悪への「感謝」

楽太郎です。

本日9月23日秋分ですが、驚くほど空気が軽くなったのを感じます。
秋のカラッとした空気と、過ごしやすい気温だけでそう感じるのではないと思います。

「闇」のまとわりつくような陰湿さが一気に掻き消えたように見えますし、どちらかと言うとその反映として「光」が際立っているように思えます。

これまで、世界は「物質」による動きが先導し、その後に人心が動くことが多い時代でした。
しかし、低い波長域にある「物質」は、人間の精神的なエネルギーの中でも「欲望」のように肉体的な、低い波長による干渉を受けやすい性質があります。

スピリチュアル的には「霊主体従」と言い、霊界で起きた現象が先立ち、物質界に反映するという法則があるのですが、それは不変なはずです。
ただし、人間の精神的エネルギーが低い波長域に留まりやすかったからこそ、どちらかと言えば「体」に重きが置かれ「霊」が軽視される時代が続いたのです。

「神に仇なす者たち」は、闇の支配者たる悪の神より下は極めて波長の低い霊たちです。
その低級霊の干渉を受けやすい物質と人間の肉体は、その影響をもろに受け、実に操りやすい環境にあったのだと思います。

だから法則としては「霊主体従」なのですが、実質的には「体主霊従」だったのです。
この秋分のすごいところは、おそらくこのパワーバランスの切り替わりが起こり始めた、ということです。

地球の次元上昇とは、地球の波長帯が丸ごと高周波になっていくことで、地球上にある物質の波長が高くなることを意味します。
アセンションが起きることで低い波長による干渉、即ち「神に仇なす者」の影響力は受けにくくなり、それゆえ「光」が先導する力が、より物質に影響を与えやすくなったのです。

そのパワーバランスの逆転が、この秋分で起きています。
これは歴史的なことですが、具体的に人々が感じられるのは、もう少ししてエネルギーが具現化し始めたあたりではないでしょうか。

しかし、これまで世界は低い波長帯にあったので、神々の包括的な力、いわゆる「因果法則」が発動するまではタイムラグがありました。
けれど、次元上昇した世界ではより神界の波長に近くなるため、因果律の適用ももう少し早まるはずです。
「原因」と「結果」の間が短くなるということは、世の中の回転がこれまでの時代より早くなるということだと思います。

だから、これから世の中がわりとサクサク変わっていくかもしれません。

これまでの時代は「闇」の時代だったと言いますが、いくら世界が夜でもネオン街には魅力もあったのです。
恋人たちが夜景を見てロマンスをするように、物質中心の文明は悪いことばかりではありませんでした。

確かに、金や支配欲のために戦争を起こすような時代でもあったのですが、便利な製品が増えることで生活が楽になり、より楽しく暮らすこともできるようになりました。
私自身、団地が一つの「スマートシティ」のように機能する、豊かな時代を懐かしく思いますし、地下から地上数階までギッシリ品物で埋め尽くされた、百貨店や大型スーパーの賑やかさも愛しく感じるのです。

ただ人間は歳を取りますし、出生率が下がれば若者も減り、年寄りが増えればお金を使わなくなります。
時代が変われば、世のトレンドも変わりますし、新しいものがどんどん出てくる時代もあれば、出尽くして飽和しきる時代にもなります。

私たちは、その回転が終わりかけるのが意外と早かったことに驚き、なお認めることができないだけなのです。
というか、この時代を未だに牛耳る団塊の世代は、まだ1975年頃の感覚で、製造業主体の右肩上がりの経済が続くと思い込んでいるのです。

その幻想が如実に具現化したのが近年の「東京オリンピック」と「大阪万博」です。
あれは高齢者主導の経済が、上手く回らなくなり始めていることの象徴ではないでしょうか。
私たちはあの体たらくを見ながら、お偉いさんが大真面目にやっている(滑稽な)姿に、ツッコミたくても何も言えない状態でした。

正直な話、20年前に彼らが「ヨッコイショ」と後陣に潔く席を開け渡していれば、今日のようなドン詰まりの経済にはなっていないでしょう。
けれど、私は「老害批判」をしたいわけではありません。
むしろ、団塊の世代の働きによって日本も豊かになったわけですし、時代が違えばむしろ良い方向に振れたでしょう。

問題は、時代にマッチしないことをやり続け、それに固執しながら世代交代を拒否し続けたことです。
けれど、彼らは自分たちが「時代に合わない」など思ってはおらず、むしろ自分たちが正しく賢いと信じているからこそ、自分たち以外に任せられないと思っているのでしょう。

ただ、その絶好の切り替わりはとうの20年前に過ぎており、現文明の中心国であるアメリカ合衆国が崩れる直前まで、体制を引っ張ってしまいました。
だとしたら、世代交代はこれから起こるカタストロフをもって、強制的に起こるのは避けられないでしょう。

これも神々のシナリオでしょうが、団塊の世代には文明の中興と没落を司る役目があったとしか思えないのです。

私は団塊の世代の方々が「悪玉」であるとは思いませんし、そう言うつもりもさらさらありません。
ただTPOを弁えない人々が多く、それも国家のトップにいる人ほどそうであり、半生を費やして手にした「利権」の大事さもわかります。
おそらく、今でも不動産バブル以前同様の高度成長期なら、正しい行いにもなったはずです。

こうして見ると、「悪」というのは自分が明らかに悪いと思って世に反抗する、ヤンキーのような存在とは違うように見えます。
TPOに合わないことをすれば、自分がどう意識していても「悪」になってしまうものです。
だから心根の善良さと、やっていることのギャップを見る限り、人間は誰しも自分が「間違っている」とは思わないのでしょう。

例によって「日月神示」の話をすると、「善」の中にも「悪」があるとは、こういうことなのだろうと思います。
誰もが「正しい」と思って励む善業は、他者や全体からすれば必ずしも「正しい」とは限らない、という当たり前のことですが、一般社会で「偉い」とされる人々がやるとここまで微妙になるのです。

反対に、この「悪」をひっくり返そうとする「善」は、むしろ一般社会では「悪」の範疇に入ります。
クーデターや暴力革命は以ての外ですが、そもそも「戦いを挑む」という行為自体が「悪」の性質を持ちます。
「平和」が最善とするなら、「挑戦」は混沌をもたらす契機となりうるからです。

ここに、神示で語られる「善の善」「善の悪」「悪の善」が揃い踏みします。
あと残りの「悪の悪」が、一番厄介なのです。
先の三つの方は、三つ巴で循環しているうちは調和に向かう性質があり、つまりどこかに「善」の性質を含んでいるからです。

しかし、「悪の悪」とは、「自分にとっての善」が欠けているからこそ、自己破滅的な悪である以上、余計にタチが悪いのです。
「自分は死んでも構わない」と思って罪を犯す時、とてつもない大惨事になりやすいという事実は、どこか思い当たる節があるはずです。

それをすると自分は生き残らないし、他人も巻き添えにして社会全体に対する悪影響も最大化されます。
ここには「自己愛」すらなく、「他者憎悪」だけがあります。
これこそ「」の性質そのものであり、上に挙げた「善」と混じり合う「悪」とは、全く性質が異なるのがわかります。

神示の言い方では、この「魔」こそ祓いの対象であり、「悪を抱き参らせる」枠組みに入らない概念なのではないかと思うのです。
「悪」の中でも、「自分がこれで良い」と思うことで行う「悪」は「善」であり、そこまでは魂の自由なのです。
しかし「自分は滅んでも良い」と思ってやる悪は、まず人より先に自分が破滅するでしょう。

神様は、こういった考えだけが唯一「弥栄えない」とお考えであり、これをお祓いしたいのではないかと思うのです。
「悪」と「善」が相剋する時、お互いが「善」であると思うから化学反応が起こり、双方の悪が「善の善」、即ち神々の定義する真の「善」に向かい、それゆえに「弥栄」していきます。
それらは自分が永続しよう、向上しようと思うから正当化しうるのであって、「全て滅べばいい」という意志は、次元が違うのです。

「邪」が「悪」とするなら、おそらくまだ許されるのでしょう。
しかし「魔」に至っては、その存在が何一つメリットにならない分、この世界に許されざる存在なのかもしれません。

そう考えると日本の、敷衍してアメリカを牛耳る超富裕層も、「自分だけが得をしよう」と思っているうちは、まだ可愛げのある「悪」なのかもしれません。
怖いのは、「自分が破滅するくらいなら周りを巻き込んでやろう」という、「悪の悪」に変貌することです。
私は、そこまで人間の心が歪まないことを願うばかりです。

ただTPOを弁えないだけの「悪」なら、きちんと言って聞かせれば退いてくれるはずです。
これまで、彼らの持つ「お金」と「権力」におもねることが賢い生存戦術だったからこそ、手足として動く人間が後を絶たなかったわけです。
世の中がもうそんな雰囲気ではないことがわかれば、さすがに無理は効かなくなるでしょう。

この世界に「悪」がいる理由とは、人が生きる上で発生する「罪穢れ」を背負い、体現する人がこの世に必要だからなのではないか、と私は考えています。
何もかも上手くいっているうちは良いのですが、途中でどこか歪んだり、形骸化しておかしくなってくる部分があります。

人心に抱えるストレスだけでなく、仕組みとして機能不全に陥ったり、ルールに抜け道が出来たりもするでしょう。
そういう時に、「悪いこと」をしてくれる人がいるから、その「悪い状況」に気づくことができます。

「悪人」は自ら「悪」を体現し、「罪穢れ」つまり負のカルマを背負って、世に矯正を促す役目を持った人たちなのではないかと思うのです。
それゆえ、この世に「悪」の存在が許されており、あらゆる悪行が存在するのではないでしょうか。

だから「悪の善」というのは、「悪が悪を行う権利」であって、それも「善の善」へ向かうための大事な歯車なのだと思います。
そして、彼らが今の世に蔓延ってくれるおかげで、「目覚める人」が増えて世は改まっていくのかもしれません。

だから、「悪」にはむしろ感謝しなければいけないのです。
そして彼らがもっと良いやり方に気づく時が「善」に向かう証拠となり、その時「悪を抱き参らせる」ことができるのだと思います。