「大峠」はなぜ起こるか

楽太郎です。

本ブログ「招神万来」をサイトに移設したタイミングで、読み返して9ヶ月間の文章の変化を見ています。

このブログを始めた当初は、まだスピリチュアル界隈に来て1ヶ月経っておらず、しかも殆ど先達のスピリチュアリストからの受け売りのまま、見切り発車で始めています。
ただ当初から「神様と約束をして始めた」という動機は一貫しています。
ブログを始めた経緯も今思えばはっきりしていないのですが、何となく「新しい世界の役に立つことをして欲しい」というメッセージを受けていたような気がします。

そのインスピレーションを間に受けて、見様見真似で始めたスピリチュアリスト仕草が、まさか9ヶ月も続くとは思いませんでした。
今読み返してみると、文章の密度も視点もまるで違います。
年末年始にかけては、生霊と邪気とアセンション反応で完全にメンタルがやられていて、やけにセンチメンタルな記事が多く、特に恥ずかしい時期です。

その頃の記事は「誰が読むんだ」みたいなポエミーな文章が続くのですが、やはり転機は瀬織津姫様を自宅でお祀りするために、日帰りで岩手の早池峰に弾丸旅行をした3月初旬あたりでしょうか。
その頃から学問的な傾向の記事が増え、抽象度の高い文章が頻発し、しかもますます長文になっていきました。

この辺りで「吹っ切れた」感じがあり、憑依や霊障の祓いと自己浄化に邁進しながら、オカルト的傾向はより加速し、夏至あたりからは完全に「Wokeism(目覚めた人)」のような怪しい文章になっていきます。
このブログでは、何を書いても「バズらない自信」があるので、今では完全に好き放題書いています。

バズらない仕組みも知った上でやっているからですが、この長文と内容の怪しさで、初見でお察しして頂けるだろうという算段があるからです。
この敷居の高さが「邪気祓い」になって魔を寄せつけないと思うので、私は相変わらず突き抜けたことばかり言っていこうと思います。

自分で読み返してみても、ダラダラ長い文章が続いて「もういいよ!w」となるものがとても多いのですが、書いているうちは夢中で、書き切った後はどうでも良くなって、書いたことすら忘れるのも不思議なものです。

思い起こせば、ブログの初期あたりには「神代(神世)と人世」の二項対立的世界観と、「神世に行かなければ滅びる」くらいの強迫観念が記事から感じ取れます。
私は今年の春分点までは、本当に「大難シナリオ」になる可能性が高かったと思います。
しかし、人々の意識覚醒、霊的意思決定が春分点のシナリオを「小難ルート」に変更したと見ており、春分以前の記事がやたら暗いのはそのためだと思います。

神様たちは、人間が改まることを確信できるまでは、大地を揺らし社会を揺らし、混沌とした状況を作り出すことで「アタリ」が出るまでシャッフルするつもりだったのではないでしょうか。
その「アタリ」とは気づきや社会変革の萌芽であり、春分点、それに続く5月の満月までにそれを見届けられたのだと思います。

だからこそ、夏に豪雨被害はあったものの、最近は地震や災害の発生数がめっきり減り、7月にあると言われていた例の問題もニアミスで済んだのではないでしょうか。
今も目で見る社会からは邪気が薄れ、空気が軽くなっているのを感じながら、多くの人々が無意識に「変革の道」を選択し、これから歩み始めようとしているのだと思います。

「これから」というのは、実はまだ「大峠」は始まったばかりで、気づく気づかない以前に、まだ大峠の前に差し掛かっていない人々の方が多いと私は見ているからです。

私がブログの当初から「神世に行かなければならない」と焦っていたのは、そのタイムラインで「神世に行かなければ死ぬ確率が高かった」という理由だけではありません。
「神世」というのは、新しい世界の気場(エネルギーフィールド)に築かれた集合意識、つまり新しい文明のプラットフォームです。
そのプラットフォームは天の神々の直下にあるため、地球意識や共同観念、平和的感性など新時代に合った霊性が必然的に求められます。

ゆえに、「我よし」や必要以上に競争意識や排他精神の強い魂は、その気場に入ることが許されなかったのです。
その気場が開放されたのが6月の夏至であり、今思えば、その時点でアーリーアダプターになるには特殊な訓練、霊的修行が必要だったからだと思います。

アーリーアダプターであることは、ある意味「新大陸の開拓団」の一員でもあるため、そこには厳しい適性が求められていたのかもしれません。
だから私はビジネスも人脈も全て捨てて、体当たりで必死に挑まなければならなかったのです。

けれど、今は幸いにも未来が多少は見える位置にいます。

私はおそらく人より先に「大峠」に向かい、すでに峠は佳境を迎えつつあるように感じています。
「大峠」に至るのが人より早かった理由は、自分で勝手に「大峠」を迎える準備を始めてしまったからだろうと思います。

私は2021年には既に業界から半分ドロップアウトしていましたし、2023年からは逆張りし始めて挑戦的なことしかしなくなっていました。
2024年にはアレよあれよとスピリチュアル仕草をしながら、今年始めには業界から完全に足を洗うよう神様から促され、今では全く別のことをしています。

私はこの4年、自分でわざと断捨離をするための行動しか取っていないのではないかと思うほど、古いやり方や身の回りのものをパージし、その代わり精神的なもの、スピリチュアルなものを取り入れて今日に至ります。

そして、その道筋こそ「浄化=身魂(みたま)磨き」の歴史であり、その祓い清めを継続することで、自分を改め能力や知見を広げてきました。
ゆえに、私が「大峠」と呼ぶものは、決して大災害や社会的混乱のみを意味しません

本当の意味での「大峠」とは、人々が古い価値観や考えや習慣を見直し、自分に必要なものを選りすぐり、取捨選択の葛藤を乗り越えながら、あるべき自分の姿、生き方を取り戻していくためのプロセスであると考えています。

神示で「大峠」とペアで語られる「富士(ニニ)」とは「不ニ」であり、真の自分自身に至ることで唯一無二の自分を呼び覚ますことである、そう読み解けます。
これまで、外側の「◯」を取り繕うために、形式やルッキズム、社会的ステータスなどの外部的条件に自分を合わせなければなりませんでした。
自分の内面「・(キ、◯の中に本来収まるもの)」よりも外側のカタチを重視し、誰もが本質より外側に価値を見るからこそ、世の流れも余計にそうなっていきます。

本来なら、人間ならず全ての物事は、外側も中身もしっかり備わった「◉(◯の中に・が入っている)」なのです。
しかし、この中身の部分は限りなく軽視され、外側だけを求める風潮が強かったからこそ、世はどんどん形骸化し、権威主義と利権の跋扈する時代となってしまいました。

人も社会に合わせて必要な努力を優先し、消費活動に傾倒した文化に馴染むことで、内面性がどんどん削られ、「自分らしく生きる」ことが難しくなっています。
そして、これらが原因となり、混沌と衰退をもたらす世を改めるために「大峠」が起こるのです。

このまま古い形式の世を続けても、異常な権力が頭を押さえつける世界は、袋小路の末に破綻する未来が目に見えています。
それでは続かないことが誰にもわかるからこそ、「何とかしなければならない」という思いが湧いてきます。

新しい世に繋がる道は、「大岩」が塞いでいるので簡単に通れません。
道を塞ぐ「大岩」は、その人の行く道や場所によって大きさも種類も異なります。
私には私の「大岩」があり、人には人の「大岩」、生活の場での「大岩」があり、業界の大岩、社会の、国家の、世界の、それぞれの「大岩」が道を塞いでいます。

即ち、これら大岩で道が塞がれている場所こそ、暗がりの道としての「岩戸」であり、大岩を取り除いて岩戸を開ける時、大峠は無事に乗り越えられるでしょう。
つまり、神示にある「岩戸閉じ」とは、神々の世界だけを閉ざしていたわけではなく、私たちの目の前の日常を閉ざすあらゆる道にあり、それを何らかの「障害」という形となって未来を塞いでいるのです。

だから、私たちが日々困難だと思う現象は、岩戸を塞ぐ「大岩」そのものです。
つまり、その大岩をこじ開け岩戸を開き、大峠を渡り切った先に誰もが弥栄える世、「ミロクの世」が来ると神示に語られているように思います。

それぞれに岩戸があり、それぞれの岩戸開きがあるのです。
その現象を社会的、世界的なスケールで見る時、現代の拝金主義・物質主義の大転換期として現れています。
だから、狭義と広義の岩戸開き・大峠があり、神示で予言的に記された時代的な単位は、この「広義の大峠」を意味するのだと思います。

これらは多難な道のりであり、この難局を乗り越えるには相当な覚悟や忍耐が必要となるでしょう。
だからこそ、春分点で人々は「大峠を乗り越える気があるのか、ないのか」を神々から問われ、その選択が直ちに「覚醒・非覚醒」のルートへ繋がったのではないでしょうか。

唯一無二への道、「富士」の道は自ずと「神の道」そのものを指し示しています。
つまり、神の道に辿り着いた人々は、もれなく「神人」に至る道に入っているのです。
それが神々の選択に従った人々なら、「獣」となった人たちが行けるのは獣道しかなく、つまり神と同じ道に入ることは叶いません。

大峠を拒んだ人たちは「獣」として、大峠を行く旅人を襲いもするし、妨害もするはずです。
彼らが岩戸が開かれた後の世を見ることはできるにしても、再び日の目を見ることはないかもしれません。
それは過酷すぎる運命に思えますが、彼らの「回答」が結果になっただけに過ぎないため、その選択も尊重するべきなのです。

これらの過酷な宿命が、これから殆どの人々に訪れるはずです。
人々はよくわからないまま、未だ登り口あたりでごった返してて、ようやくチラホラ登り始めた人がいるくらいです。

この大きなスケールで捉えた「大峠」が、神示にはどう記されているかの解説は、別の機会にしたいと思います。
ただ言えるのは、大峠とは一度や二度の災難に現れるようなものではなく、もっと個別的、象徴的な現象として断続的に訪れるということです。

そんな中で、神世のアーリーアダプターとなった人々は、もうすぐ「大峠」を渡り終えるタイミングにあるように思います。

大峠を踏破した者は、その山稜がどういう地形かわかります。
起伏の地点も、登りきる方法も、その道の先も、渡り終えているから人に教え導くことができ、暗闇を照らす灯りとなることもできます。

私は、少なくともその任を与えられているように感じます。
私がこのブログを書いているのは職業人としてではなく、人類の一人としてのミッションを感じているからです。

人々が、次の時代にはより良く生き、そんな社会を作れるように。

私だけでなく、そう言った人は今もどこかに何人、何十人もいるはずです。
そういう人々が、この先の未来に果たす役割は大きいと私は感じています。