのは、スピリチュアル界隈でかなり話題となっている「2025年7月問題」に関して思うところがあったからです。

私は当初から、「2025年7月」に何かあるという感覚はまるでなく、だからこそ興味がありませんでした。
しかし、スピリチュアルの勉強をしていると自然と入ってきたこともあり、私が思ったことを書いておきます。

私自身は、2025年7月は「ノストラダムスの大予言」になりそうな気がしています。
もし仮に何かが起こるとしても、それは人間一人が変えられる事態ではないはずです。それは自分よりも大きな力か、神様のご意志で起こされることなので、自分が神ではない限りどうしようもありません。

話題のテーマである人工地震についても、それが仮に人間の意図したものであろうと、いずれ日本列島には大きな災害や地震が必ず来ます。

なぜなら、地震も台風もこの星で定期的に起こる自然現象だからです。私たち人間は生きている地球の上、神様の体の上で命を頂いている存在です。
それを人間のわがままでどうしようという発想自体が、烏滸がましいのではないでしょうか。

私たちにできるのは、人工地震を引き起こし戦争を仕掛けるような巨悪と戦うことでしょうか?
それを阻止するために、国民民主党や維新の会に投票すれば私たちは助かるのでしょうか?
挑戦的な言い方になってしまいますが、これは政治の世界の話です。スピリチュアルの世界にあるテーマの軸は、こういった話題に右往左往することではありません。

むしろ、「なぜこういうことが起こりうるのか」を今、高い視座で考えるべきではないでしょうか。

なぜ人間は、自国の領土すらまともに統治できないのに、他国を侵略してまで領土を拡張したいのか。
その裏に人間と富を占有したい勢力がいるとして、神は彼らをどういう眼差しで見つめているのか。

まず、「災害を回避するためにはどうすればいいか」という思惑で真実と向き合うのではなく、仮に自分の身に災害が降りかかるとしても、その未来をどう解釈し自分の生活に落とし込んでいくのかを考えてみる。
私はそれが「スピリチュアリズム」なのではないかと思います。

スピリチュアリズムとは、精神を使って望む現実を引き寄せるためにあると考える人もいます。
私はそれを否定するつもりはありませんし、確かにスピリチュアルの大きなテーマの一つだと思います。
しかし、現実を変えるために不安を覚え、妙な緊張をしたり変な縛りで生きづらくなるのは、本来のスピリチュアルの定義には当てはまりません。

「引き寄せ」や「現実創造」も、望む結果のために望まない生き方を選択するのは本末転倒だと思います。
反省や懺悔や自制は確かにスピリチュアル的な修行に必要なプロセスですが、違和感を無理に飲み込む必要はありません。

スピリチュアリズムとは精神の自由を求める道であり、内面的な豊かさや幸福を志向するものだからこそ、自分が成長していくためにあるのだと思います。

「2025年7月問題」は、確かに起こる可能性は高いかもしれませんが、そもそもそれが実際にあるかを問わず日本は危機的状況であり、自然現象として巨大地震も十分起こりうる状態です。
それを知ろうと知らずとも、緊急事態への備蓄や備えは無条件にやるべきですし、今年だけでなく通年で気をつけていくべき事柄です。

スピリチュアリズムを追求することは、界隈の話題を深く知ることを意味しません。
2025年の7月に大災害が起こることを知ったからと言って、自分の成長とはあまり関係がないからです。
大事なのは自分の精神に対する知識、研ぎ澄ましてきた感覚で世の中を捉え、どう生きていくかを生活に落とし込むことなのではないでしょうか。

私はその意味で、スピリチュアリズムは「実用主義」だと思いますし、目に見えない世界を扱うからこそ自由であり、個々人の中に「真実」があると思います。
その知恵や技術を持って、いかに自分が物心共に豊かになり、またその豊かさをどう人に分かつかを考えるのが、本当のスピリチュアリズムなのではないでしょうか。

だからこそ、「能力のある権威が言っていた」ことを間に受けることがスピリチュアリズムではないですし、それはむしろ土の時代の情報のあり方に近いことを弁えた方が有益でしょう。

その情報や知識を得ることで、「自分が豊かになるか」「幸せになるか」が重要なのであって、世界の真実を知ることは精神を追求する道ではあるにせよ、現実社会と切り分けて考えるのも大切なことだと思います。

こういうことを言うと、私が「スピリチュアリズムの善悪」をジャッジしているように見えるかもしれませんが、私はスピリチュアルな話と現実社会の話を切り離して考えよう、と言っているだけにすぎません。

言うなれば、「スパゲティモンスター」が人々に天啓を与え、スパゲティモンスターを信仰する人々が和気藹々と幸せに暮らせていたのなら、誰も彼らを批判することはできないはずです。
それ以前に、人間には「信教の自由」があるので、スパゲティモンスターが何であろうが信仰そのものは崇高な行為です。
私はその自由があるのは、スピリチュアリズムが目に見えない世界を追求する道だからだと思っています。

誰が正しいとか間違っている、という次元で論争をすれば、スピリチュアリズムは学問になり科学でなければならず、統計や数値や権威が必要になるでしょう。
ただ、そうなればスピリチュアルが「目に見えない世界」を扱う分野ではなくなります。
だからこそ、少し曖昧で多少誤差があっても、互いの主張を尊重し合うことが大切なのではないかと思います。

2025年7月問題に関しては、私はこれからも否定も肯定もしないつもりです。
仮に3月に地震が起きて7月に何もないとか、7月に本当に何かあっても、それが当たるか当たらないかはともかくとして、やるべきことは変わらないからです。

どの道、「とてつもなく大きな力」がそれをしようと思えば、それが神様でも国家であろうと止めることはできませんし、結論を言うと起こること自体は神様の総意でしょう。
だから、人間としてできることをコツコツやるしかないのだと思います。

ただ、願わくば神様にお祈りすれば、少しは助かる道を教えてくださるかもしれません。
それこそが「スピリチュアリズム」なのではないかと私は思いますが、どうでしょうか。