人類の「二極化」について

楽太郎です。

昨日の30日、カムチャッカ半島沖でM8.8の地震があり、日本中の海岸に1mから3m規模の津波が押し寄せました。
私はこの通知を受けた時、ついに大地震が起きたのだと思いましたが、よく見ると震度は1程度でした。
よく調べたところ、カムチャッカ半島中央部の火山が噴火したことで、千島海溝プレートが連動し500キロ規模の地殻破壊が起こったとされます。

地震と言えば連想するのが、スピリチュアル界隈で持ちきりだった「2025年7月問題」です。
この地震を持って「7月予言は本当だった」と話題にすることには大した意味はないと思います。
予言が当たろうが外れようが、実際に被害を受けておられる方は国内外問わずいる訳で、下手に話題にして消費するのは私が東日本大震災で被災した当時、被害を見て楽しんでいた人たちと心情的には変わりません。

ただ、完全な憶測に過ぎないのですが、私が「世界線が変わった」と感じていた現象の一つが今回のカムチャッカ沖地震なのかもしれません。
スピリチュアルの界隈では「7月問題」はなくなった、やっぱりあるという議論になっていましたが、これを持って「小難シナリオに置き換わった」と結論づけるのが落とし所なのではないでしょうか。

後出しになるようで恐縮ですが、私は個人的に「九州か北海道の大地震」という情報を以前から掴んでいて、こう言った不安は煽るべきではないので敢えて明言はしてきませんでした。
しかし、千島海溝プレートならば4分の1くらいは言い当てた結果になるのですが、どっちみち後出しじゃんけんに全く意味はありません。

私は春分以前の世界線、タイムラインではこの地震でもっと壮絶な被害が起こるシナリオだったのではないかと思います。
特に起きたのが30日ですし、「やっぱり7月予言なんて嘘だったんだよ」と胸を撫で下ろすタイミングで来る絶妙な間の良さは、やはり仕組まれていたようにも感じます。

夏至以降、私は「何となく何も起こらない気がする」と思い始めて、むしろ日照りの方を心配していました。
それでも日本列島の大半に津波が及ぶというのは只事ではなく、やはり何かあるのだろうと思います。
感覚的に「大難シナリオ」はなくなったのだと思いますし、仮に小難シナリオの悲惨さが筆舌に尽くし難くても、もう一つのシナリオはさらに悲惨である可能性を考えると多少マシに思えるかもしれません。

このシナリオに切り替わった大きな理由は、「目覚めた人々が神々の想定以上に多かった」からだと私は思います。
これまでの数年間の災厄は人々に目覚めを促す「サイン」であり、それは神々が禍事を通じて人々の改心を促していたのでしょう。
そして、変化を望み覚醒の道を選択した人々が多かったからこそ、「もうこの国の連中はこうでもしないとわからん」と、神々から大きな鉄槌を下されるシナリオを回避したのだと思います。

特に、この物価高と米不足と猛暑の中で、避難やモノ不足が起きたら混乱の度合いは想像を絶します。
しかも災害用の備蓄米は市場に放出されているので、転売業者と市民との米の奪い合いも起きたでしょう。
その上に渇水や酷暑の影響もあり、経済的な打撃以上に社会的な混乱は避け難く、今の日本人にそれを行儀よく乗り越えるモラルがあるとは思えません。

私は常々「日本人はこの20年で根本的に変わってしまった」と思っているのですが、こうして日本の国内情勢が悪化してもなお、小難シナリオに進んだことは不幸中の幸いでしょう。
人間の目覚めに関しては、兼ねてからスピリチュアル界隈でも「人類の二極化」が話題となり、次元上昇を境にして魂の選別が起こるという話がありました。
このブログでも長らく扱ってきた「人世」と「神世」の分岐も、同じテーマのものです。

私は以前から、これまでの「人世」は終わるから、次の「神世」に移行しよう、という話をしてきました。
神世に行くためには、「我良し」の考えを捨て、自己浄化を進めながら上位存在、いわゆる神と繋がっていくことが大切です。
神世に進めればおそらく将来は開かれるのですが、引き続きお金やモノやステータスなど、拝金主義によって作られた価値観を信仰し続ける人は、「人世の崩壊」と共に沈没していくはずです。

これは高名なスピリチュアリストであるバシャール氏が「ネガティブ列車」と「ポジティブ列車」と呼んだ人類の霊的二極化であり、言わば魂における人類の選別です。
奇しくも80年前に岡本天明氏に降りた「日月神示」では「神と獣に分かれる」と示されています。
そこでの神とは謂わゆる「神人」であり、自身の神と繋がった人々のことです。しかし神に繋がるのが人間本来の状態であり、神と繋がらない状態の人間はただの欲望を持つ肉体であり、ゆえに「獣」なのです。

これまでの世は消費経済だったので、より上手く稼いでより上手く消費した人がクールに見えるように社会的風潮が作られ、そういう雰囲気に社会全体が加工されていました。
人々はその成功者をモデルにして今風の生き方を築き上げ、その成功スキームを指針にしながら集団化していったのです。
そこに精神性や思想があるのかと言えば、より感覚的な欲望に傾倒し、自分が望まなくても自らの将来的利益のために行動することすらありました。

しかし、現代はそれほど景気の良い時代でもなく、モノもサービスも飽和し、誰もが歳を取って改めて興味を覚えることも減ってしまいました。
経済、社会構造共に形骸化していく中にあって、拝金主義以外に行動原理を知らない人々は、仮に立ち行かないとわかっていても過去のスキームを踏襲し続けるしかないのです。
その原動力は「欲望」であり、むしろ善悪や社会規範は金儲けや利得の邪魔になるので、余計に「我良し」の考えに染まっていきます。

それに対して精神性やモラル、自分自身を本当の意味で大事にする人というのは、この欲望と消費のシステムに不一致だからこそ外れていってしまうのです。
ゆえに、形骸化し続ける消費構造に執着し、自身の利益や欲求を優先する人々との乖離はここで起こります。
「目に見えないもの」を選んで形骸化した世界を否定するか、「目に見えるもの」を選んで形骸化する世界を肯定するか、ここに「神と獣」の境目があります。

これまで、その社会的様相は「貧富」という形でも現れてきました。
全てとは言えないまでも、やはり金儲けには人心は返って邪魔になるのが世の常だったのです。
利益を最大化するには人間を人間として扱っているとコストがかかり過ぎるため、そう言った手段を取らない人間ほど社内でも業績を上げ、組織でも社会でも階層を登っていく仕組みがありました。

下の人間は自分も成功したいので、そのサイコパス的モデルに敢えて追従しようとします。
利益を最大化するための「サイコパスモデル」に人々が染まっていった結果、モノ作りもサービスも口だけになり、その上にしっかり利益は回収しなければならないからこそ、そのやり方を徹底した組織によって歪な経済になっていったのです。

そうやって歪んでいった社会が「人世」であるとするなら、精神性を重んじ新たな世界を創出しようと踏み出す人々が「神世」の中心となっていきます。
それまでの世が「貧富」の二極化を促す世の中だとしたら、これからの世は「善悪」の二極化となる時代です。
地球が次元上昇をした「五次元世界」、私の言い方ならば地球意識の気場である「精神界」が中心となって起こる時代は、これまで人治の世界にあったような因果律ではなく、人間より上位の存在が主導権を持ち因果律を握ることになる時代です。

これまで阿漕なやり方でも人々を騙し通せれば大金を得られ、社会的地位が手に入り権力も持てた時代だったからこそ、善悪による因果は人間の作為によって歪めることもできたのです。
被害者も告発者も金を握らせれば黙らせることができ、社会的な圧力や実際の暴力によって抗議を完全に封じ込めることもできたからです。

ただ昨今のSNSの使い方にも見られるように、人間としての精神性を元にその因果を跳ね除け、その意志の裏で神々が守護をつける時代になりました。
それゆえ、悪どいことはまず見抜かれ、立場関係なく批判される時代になりつつあります。
人々の心に徐々に神性が芽生え、見え透いた欲望はすぐに指摘されてしまうからこそ、これから悪は栄えない時代になっていくはずです。

従って、「善良さ」や「誠実さ」を人々は好むようになり、逆に悪どさや我良しの感覚は忌避されていき、欺瞞を見抜く速度も速くなるため悪人が利益にありつけなくなります。
それゆえに、社会的な実相として「神と獣」はほぼ行動規範として現れ、獣は傍若無人であるが故に理性ある人々に嫌われ、闘争を好むので同類と無益な争いを続けるでしょう。
彼らはそうやって善良な人々から忌避され、いずれ社会の主流から外れていくはずです。

もし世界の支配構造が変わり、神々が主導権を握るならば「福徳」も「金運」も人間より上位の存在によって配分されるでしょう。
これまでの「金運」は貨幣そのものを指しますが、新しい金運によってもたらされるのが人徳によるものだとすれば、それは返礼品やサービスや人間関係の豊かさかもしれません。
それによって得るのは結果的に「富」になりますが、貨幣の授受を出発点としない点が以前と異なります。

その富が神々の分配によるものだとしたら、鍵となるのは「人徳」であり「善良さ」です。
我良しという考えを悔い改め、どれだけ他人を慮り環境に気を遣い、自分以外のものに奉仕できるかです。
それは人の目に見えて得をする「陽徳」と、誰にも知られない「陰徳」があり、仏教では陰徳こそ真の徳であるとされます。

多くの人は、「徳」を積んでも「得」にならないと考えるがゆえに、得になることしか考えません。
しかし、神々の世界では人間が知らないこともしっかり帳面につけているので、陰徳が何にもならないように感じてもいずれ何かの形で必ず現れるのです。
最近、スピリチュアル界隈で「宇宙銀行」という概念が流行っていますが、あれは陰徳に対する天の仕組みそのものです。
「業(カルマ)」にも良いカルマと悪いカルマがあるように、善い行いも必ず自分に返ってくるのです。

ただ、人間はやはり目に見えるものが確実に思えますし、結果も早く欲しがるものです。
それでも長いスパンをかけて、あらゆる障害を乗り越えて一つのものを信じ、一つの行いを続けることが人間としての立派な修行になっていきます。
そうして徳を積むことが今世に生まれてきた魂の目的であり、決して楽に気持ちよく生きるためではありません。

そして、自分だけが気持ちよく生きるため、我良しとする人々の行いによって社会は混乱し、制度が歪められ社会規範が崩壊しています。
彼らは自分の正しさをアピールするために強引にルールすら曲げようとしますが、そのやり方もじきに通用しなくなるでしょう。
それを見て心ある人々が反省し改善しながら、教訓を元に人間が人間本来のあり方に戻っていくのが、これからの世界なのです。

「我良し」という考えで欲を持てば、叶わぬ不満は邪気となり、邪気は邪霊を呼び自分自身が目に見える悪鬼となっていきます。
これは決してオカルトではなく、実際に人間としての心を失っている人たちの行動が証明しています。
彼らをあくまで「極端な自由さを持った人々」にしようとする風潮こそ、真の悪意が潜んでいるのです。
神々がそれを見て良しとされるはずはなく、やはり彼らもいずれ浄化を求められていくはずです。

「人類の二極化」と言いましたが、一度運命のルートが決まったからと言って、何をどう足掻いても不幸にしかならない宿命が存在するとは、私にはどうしても思えません。
いかなる悪を行おうと、その悪は宇宙を作った大神が許されているから存在したことで、悪は悪として許されなければなりません。
しかし、それは「懺悔と贖罪」を持ってきちんと償われるべきものです。
きちんと改心し、全てを理解した上で出直す分には、新しい時代の生き方は誰にでも開かれるような気がします。

人間には「自由意志」が存在し、それは小我の考えではなく「神の影」による魂の自由であると「日月神示」では語られています。
私たち人間一人一人は、大神から魂を分け与えられた「分御霊(ワケミタマ)」であり、各々が神の一柱に他なりません。
いかに邪神と言えど神は神、誰もが光を取り戻せる可能性を私は信じています。