楽太郎です。
今回は、私自身の話をしたいと思います。
私はクリエイティブ関連の仕事をしています。
とは言え、名乗っても誰も知らないでしょう。
これまで数年、下請けの仕事ばかりをしてきました。名前がクレジットされる大きな仕事はほとんどありません。
多くの人々からは、クリエイティブの世界は花形に見えるかもしれませんが、実際はどこにでもある弱肉強食の世界です。
基本的に人々は無条件に無関心ですし、作品を作ったとて見向きもされず、相手にされません。
しかし、人に注目されるセオリーというのもあって、それはこの業界を生き抜くハックのようなものです。
そのハックというのは、「多くの人に知られ、すでに人気のものに乗る」ということです。
これは人気作家の登竜門として、鉄壁のマニュアルのようなものです。
誰もが当たり前のように採用する処世術なので、このセオリーから外れた途端、大勢の視界に入らなくなります。
ここで、もう少し遡って話をします。
私はこれまで、何度か就職を経験しました。
どこも組織の体質に合わず、ストレスで体調がおかしくなったりメンタルがやられて、この社会で労働することの難しさを常に抱えていました。
だからこそ、自分に合った仕事をしようと一念発起し、努力を重ねてそれなりに実力をつけ、ずっとやりたかったクリエイティブの業界に足を踏み入れました。
けれども、自分で稼ぎに行くのは至難の業で、比較的安牌なのは下請け業務です。
クライアントからの理不尽とも言える要求に従い、他人のアイデアに仕方なく乗っかり、したい表現を曲げてでも要求通りのものを作らなければなりません。
“私は自由を求めて、やりたいことを仕事にしたくてこの道を選んだのに、なぜサラリーマンと同じ働き方をしているのだろう?”
3年前のある時期、それに深く疑問が湧いて「自分が本当は何がしたいのが、それをしてどうやって生きていくのか」という問いと向き合う時間が始まりました。
それは、本当に修行としか言いようのない日々でした。
「自分が表現したいこと」と「人のためになること」の狭間でのスタンスの問題は、作家、芸術家などのクリエイターにとって永遠のテーマです。
自分がやりたいことは、人様の得になることがほとんどありません。
結局、人様の要求に叶えることで感謝をもらい、初めて対価を得られるので、表現は必ずしも人のためになるものではないのです。
人様や世間の求めるものと自分の求める表現の世界の不一致に苦しみながら、何とか歩み寄ろうと最新のテイストを取り込み、最先端の技術を磨き、自分なりに切磋琢磨しても、どうしても譲れない部分がありました。
それは、「自分の考える正攻法を貫く」ということです。
私はこの業界を長年見てきたからこそ、ハックまみれの現実を知っています。
皆が当然のように近道や裏口を通っていくのを、「それが本当は賢いのだろう」と内心思いながら、どうしてもそれをやりたくなかったのです。
「皆のようにやればうまくいく」
それは本当に痛いほどわかるのですが、なぜか魂がそれを拒むのです。
私は承認されたいしお金も人気も欲しい。でもなぜかそのやり方に違和感がある。だからどうしてもできない。
それ以外の方法を取ろうとしてやった試行錯誤は、そのどれもが大してうまくいかないものばかりでした。
ただ自分がやりたくないやり方では、いずれ成功しても絶対に満たされない予感があるから、どんなに苦しくてもその方法を取らず、自分の才能と技術をひたすら磨き、方法を模索してきました。
今は、それが間違いではなかったかもしれない、と思います。
これまでの人間社会では、私はどうやってもうまくいかない宿命だったと感じることもあります。
自分に正直にやってうまくいくことはごく僅かです。
真心だけでは商売にはなりません。
けれども、今は神様から「そうしろ」と言われています。
なぜかはわかりません。本当にそれで良いとは私も思いません。
けれども、神様はそうして欲しいと願っている、なぜかそのことだけをひしひしと感じるのです。
これまでの創作の世界は、お金を中心とした人の心が支配していました。
だから近代の美術も映画も小説も漫画も、お金を集めなければ制作する根拠にすらなり得なかったのです。
けれども、「表現したい」と思うのであれば、素直に表現すればいいだけです。
それは子供たちにとって、お絵かきが娯楽であるように、表現そのものが人間にとっての喜びだからです。
あらゆる表現が、対価を得ることが前提となっているからこそ、クリエイターも見る側も、すでにある経済の形をなぞるのが当然になっています。
それは芸術本来の表現の多様性や、思想の発露を脇に追いやっているのかもしれません。
神様は、人々にもっと自由に表現を行い、その多彩な才能を広げて欲しいと思われているはずです。
もしこれから、純粋に才能の集まるところに人もお金も集まるシステムになるならば、商業的成功や収益性は第一目標からは外れるでしょう。
そうなれば、誰しもが無邪気に「創作すること、表現すること」そのものを喜びとすることができるようになります。
これからの時代のクリエイティブは、これらの商業と評価経済のくびきから解放され、作り手が喜び、受け手が喜ぶ互恵関係に戻っていくべきなのだと思います。
そこにはフラットで自由な創作の世界が広がっているはずです。
神様は私に対して頑固に、どんな障害にぶち当たろうと、その覚悟を貫くことを求められているように感じます。
私には、神様が私に対してそれ以外の道を選ばせないようにしているように思えてなりません。
だから私は私の喜ぶ表現を求め、それで人が幸せになる方法を探す、これがこの道の答えなのだろうと思います。