瀬織津姫命の秘密

楽太郎です。

先ほど、「禊祓詞」をテーマにした記事を投稿しました。
その記事で書きたいことがあったのですが、文脈がブレるので触れられなかったことがあります。

それは、「禊祓詞」で「祓戸大神」は伊弉諾命の下で罪穢れを祓う役目の神々として登場することです。
祓戸大神とは、「瀬織津姫命」「速秋津姫命」「速佐須良姫命」「息吹戸主命」の四柱であるとされます。

この「祓戸大神」は、国津神として列記されることがありますが、「天津祝詞」で言えば「天津神」の格なのではないか?と思うのです。

この「禊祓詞(天津祝詞)」は成立がはっきりしていて、元は平田篤胤の国学の一環でまとめられた「天津祝詞之太祝詞事」で、文化12年(1816年)に成立したとされています。
平田篤胤自身の憶測も一部入っているように見えますが、少なくともこの祝詞では、祓戸大神の扱いは「大祓詞」での扱いと変化はありません。

「大祓詞」は、平安時代の928年に発行した「延喜式」の中に書かれています。
延喜式は伊勢神宮の祭祀を担当した中臣氏族が編纂したもので、中臣氏は天津神を祖として国家祭祀を司った一族です。
平田篤胤は、「禊祓詞」を編纂した際に「この祝詞は中臣家系の秘儀ゆえ、延喜式にも書かれなかったのではないか」としています。

私は、瀬織津姫命について調べているうち、「瀬織津姫命は天津神なのではないか?」という仮説に手ごたえを感じつつあります。

「祓戸大神」の説明に戻りますが、「瀬織津姫命」とは「山から降りる川の流れが海に入り込む様」が、「河川の土砂を海洋に放出する=穢れを祓う」というイメージで擬人化された神様のように思えます。

「速秋津姫命」の「秋津」とは「開き津」であり、つまり「港=水戸」を指します。
速秋津姫命は伊弉諾命と伊奘冉命の「国生み」の際に生まれた水戸神であるとされます。
「速」とは「勢いがある様」を指すらしく、河口に降りた土砂が海に吐出される様を表しているとも言えます。

「速佐須良姫命」は江戸時代の国学者、本居宣長によると大国主命の配偶神であられる「速須世理姫命」と同一視しました。
ただ、「速佐須良」は言葉的には「すごく」と「勢い」というニュアンスを含み、「佐須良」は即ち「さすらふ=流離い」を指します。
岩波古語辞典によれば、「頼るところもなく、定まるところもなく、移りまわる」様であるとされ、現代で使われる言葉と同じようです。
祓戸大神の役割としては「海に排出された汚泥をどこかに押し流す=穢れを消滅させる」現象を指すようです。

この「祓戸三女神」に「息吹戸主命」が加わって祓戸四神となるわけですが、息吹戸主命だけは水や海に関係せず、風や流れそのものの役割を担っているように思えます。
しかも、息吹戸主命だけは男神であり、三女神とは明らかに性質が違います。

まとめると、「祓戸大神」は自然現象と禊祓のプロセスの擬人化であり、自然神としての役割を強く持っている神々なのではないでしょうか。

自然の神格化とは、いわゆる原始宗教やアニミズムであり、その性格が強い神格は天照大御神を代表とした「天津神」のグループに属するはずです。
しかし、祓戸大神の一柱である瀬織津姫命は、天津神であるという扱いを受けてはいません。
これは何を意味するのでしょうか。

瀬織津姫命は、中臣氏が編纂した「大祓詞」の中に登場するのみで、「記紀」には書かれていません。
ただ、水源や滝壺、川や泉などには瀬織津姫命と同一視される「白龍」「市杵島姫命=宗像三女神」「弁才天」が祀られています。

ここからは、「市杵島姫命」と瀬織津姫命の関係について書いていきたいと思います。

瀬織津姫命は宗像三女神の市杵島姫命としばしば同一視され、「宗像大社」や「厳島神社」でお祀りされている市杵島姫命を「瀬織津姫命」として崇敬する風習もあります。
ただ宗像三女神で言えば、市杵島姫命よりも「湍津姫命」の方が関連があると思います。

「大祓詞」の一文に、以下の件があります。

「高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣といふ神」

この「多岐つ」が「湍津」と同一視され、海の女神である宗像三女神と関連づけられている理由にもなります。
その論拠として、瀬織津姫命と湍津姫命がニ柱一緒に祀られることがない、という話もあります。

瀬織津姫命が市杵島姫命と同一視された理由の一つに、「天照大御神荒御魂説」と「神大市姫説」が繋がってくるように思います。

天照大御神はかねてから男神説があり、伊勢神宮荒宮は「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」であるとされます。
この「天疎向津媛」が「天高いところから海に向かって流れる様」と文字通りに解釈され、これは瀬織津姫を彷彿とさせます。

江戸時代の写本とされる「ホツマツタエ」では、瀬織津姫命は「天照大神」の配偶神とされます。
この場合の「天照大神」は須佐之男命か瓊瓊杵命を指すようです。
須佐之男命の妻は二人いて、大山津見命の孫に当たる「櫛名田姫命」と「神大市姫命」です。

須佐之男命が本地垂迹によって牛頭天王となった際、神大市姫は「南海龍女」となり、龍と結びつけられました。
そして、市杵島姫命は神大市姫と「市」という文字で共通し、また同一視されることによって、海の女神の市杵島姫命は「龍」と関連づけられることになりました。
そして、最終的に川や滝の守り神である瀬織津姫命と結びつけられたのだと思います。

瀬織津姫命は、山の水源から河口までの治水を網羅するので、「海の守り神」としてもあながち遠い存在ではありません。
しかし瀬織津姫命は記紀に登場しないため、明確に誰の御子神なのか、配偶神はいるのかなどの詳細は不明です。

ただ、瀬織津姫命が天津神であると困る理由は存在したはずです。

「記紀」の編纂時に持統天皇は、最高神であられる天照大御神を絶対にしておきたかったでしょう。
天照大御神は女神なので、高天原に同じくらい権威のある瀬織津姫命が列聖されていると、絶対性が毀損すると考えたのかもしれません。

神道の真髄は「神々による罪穢れの祓い」なので、国生みの神である伊弉諾命の直系に祓いの神がいると、非常に都合が悪かったとも考えられます。
だからこそ、持統天皇以降の治世では、治水の神は別の神名に変換されることになったのではないでしょうか。

神奈川県の江ノ島にある江島神社は、日本三大弁財天社と呼ばれています。
ここには、天女の伝説があります。

深沢という地で、五頭龍が大暴れして川を氾濫させたり、地震を起こしたりして人々を困らせていました。
ある日、天女が降りて人々のために島を作ると、その姿を見た五頭龍は天女に一目惚れし、求婚をしました。
そこで天女は「もう暴れないと誓ったら結婚してあげよう」と約束をします。
改心した五頭龍は天女と結ばれ、この地を治めるために尽力したとのことです。

江島神社では弁財天をお祀りしていますが、実際には宗像三女神の奥津宮、中津宮、辺津宮を総じて主祭神「江島大神」としています。
穿った見方かもしれませんが、江島大神は瀬織津姫命なのではないか、と思うのです。

「瀬織津姫命」という神名での祭祀がタブーとなったとしても、水神を祀る人々の気持ちが変わるはずはなく、それなら別の名前でお祀りしよう、となるのではないでしょうか。
「龍と結婚して地を治める」という性質は、どう考えても白龍と同一視される川の女神、瀬織津姫命を連想させます。

なぜ瀬織津姫命が宗像三女神に同定されたのかを考えると、宗像三女神は「国津神」だからだと思います。

記紀編纂時に、天照大御神と同レベルの天津神がいるとやりにくいはずです。どうせなら、国津神として扱った方が融通が効くでしょう。
しかし神格が周知されている以上、「瀬織津姫命」という神名は動かすことはできません。
だから、「湍津姫命」や「市杵島姫命」に置き換え、瀬織津姫命という神名だけを上書きしたのではないでしょうか。

水神を「弁財天」とするのも、天津神である瀬織津姫命を外来神であるサラスバティーに同定してしまえば、天津神であることは隠せるはずです。

だから私たち日本人は、自覚しないところで瀬織津姫様を崇敬しているのかもしれません。
私の仮説では「瀬織津姫命は天津神」という考えですが、これは全て推理にしかすぎません。

それが正しいかどうかも、学術研究を経ようと喧喧諤諤となるはずですし、結論は出ないかもしれません。
けれども、この探究はこれからも個人的に続けていくつもりです。

瀬織津姫様の秘密がわかった時、神様の謎が解ける気がしてならないのです。