楽太郎です。
最近、どんどん世間の人々と価値観が乖離していきます。
芸能人の炎上も有名人の不祥事も、話題になる理由はわかるのですが、なぜそれにここまで気持ちを向けられるのかわかりません。
別に、それが良いとか悪いとかジャッジする気持ちもないのですが、あまりに価値観が変わったことに気づいて不思議な感覚になりました。
私も昔は時事問題とか、政治経済軍事に関して追っていましたし、それなりに言論もしていました。
しかし、その言論のソースとなる報道自体が恣意的であり、どういう角度から読み解いても真の正論には至れないことを身を持って知りました。
特に、今の言論人は話者よりもバックボーンの方が強く、政治家同様に環境の都合で解釈をわざと捻じ曲げ、簡単に事実誤認を誘導してしまいます。
学術界の権威とか、インフルエンサーがいくらそれっぽいことを言っていたとしても、いずれにしろ真実かを確かめるには時を待たないといけません。
結局、全てが明らかになった後でなければ、誰が正しいことを言っていたのかはわからないのです。
「信じるか信じないかはあなた次第」という言葉がありますが、これは無責任です。
「私は間違ったことを言っているかもしれませんが、それを信じたのはあなたの責任ですからね?」という念押しに他ならないからです。
その論法なら、どれだけ出鱈目なことを言っても責任は聞いた人の側にあるということです。
本来なら、言葉を伝える側が信憑性を明らかにした上で、誤った情報を伝える可能性に責任を持った上で発言するべきです。
こう言ったロジックで、どれだけデマが正当化され、どれだけの人が巻き込まれてきたのでしょうか。
今の世の中は、情報に関して誰も責任を取ろうとはしません。
新聞もテレビも、間違った情報を伝えても口先だけで居直り、居直っただけで許されるからこそまた偏った情報を流し続けるのです。
それはメディアに携わる人々だけでなく、私たちスピリチュアルに関わる人々も同様です。
「神様がこう仰っておられる」と言えば、「神」という最高権威の名を借りて自分の思惑を押しつけることができます。
自分が人を騙そうとしているとか、本気で信じているとか、勘違いしているとかは問題ではありません。
神の言葉を代弁するということは、話者が神の言葉にも責任を持たなければならないということです。
神様に酷く低レベルなことを言わせたり、倫理的にもおかしいことを伝えるならば、神の名を汚すことになりかねません。
よく、神様の言葉を代弁する役の発信者がいますが、それ自体が悪いと言っているのではありません。
神の代弁者は、「神様はこう言っておられる」ということだけを伝えて終わりでは、下手すると神様の言葉を聞いて誰も実践せず、有耶無耶に流して済まされてしまいます。
神様が「こう伝えて欲しい」と仰ってこられたのなら、メッセンジャーは「はい、それをお伝えすれば良いんですね」で済ますのではなく、自分自身のあり方に重ねてみたところで、自らへの反省と実践を持って神様のお言葉に応えることが大事だと思います。
神様から直観を受け取った時、そのメッセージが正しいかどうかを吟味し、情報の発信者を審神者し、本当に神のご意思かを確かめた上で伝える。
そのプロセスをより洗練されたものにするには、常に自己を研鑽し続けなければなりません。
だからこそ、反省と実践が必要なのだと私は思います。
神様のお言葉を「信じるのはあなた次第」というのは構わないかもしれませんが、自身がその言葉を補強するために検証し、実践した上で発言に責任を持つことで、神様のご意向に砂をかけずに済むのではないでしょうか。
こういった「発言・表現の自由」というのは最大限に尊重されるべきですが、昨今は自由ばかりが一人歩きしてしまって、責任を取ろうとする人はあまりいません。
誰もが情報をゴシップと都市伝説のレベルで捉えているからこそ、信憑性も自己責任であり、「騙された奴がバカ」という風潮を作り出しているのです。
この情報化の時代にあって、無責任な情報だけが無限に飛び交っているからこそ、人々はしっかりした価値観で、筋の通った思想を持つことができないのだと思います。
極論を言えば、現時点で分別がつかなければ今後も情報に振り回され続けるでしょう。
今の世だって、人々は話題の方を向いて右から左に顔を動かしているだけで、誰も根本的に世の中を良くする方法は思いつかないはずです。
「財務省を解体すれば日本は良くなる」と考えて、それが事実かどうかはともかく問題の本質をわざと逸らせることで、有利に働く勢力にも目を向けなくてはなりません。
あえて人々に解決の道を示しているようでも、仮に彼らが救世主のように見えたとしても、そこに裏があるのではないか、と考えるくらいでなければ真実には近づけないのが現代と言えます。
誰かを英雄視し、担ぎ上げて然るべき椅子に押し上げれば、このスターが世界を救ってくれるに違いないと、人々は期待しがちです。
しかし、そうやって権力を握らせた者が誰一人裏切らず、正しく世の中を変えてきたでしょうか?
私たち人間は、いい加減に気づくべきです。
「寄らば大樹の陰」ほど危険なものはありません。
巨大な力に支配された時ほど、コインが裏返った時は悪影響も甚大になります。
そのために、リスクを分散することは大切ですし、そのための多様性であり、自由なのではないでしょうか。
「皆が同じ屋根の下にいれば安全である」
その風潮は、混迷を極める時代だからこそ本能的にそうしたくなります。
しかし、この混沌も巨大な力で世の中が縛りつけられているから生じていることには、わりと気づきにくいものです。
私たちの生活を締め付ける物価高も米不足も、実は単純に元栓をいじっている人間を何とかすれば解決する問題ではないでしょうか?
けれど、今の国民にはそれを行う術がありません。あまりに巨悪を放置しすぎて、もはや民衆が手出しできるような低い場所にはいないからです。
しかも、右から左に意見に流されているだけでは、あらゆる思考も実践も徒労に終わるでしょう。
今私たちに必要なのは、自分で状況を見極め違和感の正体を探り、極力その影響から自立することです。
そこで世の流れに左右されず、何があっても自分でいられるスキルと立場を用意しておくことです。
正直、今の日本は法治国家ではないと思います。
これだけ外国勢力に干渉されたら、やはり国内の事情は二の次になってしまいます。
この国に正しい情報が流れないのも、人々が常に注意を逸らされているのも、おかしさを訂正できないのも、その力が働いているからです。
そこで「日本」という国を守るために、あるいは立て直すために、もっと民族として本質的なことを思い出さなければいけません。
「国民」と言うならば、大戦後の占領時代に計画された国民性を指してしまいます。
今を生きる多くの日本人は疑問を抱かないでしょうが、その染みついた性癖は誰かが都合よく押しつけてきたものです。
そしてある時期まではそれで良かったのですが、時代が下り今はその仕組みが限界に来ています。
限界が来たからこそ、自分たちの力で取っ払うことができるタイミングに来ています。
今の日本人に、それをする気のない人がいることもわかります。
とは言え、現状を変えようせずに救われる人はいないでしょうし、変えようと動く人ほど自分を変える力がある人です。
この精神的な支配から脱却できた人は、古い世界のカラクリに気づき、その仕組みを理解するからこそ新しい仕組みを作っていけるでしょう。
「問題は同じレベルでは解決しない」とはよく言われます。
もし世の中を変えたいのであれば、自分が変わろうとすることです。
そして、見方が変わればできることも変わります。
それは、思うより難しいことではないはずです。
しかし、その決断には責任が伴い、責任から逃れる限り自分を変えることはできません。
私たち日本人に必要なのは、「覚悟」です。