「お金」のブロック

楽太郎です。

今日は、久しぶりにガクッと来ました。
昨日まではわりと普通だったのですが、久しぶりに好転反応というか、エネルギー的な不調が来ました。
こういう時はジタバタすると長引くので、大人しく本などを読んで勉強する時間に充てることにしました。

今、「金運」に関する本を読んでいます。
これまで、金運に関する本を自ら買うほど「お金が欲しい!」と思ったことがないので、ある意味新鮮です。

私は、お金が嫌いではないですし、たくさんあるとやっぱり嬉しいです。
けれど、確かにお金持ちに対しては偏見があるかもしれません。
それは、お金持ち自体が嫌いなのではありません。

「大金を持つに値しない器の人間に、金持ち自慢されるのが嫌」なのです。

例えば、月収1000万円と宣うインフルエンサーが、薄っぺらい綺麗事を言いながらネックレスをジャラジャラさせている、みたいなのが気に食わないですし、「お金持ち」にはそういうイメージが付きまとっています。

ただし、「世に貢献した結果、富を得た人」という意味でのお金持ちなら心から納得します。
北野武監督や桑田圭佑さんが大富豪であるのを、批判する気になるはずがありません。
「徳のある成功者としてのお金持ち」と「世をうまく渡って成功した金持ち」とはニアリーイコールの関係です。

私はお金持ち云々以前に、人物の素性を見るので「お金を持つに値しない権力者」が嫌いなのです。
けれど、わざわざ金持ち自慢をするような人は、残念ながらそういう人たちばかりです。
ゆえに、それを一般化してバイアスをかけてしまうのだと思います。

この本の中にも資産形成の話が出てきますが、「これをしたから私はこう上手くいった」みたいな話は「自慢じゃん…」と思ってしまいます。
しかし、お金持ちを「即物的」と思ってしまう先入観こそ、私の「お金意識のブロック」であることに気づきました。

冒頭にも述べましたが、私は「お金持ちは人徳も併せ持つべきである」という「ノブレス・オブリージュ」的な価値観を根強く持っています。
ただ、資産家の子息として生まれたり、宝くじが大当たりしてお金持ちであるのと、人徳は全く関係がありません。

お金はただのシステムなので、モノとして集まってくるだけの道具です。
お金持ちは、トンカチを大量に持っているようなものなので、大工の棟梁である必要がありません。
私は、どうもその部分を履き違えてしまいがちです。

私はずっと、「幸福とは心の問題である」と思ってますし、今もそうです。
しかし、家もなく暖房も食事もない状態では「心の問題」では済まされません。
現実的に手段としてお金が必要なのはわかっているのに、なぜかその部分が抜け落ちているのです。

この現実離れした理想の高さ、悪く言えば世間知らずさが、私が金運に恵まれなかった一番の理由なのではないでしょうか。

下手に人間を見てしまうからこそ、低俗なマウントを見て「ああはなりたくない」と思っていました。
お金自体に汚いイメージを抱くというより、大金を手に入れたら彼らと同じ人間になるのではないか、という抵抗感があったのかもしれません。

自分がお金持ちになれば、彼らと同じカテゴリの人間に見られてしまうのが嫌とか、彼らと同じカテゴリに入るくらいならお金持ちになりたくないとか、言語化すると感情的な理屈です。

しかし「お金持ち=成金」でないので、その図式は絶妙に間違っています。
このバイアスこそが私の「お金意識のブロック」になっていたのだと、改めて思いました。

私はたぶん、力を持っている人間が好きではないのだと思います。
これまで意識したことはなかったのですが、確かに私は影響力のある人物ほど距離を取って観察する癖があります。
そういう人ほど裏がある、という先入観は確かにあるかもしれません。

冷静に、権威や影響力を良い方向に使う人ばかりなら、今のような世の中にはなっていないわけです。
どんなお金にまつわるメソッドを実践し、神様から金運を授かろうと、成功者が必ずしもメリットだけを人々にもたらしているわけではないでしょう。

これまでの土の時代は、特に力を自分中心に使う人物ばかりだったからこそ、力の集権と資本は密接な関係にありました。
力を持つ人間はお金も握るので、デメリットの側面も大きく出てしまうはずです。
それを強行するのは社会的強者がほとんどなので、私はどうしても警戒感を持ってしまうのです。

けれども土の時代は終わり、古い経済システムはこれから崩壊を迎えるはずです。
その頃にはお金のルールが変わり、システムが変われば私にもチャンスがやって来るかもしれません。

私の読んでいる金運の本は、神様が主導権を取り戻した世界では、さらに有効な方法論になる可能性もあります。
一部の金持ちが汚いことばかりをやってきたのは事実でしょうが、仮に私がお金持ちになった時、彼らと同じ振る舞いをするかは私自身の問題です。

「そうならない自信がある」のなら、私はお金持ちになる覚悟が定まりますし、心のブロックは解けるはずです。
お金をエネルギーとして肯定し、そのエネルギーを蓄えた自分は内面も豊かさを固持し、他人にために自分の富を手放すことを躊躇なくできるのか?

自分がそれをできないならば、人様に「ノブレス・オブリージュ」を指図する資格はないでしょう。

高潔に生きたいのは、本当に魂からの願いです。
けれども、何となく足元が見えていないところが、私が現実といまいち噛み合わない原因とも言えますし、本来それに関して他人は関係ないはずです。
「立場に見合わないプライドの高さ」も、私に金運が巡らなかった理由の一つであるように思います。

なんか、書いてるうちに私自身への反省文みたいになってしまいました。
でもこうして自分を客観視したことで、実際に意識のブロックがあったことがわかりました。
これがわかるのとわからないのとでは、これからの結果は違ってくるかもしれません。

これがわかっただけでも、この本を読んだ価値がありました。
もしかすると、これを自覚すること自体が「金運」なのかもしれません。