楽太郎です。
先日、崇敬する氏神神社に「神様の絵を描いて生業としていきます」という誓願を立てて来ました。
そこで御神前にて「大祓詞」を奏上し、絵馬を書いて奉納しました。
私が稼ぎ口を失ったのは悪いことのように思えますが、ある意味タイミングが良かった、とも考えられるかもしれません。
時代が切り替わる今、これまでのやり方を続けることが許されなくなってきているからです。
多くの人々はまだ気づいていませんが、世界のルールはもうすでに変り始めています。
世界的に唯物主義、拝金主義の延長では何も解決できなくなりつつあります。
ゆえに、これまでのやり方を暗黙に続けていれば、いずれ「ルール違反」になってしまうでしょう。
その審判は「神様」です。
これからの世界を動かすのは、悪魔に唆された人間などではなく、元の座に戻られた神様であることを、私たちは目にするはずです。
そのタイミングで稼ぎ口を失ったことは、すなわち神様から「もうそろそろ撤退しなさい」と促されたとも言えます。
ただ現実的には、人間として努力できる限りをしても通用しないことを悟ってしまった、とも言えます。
それは安易に世の中のせいにできるのですが、単に私のやり方や才能では大衆の心を掴むようなものを作れなかったということでしょう。
その悔しさはありますし、時間が許すならばまだ挑戦したい気持ちもあります。
しかし、どうやらもう時間切れのようです。
神様は言っておられるのだと思います。
「そろそろ遊びはやめて、本気で仕事を始めなさい」と。
しかし主たる稼ぎ口を失った以上、どうやってお金を得ればいいのか、ビジョンは全く見えません。
「楽太郎」としての絵に需要があるとは、今のところ思えません。
私の評判は自分からは測りかねるので、この先がどれだけ希望があるかも見えません。
ただ今の世界が終わるからと言って、人間としての望みが全て絶たれるわけではありません。
時代が変わるだけなのですから、その時代に合った幸せを見つければいいだけでしょう。
ある時、途方に暮れながら街を歩いていました。
「これから何を目的にして生きていこうか」と悩んでいた私は、あることに気づきました。
人々は、これまで社会や企業が用意したものを人生の目的として受け入れてきました。
その信仰心が剥がれ、真の目的がここにはないと人々が悟る時、誰もが自分の内に答えを探すしかなくなるでしょう。
そこで私が思ったのは、自分の内にある目的は外に結果として求めることではなく、自分の内面にあるプロセスこそ目的とするべきではないか、と。
例えば、私たちが荒野に一人ポツンと置き去りにされたとします。
荒野に一人、地平線をどれだけ辿っても誰も助けてくれそうにありません。
その絶望的な状況の中で、この荒野で生き延びようとするのはナンセンスだと、諦めたくなるかもしれません。
ただ、その理不尽なほど致命的な状況でも、自分が生きようとする限り助かる可能性はあります。
その時、行動の動機となるのは死に対する恐怖に限らず、自分の生命力や生への渇望もあるはずです。
この生存本能は言語や道理を超え、生命を持った存在としての底力そのものです。
生命体は、そのエネルギーを使う権限を最大限に有した存在であり、故にどれだけ理不尽であろうとも命は存在することを目的とするはずです。
現代人は、この生命力を削がれてしまいました。
好きな人が身近にいないと死んでしまうとか、好きなものが食べられないと生きる価値がないとか、わりと人は平気で言います。
それこそ、ゴミを食べてでも生き延びるとか、生き物を捕まえて食べるとか、そういうことをしてまで生きたいと思う人はあまりいないかもしれません。
これまでは恵まれた環境にあったからこそ、生命体としての本能を発揮せずとも生きてこれました。
生命体は、この本能を発揮する時ほど本来の力を発揮します。生命体にとって、本能を呼び覚ますことそれ自体が喜びであり、快楽を伴うはずです。
野生の動物たちを見て、いつも食べ物を探して大変そうだなとか、寒くて不安そうだとか心配ではないのかとか、ぬくぬくと生きている側の人間は思うでしょう。
しかし、食べ物がなくて鬱病になった動物や、食べ物を探すことに嫌気が差して自殺するような動物を見たことがありません。
つまり、あらゆる生物の中で人間だけが生きていくことに不安を覚えているのです。
生きる目的は、不幸にならないために生きることにあるのではなく、自分の生きることそのものに見出すべきだと思います。
例え荒野に一人置かれて、そこで自由に生きていける瞬間に喜びを見出すような、自分の内側から湧き上がる力を頼りに生きていけばいいのかもしれません。
自由とは、与えられた条件でしか得られないものです。
無限に選択肢があるならば、どこから手をつけていいかわからず、手をつけてもすぐに目移りしてしまうはずです。
自分に限定づけられた条件があり、不自由だからこそ持てるものを好きに活用していくことができます。
これが「自由」です。
生命体、そして人間も、この自由を使い不自由ながら幸福になることができます。
幸福になるためのあらゆる諸条件は、自由そのものの中にあります。
自由の中にこそ目的は見出されるべきであり、その目的は幸福に至るプロセスにこそ宿っているのです。
それは「命を楽しむこと」です。
荒野で喉が渇いたならば、水を飲む方法を探し、その探究を楽しむことができます。
その探究には才能やアイデアが必要ですが、仮にその材料が揃っていない状態で荒野に捨てられれば、「どうやって死のうか」と考え始めるのも無理はないでしょう。
おそらくこれからの時代は、ここで自分の内側にある力を引き出し、発想を行動に移せる人間だけが生きていける、あるいは活躍していける世になるはずです。
私は、それが新しい時代のルールであり、神様の意図なされた世界なのではないかと思っています。
どれだけ絶望的な状況でも生きようと足掻き、むしろその足掻きを楽しむような人。
そういった人々が魂の曇る世界を打ち壊し、新しい時代に風穴を開けていくのだと思います。
今の世を「タイタニック」だと表現した人がいました。
確かに、座礁したタイタニックが沈没するのは目に見えているので、各自が持ち寄った救命ボートで各自が脱出すれば、皆が助かります。
しかし「世界一の豪華客船が沈むはずがない」とか「皆まだ船内にいるから大丈夫」とか、「救命ボートに乗ったところでどうなる」と思い、行動しない人たちがいます。
ここで言う「救い」とは、救命ボートに乗って救助船に助けられたり、陸地に上がらなければ助からないことを意味するのではありません。
自ら救命ボートを自分の手で出したこと自体、その決意そのものが救済を意味するのではないかと私は思います。
結局、今までのやり方を改められる、改めようと思うからこそ新しい時代に適応することができます。
その新しい時代はこれまでの延長にはないので、自分で新しい発想をしていかなければならなくなります。
その思考をアウトソーシングしてきた人々は、新しい時代になっても何をしていいのかわからないはずです。
そこで、どうしても「目的を持つ人」と「目的を持たない人」がはっきり分かれ、目的を持つ人は自分の生そのものに目的があるからこそ、どんな難局でも強く生きていけるはずです。
神様が人間と共にある時代、「神代」は決して神々が人間を審査して選り分けるのではなく、人間が自ら志願して条件を整えるからこそ渡っていける世界なのだと思います。
タイタニックが沈没しきる前に、自ら運命を決めてしまった人は多いでしょう。
しかし「神代」を選んだ人は、これから適応していけばいいだけなので、あとは淡々と準備を進めるべきです。
そのプロセスは単に、「楽しめばいい」のです。
自分に与えられた条件の中で、持てる自由を最大限に活用して挑戦していく、その挑戦こそがエキサイティングなものであり、喜びに満ちた本来の生き方なのではないでしょうか。