楽太郎です。
ここ数日、全く仕事に力が入らないというか、おそらく神様からのミッションを魂が優先しているのだろう、という気がしています。
神様への興味や知識が増えて、神々の世界やこの世の仕組みを知るための道筋が、次から次へと見えてくるようになりました。
瀬織津姫様について調べるのもそうです。
おそらく神様は、神々の世界での常識を早く私に知ってもらいたいとか、考えて欲しいと思っておられるのかもしれません。
私の考えが正しいと言うつもりは毛頭ありませんが、とりあえずは追求する姿勢を崩さないように促しているように思えます。
神様が私たちに今やらせたいのは、才能を発揮したりお役目を果たす以上に、新しい時代に適応するための準備をさせることなのかもしれません。
私の場合は、前のめりにやってもうまくいかない時期なのは承知なので、どっしり構えて回り道を選択しています。
「俺は何をやっているんだろう?」とは思うのですが、なぜか充実感があるというか、不思議と不安も疑念もありません。
神様がこれほど世界の仕組みをテーマとして私に考えさせようとするのは、おそらく神様の視点でものを考えられる人間がもっと出てきて欲しいのだと思います。
この世界が神代に変わっても、共通の世界観がなければバラバラな集団になってしまうはずです。
そこはスピリチュアリストの弱いところというか、具体的な思想性と神秘性は重ならない部分があるからだと思います。
私が神代について考える時、現在も連綿と続く社会構造やテクノロジーが新しい時代にそっくり引き継がれてしまう気がしてならず、それについて不安や嫌悪感はあります。
けれど、それは私の個人的な好き嫌いとか善悪の感情であって、それがそのまま神様の価値観であるとは限りません。
人間にとっての正義は神の世界の正義とは一致せず、全次元の仕組みを理解しているかどうかで違いが生まれるのだと思います。
私にはこの世にあるモノで「忌まわしい、滅びて欲しい」と思うものはたくさんあります。
神様からすれば、文明は人間が自らの内在神を呼び起こして作り上げたものなので、基本的に善し悪しをジャッジするようなものではないのかもしれません。
確かにスマホも銃も覚醒剤も、機能的には忌まわしい面はあるにしても、それが世界に存在するべきか否かを神様が決めることはないように見えます。
昔からそうなのでしょうが、殺傷兵器である剣や銃も善し悪しは別として「一応あるもの」なのだから、あるものを使って上手くやればいい、という発想が神様には基本的にあるのかもしれません。
現世のあり方をまず肯定するというのが、神様のこの世に対する考え方なのかもしれません。
ただ、神様にはどうやら許しがたい部分もあるらしく、私にはそれが「魂を曇らせる行動」であるような気がしてなりません。
人間がこの地球に魂の修行として生まれてくるとしたら、修行にならない生き方を最も嘆かれるはずです。
例えば、SNSはシステムそのものとして善悪はないとしても、機能に依存して道を踏み外したり、影響されすぎて精神を病んでしまえば、魂の修行に支障が出てしまいます。
モルヒネだって、現象として善悪があるわけではなく、良いように使えば麻酔になり、悪く使えば覚醒剤として社会悪となります。
神様からして見れば、この世にある全ての現象はモノの捉え方、使い方次第で良くもなったり悪くなったりするものなので、それが何であろうと良い使い方をすれば問題ない、というお考えなら確かに理に叶っています。
ただ、人間は物事を悪いように用いることが多いので、神様は常にそれを憂慮されているのだと思います。
人間が良くない行動を起こすのは、妙な入れ知恵や思い込みによって自分の魂とは違う判断をしたり、魂の未熟さから衝動に走ってしまう場合がほとんどです。
その行動は魂の修行の一環であるとも言えますが、神様からすれば、悪行を行うことよりも「魂の修行に背く」状態だけが、良くないように見えているのではないでしょうか。
そうやって魂を曇らせたまま、周りを巻き込んだり自ら修行を降りる選択をされると、魂の輪廻はうまく回らなくなるはずです。
魂の循環が滞ると、微生物から連なる魂の進化や神界の構造にまで影響が及ぶはずです。
人間から目に見えない世界の仕組みからすれば、その秩序を乱すものが最も障害となるでしょう。
私は食事をする時、今食べている豚や魚がどういう気持ちで死んでいったのか、考えることがあります。
動物たちを観察すると、人間とは違い自分たちが捕食されることを根深く恨んだりはしないように見えます。
「あー、俺もこれまでか。しょうがない」
という感じで、死に対してとても潔いのです。
冷静に考えると、川の小魚も自分が食べられるたびに気場を荒らしていたら、この世は成り立ちません。
「一寸の虫にも五分の魂」と言いますが、虫も鳥もそれぞれが個体として寿命を全うし、あるいは捕食されて養分となることで、魂の修行をしているのかもしれません。
だからと言って、人間が生き物たちの生死を握り、無差別に殺傷して良いということではないでしょう。
逆に、神様たちから見れば食べ物を粗末にしたり、環境を意味もなく荒らしたり、生命を蔑ろにすることの方が問題に映るかもしれません。
その行動をいつまでも省みない人間、反省して直そうとしない人間は、確かに学ぶ必要があるように思えます。
それも魂の修行と言えますが、今神様たちがやろうとしているのは、このことなのかもしれません。
神々は、おそらく完膚なきまでに人類を痛めつけようとは考えておられないと思います。
神様は人間の在り方を問題にされているのであって、人間という存在そのものをどうにかしようとされているようには思えないのです。
ただし、人間が思いのほか強情なら、多少鞭の数は増えていくかもしれません。
だからこそ、神様の考え方を持った人間に増えて欲しいし、その考え方を磨いていって欲しいと思われているのではないでしょうか。
その重要性を、私は無意識に認識しているのかもしれません。
他にやるべきことは沢山あるのですが、どうしてもこっちに気が向いてしまうのです。
「神様の世界はどうなっているんだろう?」と。