楽太郎です。
昨日の記事では、古代の日本人の死生観から生まれた神道の精神について話しました。
日本人には「罪穢れ」と「祓い清め」の概念があり、その延長に現世利益と神への信仰がありました。
日本人は、世界的に見ても教義的ではない信仰心を持つ珍しい民族であるとされます。
教義がなくても道徳的、宗教的たりうるのは、日本人が脈々と受け継いできた「美的感覚」ではないかと思います。
例えば虫の声は、日本人以外の民族は「雑音」として脳内で処理するため、どちらかというと音楽的な認識の仕方をするそうです。
しかし日本人は、コウロギの「コロコロ」という鳴き声を聴いて擬音化するように、言語野で認識するようです。
寂れたものに美しさを見出す「侘び寂び」の概念、「赤穂四十七士の討ち入り」に見られる「敗者の美学」など、日本人独特の価値観は美意識に基づくものです。
日本人がそういった豊かな情緒を育んでこれたのは、歴史においてあらゆる権威の下に晒され、ルールや常識に押し潰されても屈さず、どこかで強かさや余裕があり、厳しい現実の中に「無常」の世界を見出してきたからではないでしょうか。
つまり、この世界に「絶対」がないからこそ、お上や偉い人物が決めたことだけが全てではなく、自分の美徳や美意識、あるいは損得勘定でうまく立ち回ってでも、生きていくことに価値を見出してきたのかもしれません。
ゆえに、規則やルールを徹底して遵守することが日本人の倫理観ではなく、むしろ内面としての美的感覚や計算によって「道徳」の合理性を理解してきたのが日本人なのだと思います。
だからこそ、今の世に蔓延る「画一的な多様性」という倫理観、「正しくないものは許されない」という正義感は、日本人には本来馴染まないものです。
しかし今、その価値観を信じきり、その偏狭な道徳心で人を弾圧することが「正しい」と思う日本人が増えてしまいました。
日本民族は、かつて大陸経由で渡ってきた移民が列島にどんどん定住し、渡来してきた人々の文明を取り込みながら発展してきました。
日本人そのものが「多様性」を最も体現した民族であり、なぜ本来の思想を発揮させずに西洋的な「画一的多様性」を受け入れてしまったのでしょうか。
今の政府の政策のように、「全ての外国人を受け入れよう」ということが、即ち多様性を受け入れることを意味しないはずです。
日本の国風を理解しない人々がいくらこの国に住み続けても、「日本」が深く理解されると信じていいのでしょうか。
国家のアイデンティティが揺らぐ今こそ、日本人は自分たちの歴史と民族としての本質を見直し、本来の性質を思い出すべきです。
日本人の宗教観も、長いこと唯物史観に染まったせいで、「神様」という言葉を出しただけで眉間に皺を寄せる人も増えました。
戦後に勃興した新興宗教団体が組織的に如何わしかったり、実際に犯罪やテロまで起こしてしまったのも事実で、伝統的宗教も一緒くたにされて悪印象になってしまったのもあると思います。
しかし今なお日本人は、精神的文化観において柔軟な強かさを維持していると私は考えています。
一般的に、「神様」は遥か遠いところから地上を見下ろしていて、その下には善人が死後に行く「天国」があり、悪人は地球の下にある「地獄」に堕ちて永遠に苦しむ、と考えられています。
よく考えれば、このイメージは宗教的にはめちゃくちゃです。けれども、市井の人々はこの死生観でも何の疑問も抱かず暮らしています。
私は、日本人のこの「宗教観の適当さ」は唯物史観に染まったからではなく、ずっとこういった曖昧な死生観を持ち続けてきたのだと思います。
つまり、これも日本人の「現世利益」の価値観に基づいているとも言えます。
これだけ教義的に曖昧だと、「このままでは死後裁きに合う」ことに戦々恐々とし、わざと窮屈な生き方を選ばないための合理的根拠になり得ています。
かつて日本人は、死んだ人の亡骸を山や海辺の洞窟などに葬っていました。
そして、亡くなった人は見えない遠い場所へ向かい、機会があればいつでも戻って来てくれる、と考えていました。
日本神話では、そこは「黄泉の国」とされます。
「ヨミ」は元々「ヨモ」であったらしく、「ヤマ」の語源と親和性があると言われます。
参考として、「日本語の意外な歴史」というブログの記事をご紹介します。
私は、古代日本人が死者の霊を招く儀式をする時、「霊を呼ぶところ」という意味合いを込めて「ヨミの国」と称したのではないかと考え、「ヨミ」は「呼び」を意味するのではないか、と仮説を立てていました。
ただ、「呼び」のyoは甲類なので、そうとは言えないようです。
しかし、上記のブログにはこう書かれています。
「口を意味するyom-のような語があったということは、遡れば、穴を意味するyom-のような語があった、下を意味するyom-のような語があったということです。yomo/yomi(黄泉)は「下」を意味していた語と考えてよいでしょう。」
「黄泉の国」の他にも、神話的には「根の国」「底の国」という地下世界の概念があります。
これは世界観としては垂直的な階層のように思われるのですが、伊弉諾命が亡くなった伊奘冉命を追って黄泉の国に行った時、死者の群に襲われて黄泉比良坂に岩を置き、出入り口を封じます。
こうして考えると、日本人はやはり「黄泉の国」も地続きの場所であり、高天原も空間的には上部にあるとしても、決して異次元にある世界ではないように思います。
目に見えない世界が、国や場所のようにフラットな延長線上にある意識は、まさに日本人独特のものです。
神も死者も常に身近にいる、という感覚は「お天道様は見ている」という価値観に繋がり、森羅万象に神を見る「八百万」の精神世界を形づくってきたのだと思います。
これこそ真の多様性に至る考えであり、日本が多神教である所以でもあるでしょう。
ただし、全てを受け入れてきたわけではなく、やはり「まつろわぬ」者たちを封じてきたのも事実です。
しかし、まつろわぬ者たちと言えど、例えばヤマト王権にしろ追従した豪族は和合する道を優先してきたのも歴史が証明します。
先の外国人の移住や多様性などの話題に関しても、互いに理解と協力が可能であるのが前提条件であり、「日本」という国の文化への尊重があるからこそ真の意味で日本に根付くことができます。
けれども、日本人と外国からの住民が、互いに深く理解し合うまでに至っていないのではないでしょうか。
だからこそ、私は拙速すぎる社会的な流れを批判しているのです。
日本の神道は、厳密に言えば宗教ではありません。
宗教なら開祖や教義が存在するものですが、神道にあるのは「伝統」と「所作」だけです。
ゆえに、神道は伝統的風俗であるとも言われます。
神前に奏上する祝詞も、文面を事実と照らし合わせれば真実かはわかりません。
けれども形式として、少なくとも1500年以上は受け継がれてきた由緒あるものですし、その権威性は計り知れません。
それでも、日本人は神の教えを聞き、導きを受けて有り難く受け止め、その知恵を子々孫々に伝えて繁栄してきました。
教義を軸にして、「正しいか正しくないか」という考えで神を信じてきたわけではないのです。
日本人は、「神様が今どうお考えであられるのか」を常に考え、察しながらお祀りをしてきました。
神様の顔色を読み間違えると、神の「荒魂」が災いを起こすと考えてきたからです。
実は、そういう「目に見えないものを慮る」という感覚こそ、日本人の倫理観の源泉なのかもしれません。
人間の心は目に見えません。愛情も優しさも幸せも心の豊かさも、目には見えないものです。
しかし、「目には見えないものを慮る」からこそ、人の感情の機微を深いところで感じ取ってきたのが日本人なのではないでしょうか。
私は、日本人がその全てを忘れ去ったと思いません。
ただ心の中に眠っていて、それを思い出す機会がこれまでなかっただけなのだと思います。
日本人に備わった道徳心も美意識も、きっとそうなのだと思います。
幸い、古い時代は壊れようとしています。
新しい時代が始まるのなら、これを機に忘れてしまった日本人らしさ、その良いところを思い出し、今まで以上に良い世の中を作って行けたらいいな、と私は思います。