神、試練、浄化

楽太郎です。

明日14日は皆既月食を伴う満月だそうで、かなり大型の浄化が起こりそうです。

私は相変わらずアセンション反応でダウン中です。
それどころか、瀬織津姫様の神社のWEBおみくじで今週二回目の「凶」が出ました。
毎日おみくじを引いて、凶が出ることすら数日前までなかったのに、これだけ続く上に内容は「大人しくしてなさい」です。
瀬織津姫様が仰るのですから、神様の言う通りにしなければなりません。

ちなみに、私が毎日おみくじを引く崇敬神社「瀧澤神社」のサイトはこちらです。
よろしければアクセスしてみて下さい。

この浄化作用の中で、私のキャリアの実績やこれからの予定までリセットを促されています。
昨日の朝に起きたら、これまで人にウケるように無理して作風を作っていたことに気づきました。

私としてはそう意識したことはありませんし、むしろ売れるなら望ましいくらいに思っていました。
自分の絵柄や作風にあまり違和感はありませんでしたし、むしろ気に入っていました。

昨日、以前描いた「瀬織津姫命」のイラストを見た時も、なぜか気持ち的にしっくり来なくなっていました。
どう表現したらいいのかわかりませんが、「子供っぽいな」と思い、何となく気恥ずかしくなりました。

昨日の朝に初めてそう思うようになりましたし、これまで全くその角度で感じたことがありませんでした。
これも浄化の作用なのかな、と思います。
おそらくこれだけ感じ方が変わると、以前のような作風を維持することは難しくなるかもしれません。

この期に及んで作風を変える、というのもかなり思い切っていますが、いずれにしろこれだけやって売れないのですから、変化はむしろ喜ぶべきでしょう。
私はわりとタッチを自由に変えられる方ですが、自分にしっくり来る作風は吟味する必要がありそうです。

徐々にですが、体で感じるエネルギーの流れが自然になり始めている感じがします。
もうすでに私の魂は先が読めていて、神様と話も済んでいるのに、私の心だけがついていけてないのかもしれません。
おそらく私は数年前から、この変化のために様々な準備をしてきたのだと思います。

今、世の中は通常運行でこの先もやっていこうとしています。
この世界を支配する権力構造が盤石すぎて、揺らぎながらも一応は崩壊を見せてはいないため、何も変化がないように見えています。

街の風景や店の雰囲気を見れば一目瞭然ですが、これは単なる不況の空気ではありません。
工事現場は、簡単な工事なのになぜか数ヶ月かけて一向に終わりませんし、店の店員も会社の社員もどこか投げやりです。
今回の不況の違和感は、「何とかこれを乗り越えよう」という気持ちが誰からも感じないことです。

この社会の裏側と、上の方でおかしな仕組みができている。
この不自然さは、勘のいい人ならすでに気づいているでしょう。

日本人は、根本的に何かがおかしくなってしまいました。
おそらく、この資本主義の競争社会の中で「消費」のために費やされたエネルギーは、世の仕組みにある澱みに全て吸収され、もはや絞り出す余力もないのでしょう。

そうして気が枯れた人々は、「穢れ」を社会にもたらすようになりました。
それはここ数年の話ではなく、数十年かけて日本人は負のカルマを蓄積してきたのです。

私の半生は、人の世で成功するために挑戦するというより、この「穢れ」から魂を守るための防衛戦だったのだと思います。
神代を作るのが魂の目的なのですから、人世のラウンドはゴングが鳴るまで立っていれば「勝ち」だったのでしょう。

日本社会でのやりづらさは、優しさや親切心、努力や誠実さ、そういった人間としての美徳が形ばかりは評価されても、内実は軽視されていたことにあります。

私が人に対して無邪気に接しても、その純粋さは必ず陰で嘲笑われていました。
裏切られ心が塞ぐたびに、嘲笑を振り払うため知識や実力を身につけ、強くなろうとしてきました。
その原因が「人と魂の毛色が違うから」などと気づきようもなく、私は自分と他人を呪い続けていました。
けれど、今になってみればお互いの相性が絶望的に悪かっただけで、呪いをかけ合う道理などどこにもなかったのです。

今、その呪いを解くための浄化が私に起こっています。
人と自分にかけた呪いこそが私のカルマであり、このカルマの解消はもうじき終わるはずです。

これまでの半生は、人世が終わり神代に至るタイミングに合わせて計画された、魂の「カリキュラム」だったのだと思います。
それにしては酷い授業内容でしたが、私が落第しまくったせいで偏差値の低い学級に放り込まれていたのかもしれません。

ただ、人間は魂の修行のために生まれて来ると言われていますが、目の前の出来事が予め修行だとわかれば修行になりません。
「罰」だと思って打たれる鞭と、突然打たれる鞭では痛さが違います。

例えば、私の目の前に神様が現れて、「これから試練が来るから耐えなさい」と言われたら、どんな困難も「修行なんだな」と割り切って難なく乗り越えたかもしれません。
わからないからこそ不安になり、本気で問題にぶち当たり、真の修行を経験します。
神様も「いるかいないかわからない」ように振る舞い、試練も「修行かどうかわからない」という現象で現れるため、人間にとっては見分けることすらも修行になるのでしょう。

要は、何事も不運は「修行」、幸運は「神様からのご褒美」と思って切磋琢磨していれば生き方に困ることはありません。
人と神が繋がっているのだとしたら、生きるというのは人間が思うよりシンプルなことなのかもしれません。

人は神の「分霊(ワケミタマ)」を頂いて生まれてくると言われますが、神の一部であることは自分の中に神が宿っている、ということです。
おそらく、魂に宿る神の声に従って生きていけば、誰もが過不足なく生きられるのだと思います。
魂の赴くままに生きることで才能を開かせ、その行動によって調和のとれた人生になっていくはずです。

しかし、人間は生きていく上で欲は出ますし、気が枯れて邪気が溜まると、下手な知恵に頼り邪に楽をしたくなります。
その言動が咎められることなく、むしろ他の人も同じようにし始めたら、調和は乱れ誰もが邪な方法で楽をしたがるはずです。

現代社会で起きている事象は、まさにこれではないでしょうか。
この世に蔓延った邪気を浄化するには、神々の祓いと人の培った「カルマ」の解消がなくてはなりません。

神様はそれを人間に促すために動かれています。
神々が「罪穢れ」を浄化するのは、本来は神の一部である人間が穢れを祓うことで神性を取り戻し、あるべき姿で生きていくことができるからだと思います。
本来の姿で生きる人間は、よほどのことがない限り順当に幸せになれるのです。
神様はひたすら、人間に思い直して欲しいと願い、そうするようにずっと促されているように思います。

このことをもっと人間が受け止めて、素直に自らの心や神様の声に耳を傾けたらいいのに、と思うのは私だけでしょうか。

今朝、散歩をしていて、道を這うカタツムリを踏んでしまいそうになりました。
このままでは危ないと思ったので、近くの茂みに置いてあげました。
そこがこの小さな子が大きくなるのに適した場所か、カタツムリが好む場所だったかは、私にはわかりません。
私はそのカタツムリを拾って助けてあげることはできても、その子の命に最後まで責任を取れるわけではありません。

しかし、神様は違います。
神様なら、この子が大きくなるまで見守ることも、うまく生き延びられるように導き続けることもできます。
人間の一挙手一投足、頭の中の機微に至るまで見通し、肉体を持たず時間の概念がないからこそできることです。
その命を面倒見ようと思えば、最後まで世話をすることもできるでしょう。

私は誰かの幸せを願い、何かをしてあげたいと思ったとしても責任を持ち続けることはできません。
それでも、神様はそれができ、ゆえに愛情や慈悲を惜しみなく人に施しておられるのです。

この素晴らしさは、人間には簡単に理解することはできないでしょう。
神の存在と恩恵を知る者は、神の愛情や慈悲を受けられるがゆえに、いち早く幸福を手にすることができるのだと思います。

人は、もっと神様を信じればいいのに、と思います。
人にとって目に見えないということが、それほど許容できないことなのでしょうか。