「神」と人の関係

楽太郎です。
ここ最近「日月神示」関係の記事が増えていますが、日に日に神示が現実味を帯びていると感じています。

日月神示は当て字や謎記号が多く、直感的に読み解ける人は少ないかもしれません。
他の人がどういう風に読み解いているかはわからないのですが、おそらく「大地震が起こる」とか「富士山が爆発する」というように、具体的な予言として捉えている人が多いのではないでしょうか。

神示には「天地ひっくり返るということは、身魂がひっくり返ることぞ」とあり、私の見解では神示に登場する名詞は大抵、霊的比喩だと受け取っています。
例えば「奥山」は神人のグループソウルが集う場所、「富士(ニニ)」は唯一無二の魂と身体を意味していると捉えていて、むしろ固有名詞として考えない方が全体的な話が頭に入りやすいです。

私が日月神示を「神の言葉」と認識するのは、実は具体的な予言の部分ではありません。
神示には「三大実践主義」が唱えられており、「弥栄実践、祓い実践、神(例の記号)実践」とあります。
そして、禊祓いの実践には、「省みる、恥じる、悔ゆる、畏る、悟る」の5つの働きが必要だと説きます。

神示は口酸っぱく「身魂を磨け」と書かれているのですが、日月神示はどうも神道の指南書か思想書として読んだ方が本質に近い気がします。
神様という存在は、決して甘やかすようなことは言いませんし、ギリギリ乗り越えられるかわからないくらいのハードルの課題やアドバイスを常に出されます。
私としては「神様が言いそうなこと」と感じるのもあり、ゆえに日月神示を特別視するのです。

人間というのは現金なものですから、受験に受かることや意中の人と結ばれることなどを神様にお願いしますが、大抵は金さえあれば望みは叶うことを知っているため、祈願も具体的内容だったりします。
しかし、神様はもっと精神的に人間に成長してもらい、心の豊かさから生活の豊かさを手に入れて欲しいと願っておられるように思います。
だから、人間にとって神様のお心はなかなか理解できず、それゆえに神徳がどういうものかもわかりません。

そして、神様が考える「善悪」と人間の考える「善悪」も微妙に異なるのです。
人間は人間同士の社会や価値観に基づいて、例えば「自分を犠牲にして奉仕するのは尊い」とか、「全ての人と争わず仲良くすれば良い」と考えます。
しかし神様から見ると、「他人に尽くして不幸になるくらいなら、まず自分のことを大事にして欲しい」と考えられるでしょうし、「悪人と仲良くしても自分が損するだけで全然良いことではない」と思われるでしょう。
しかし、人間の心ではそういう善業をしているのだから報われるべきだ、と考えていたりもします。

ただ冷静に考えてみるとわかるのは、明らかに不可能なことや損になることを率先してやればうまくいかないのは当たり前であり、神様が叶える以前に努力自体が間違っていたら不幸になるに決まっています。
それを人間は「神様に願ったのに叶わなかった」と思うのですが、むしろ叶わない方が無難であるような事例もたくさんあるのではないでしょうか。

「成功したい」とか「お金が欲しい」というのもそうで、人間の願いをそのまま叶えたとしても、違う形で現れたら不幸の原因になることすらあります。
「好きな人と結婚できますように」という願いが叶っても、下手に良くない相手と結婚して不幸になるより、願いが叶わない方が良かったパターンすらあるかもしれません。

私が思うに、神様は「道理とタイミングと順序」というのをすごく重要視されます。
例えば行動の筋道が違っていたら意味はなく、タイミングを合わせるには待つ必要があったり、優先順位が違えば成就しなかったりするのでしょう。
神様は時間を超越した存在ですから、恐ろしく長いスパンで物事を見られているのですが、人間はすぐに結果を求めるのでそこにもズレが生じます。

人間が想像する「幸せの形」と、神様が思われる「幸せ」は微妙にズレがあるからこそ、人間から見て神様の導きはすぐに理解できないのだと思います。
その認識のズレは、人間にとって見れば神様を「厚かましい親」のようにしか感じず、あたかも反抗期の子供のように自分で好き勝手にやりたくなるのでしょう。
果たして、人間にとって神の意思を理解しきることは可能なのでしょうか。

そもそも人間が「神」の考えを感じ取ることができるのは、人間の心に神性が存在するからです。
人間は「神」を外部に確固として存在するように感じるかもしれませんが、実際は人間の「魂」と神の気が感応するから感じ取ることができます。
それは人間の魂が大神から分け与えられた「分御霊」という神だからであり、同じく神であるからこそ繋がることが可能なのです。

神示にもその内容は示されていますが、魂が神と繋がったと言えど、「肉体まで神に合わせる必要はない」とも説かれています。
その時、人間からすれば自分の身体に「神が宿った」ように感じますが、実際は魂と神の魂が繋がっているから一体になったように感じます。
自分に神様が宿っているとするならば、仮に寝るにもお風呂に入るにもいちいち神様と相談して行うのはキリがないでしょうし、昔から神に仕える人ほど厳しい生活態度を要求されたことが念頭にあるのかもしれません。

人間が神を理解しがたいのは、そもそも人間の見ている部分と神の見ている主な部分に開きがあるからです。
私の感覚では、神様は私たちの行動を見るにしても観点が違うというか、「魂の状態」を最も観察されておられるように思います。
例えば、私たちがトイレに行くにせよ酒の席でハメを外すにせよ、神様に観察されているとしたら人間は少し気恥ずかしく感じるでしょうし、実際に日常生活から神秘的な要素は感じにくいものです。

しかし、例えるならRPGをプレイしているのが自分だとしたら、神様はおそらくゲームの進行状況ではなく、ゲームをプレイしている最中のリアルな反応を観察されておられるのだと思います。
つまり、プレイヤーキャラがいつ薬草を使おうがエンカウントから逃げようが、一つ一つのことはどうでもよく、そういう選択をした時のゲーマーの顔色を見て、楽しんでいるのかつまらないのかを気にされているのではないでしょうか。

人間はゲームのプレイ内容にばかり気を取られて、スコアを気にしたりオンラインで出会った対戦相手と競ったりしますが、たかだかゲームに一喜一憂してプレイ自体を楽しまなくなるより、楽しくやれる状態にあることを願っておられるように感じます。
もし神様が私たちがコントローラーを握っている姿をすぐ側でご覧になられているとしたら、神様と人間の様子をまた遠目からご覧になられている神様がいて、上位の神様がそれをご覧になられて、とずっと連なっていくのが神々の世界なのかもしれません。

だとしたら、人間と神様の認識にズレが生じるのも納得がいきます。
人間は「もっとレベリングしたらあのボスが倒せる」とか「レア武器を手に入れて差をつけたい」と思い、その願いが成就したらもっとゲームを楽しめると思い込んでいます。
しかし、ゲームをうまくやる以上に好奇心やゲームを楽しもうとする気持ちの方が重要で、それがあれば別にプレイヤーキャラが強かろうが弱かろうが、楽しいものは楽しいはずです。

神様は後者の楽しみ方を望んでおられて、人間は前者の考え方でないとゲームを楽しめないと思っています。
ゆえに「心持ち」や「姿勢」が大事なのであって、具体的な条件ばかりを気にする人間との視野とは微妙に重なりません。
ゆえに、精神的な事柄にまず目を向けるように、神様はそのことを先に伝えたいのだと思います。

とは言え、人間は抽象的な理解は難しいものですから、神様の願いの意味さえわからない場合も多いのです。
この辺が「親の心子知らず」というか、人間が目に見えない存在を蹴って自分たちで好き勝手にやりたいのも、思春期の子供を持つ気持ちでおられるのだと思います。

人間は神を「自分を無条件で幸せにしてくれる存在だ」という思い込みがあるからこそ、自分の願いが叶わず不幸な目に遭うほど、神様の存在を疑います。
しかし、人間はこの世に「魂の修業」として生まれてくるのであって、決して楽して良い思いばかりをして生きるためではありません。
そこで起こる不遇にも「学び」や「気づき」が隠され、自分の行いが巡りとして現れていることに人間は気づきません。

しかし、神様の目線からは全てに説明のつく事柄であり、それゆえに人間からは「奇跡」とか「不遇」と思うことも、俯瞰的に見れば「必然」であり「道理」なのだと思います。
それに気づいていくのもまた、人間の成長であり進化でもあるのかもしれません。
神様からすれば、そこに気づいて学ぶことが「導き」であり、不遇に感じることも真の幸福に至る道筋を示しているのだから、一時的な不幸感に囚われて欲しくないはずです。

そろそろ、人間は成人して大人になるべき時期が来たのではないでしょうか。
この世界は自分たちの思うようにはならず、結局「お金とモノ」の世界では本当に欲しいものは手に入らず、その仕組みが壊れて身動きが取れなくなったことも悟るべきです。
そこで反省し、「親の忠告は本当だったな」と思い直して、神様と向き合えば少しは大人になれたと実感できるはずです。

この学びは人類にとって真の進化であり、個人の精神的成長だけでなく、文明レベルでの教訓を意味します。
そんな苦労も破綻もしないに越したことはないと私たちは思いますが、一度失敗してみないとわからないのも人間なのです。
神様の「愛の鞭」は、親が子を深く愛するがゆえに、本気で叱る気持ちそのものなのだと思います。

「日月神示」では、その試練を「大峠」と表現しますが、この苦難は社会現象や国際情勢として現れるというより、各個人の心の中で起こる試練であり、外側の出来事が問題の本質ではないように感じます。
世に起こる禍事は、心に変化を起こすための外部的条件に過ぎず、そこに解決を見い出して終わりにするためにあるのではないと思います。
やはり、大峠は「ミタマ」に起こるのであって、まさに自分の心に向き合う機会を「大峠」と言っているのかもしれません。