怒りを力に変える

楽太郎です。

昨晩、何の夢を見たかは忘れましたが、今朝目を覚ましてベッドでしばらく考えたら、人間の世界がどうでも良くなりました。

私がこれから「神代を作る上で今後関わっていくコミュニティなんだろうな」と思って所属していたグループがあって、何かと縁を感じていたのですが、そのグループのリーダーが私を除け者にしようとしていたことがわかり、私としては好意で参加していたので、非常にガッカリしていました。

その理由も私が悪かったと反省できる部分はほとんどなくて、私が周りを見て善意で行なっていたことが、どうやら気に食わなかったようです。

そのグループが仮に神代を作るにしても、このレベルの共同意識では到底長くはやっていけないでしょう。
これまで、リアルな人間社会と折り合いをつけながら楽しく暮らせる気持ちでいましたが、神様がそれに気づかせるということは、「もう諦めろ」ということなんだろうなと思いました。

そもそも、多くの人々は今のところ悪手しか打っていません。

自分たちで好き勝手に作り上げた世界で、人間が滅びの道に進むことを薄々気づきながら、特に何も変えようとせず、それどころか他責と仲間割れに奔走し、人間たちを救うおつもりの神様にさえ目を背けています。

人々は、神様がこれだけシグナルを発して気づかせようとしているのに、それでも自分の考えを曲げず、変える気も変わる気も湧かないほどに魂を曇らせてしまいました。

私は、これを変えるには愛の力が必要なのだろうと思っていました。
また、魂の力を良い方に使うには、360°光のエネルギーでなければならないと思い込んでいました。

しかし、何となく自分の中でしっくりくる感覚がなかったのは、愛の波動だけを使おうとするあまり、人間の不条理に湧き立つ、私自身の悲しみや怒りのエネルギーを何とか封じ込め、ポジティブなエネルギーに変換しようとしていたからだとわかりました。

ただ魂の感受性は素直なので、良くないものは良くないと判断してしまいます。
それをエゴは、自分の目的や目先の利益を求めるあまり、どうにか自分に都合の良い形に理屈をつけ、その直感が気のせいであると処理し、魂のメッセージを上書きします。

それは、人間が神様に目を背け、神代ではなく物質世界を選んだ思惑とほぼ同じ意識です。

魂の感覚には本来、良いも悪いもなく、例えそれが悪感情と呼ばれるものでも、その未熟さも受け止めてこそ魂の感覚に繋がれます。
だから、社会的に良い、人格的に優れている感覚的反応だけを拾い上げても、魂のメッセージを受け取っているとは言えません。

いくら神様が人間たちのことを慮り、そして私も人々に尽くそうとしているに関わらず、その思いを唾棄する人間たちに、いつまで同情できると言うのでしょうか。

私は、この怒りも魂のエネルギーの一部であると悟った時、瀬織津姫様のことを考えました。

瀬織津姫様は浄化の神様であらせられますが、浄化とは表裏一体で禍事を起こす必要があり、その行いは八十禍津日神様による混沌の力です。
禍事、つまり破壊がなければ、浄化の後に天照皇大神様の岩戸開きは行われません。

破壊は、決して愛の力で行えるものではありません。
破壊のエネルギーとは陰の気であり、怒りもその力の一部です。

私は、この怒りの力を自分の内に否定せず認めることで、人間的価値観を振り払い、神代の創造のエネルギーに変えることに決めました。

これまでの私の迷いや煮え切らなさは、半々の形で人間界と渡り合っていこう、という平和主義にあったのですが、人間たちがここまで変化を疎むならば、力づくでも変えていくしかありません。

だからこそ、私は魂に備わった陰と陽のエネルギーを360°使い、その力を神代のために振り向けようと思いました。

肉体的な目で見れば、未だに人々はほんの少し世の中が良くなる片鱗を見せれば、そこからオセロのようにバタバタと世の中が良くなっていくと信じています。

しかし、ここまで悪意が蔓延ってしまうと、人間の骨の髄まで血を入れ替えなければ、人も世も神代仕様に生まれ変わることはできないでしょう。

それは人間たちにとっては酷く残酷に感じられるかもしれませんが、視界に入らないところで苦しみ、もがいている人たちがいる世界で、神様が人間を救うために必要だと考えておられることに違いありません。

だからこそ、その神様の側に立つには、人間社会の理屈にはない覚悟を持つべきだと思います。