楽太郎です。
最近の世の流れとしては、テーマが「お祓い」であると思います。
「祓う」の語源は、私の調べでは「ハレ+らう(動詞)」であり、「ヒ(日・火)+生(ア)れ」の力で「ツミ(つく+ミ(身・霊))」を文字通り「払う」ことにあります。
まさに今の世は「憑き物」の世界となっていると言っても過言ではありません。
これを言うと物議を醸しそうですが、申し訳ないですが説明すれば長くなるので、今回の記事では扱いません。
今の人々の「集合意識」の気場が淀み、霊的なエネルギーが枯渇しつつある中で世の混迷が起こっているのは間違いないと思います。
変な話をしますが、私は睡眠中に「集合意識」の中に潜ることがあります。
これは意味もなく見知らぬ「街」をぶらつく夢として見るのですが、その光景は夢とは思えないくらいリアルで、店の商品のラベルまで詳細に覚えていられるほどです。
悪い内容の夢ではないのですが、こうした夢を見た翌日はコンディションがすこぶる悪く、言ってみれば「霊体がボロボロの状態」、まるでドブから這い上がったような霊気の状態になっています。
はっきりとはわからないのですが、睡眠中に「集合意識」に潜り込んで、無意識のうちに何かしら作業をしているのだと思います。
とにかく、現在の集合意識はそれほど淀んだ状態にあると感じており、人々が活力を失う理由もよくわかるのです。
人々の「霊的枯渇」はわりと深刻になってきているはずですが、今さら胡散臭いスピリチュアルや「宗教くさい」神仏に頼るという頭にはならないわけで、霊的エネルギーの補給を他人やお金やメディアなどに求めることで、人々はようやく息をしている状態なのだと思います。
私も正直な話をすれば、「邪気」が自分の古い思考習慣やこだわりに近い「欲」から湧いてくるのを実感します。
これから新しい生き方に変え、世を改めるという意志を持ちながら、やはり個人的には捨てきれない部分もあります。
変化のために諦めなければならない部分があるのに、わかっていても諦めることができない「弱さ」に、邪気が忍び寄るのです。
もしそれを古い時代との「因縁」と考えるならば、過去に繋がる霊線が今はもれなく「邪気」となっている可能性があります。
自分としては「懐かしい」とか「良かった時代」を思い出す感覚でも、その後ろ髪を引く想いを「悪神」に利用されている部分はあると思います。
過去へ繋がる霊線を「郷愁」と呼ぶのだとしたら、その感情を「悪」とは認識せず、改める必要も感じないでしょう。
しかし、その「後ろ髪引かれる」思いは、変化を否定し前に進む力を削ぎ落とし、「現状維持」や「懐古主義」を助長します。
この「郷愁」は、今の時代だからこそ世の流れを逆行させる力になりうるわけで、古き良き時代への「愛情」も、今は良くないモノに利用されていたりするのです。
ただ冷静に思い返してみれば、昔が言うほど良い時代だったかは微妙です。
現代が息苦しいから相対的に昔が良かったように思えるだけであって、昔も十分「悲惨」と呼べる部分はいくらでもあったでしょう。
「コロナ前に戻りたいか」と言えばそうでもないですし、20年前ですら微妙です。
せいぜい30年以上前ならマシと言うレベルですが、そこまで来ると記憶もボンヤリしすぎていて「美化された幻想」に近いです。
そう考えると「良い時代」というのは人々が道徳的で寛容な空気があったという時代感覚よりも、「豊かで余裕があり、活気があった」の一言に尽きるのではないでしょうか。
だから「郷愁」から「また良い時代を作ろう」と想像する時、そこに「物質的豊かさの再来」を期待するのは、どう見ても二の轍・三の轍を踏む未来しかないでしょう。
そして忘れてはならないのが、現代社会が「良かった時代」の延長に引き延ばされているという事実です。
今は世界的なエネルギー要因のインフレと、日銀がゴニョゴニョ理屈をつけて低金利円安政策を変えないことで日本国民全体が締め上げられているわけですが、飲食店のメニューはどんどん価格が跳ね上がり、スーパーに行っても値段は高いわりにあまり美味しくない加工品が並んでいたりします。
今の大型スーパーは特に「モノはたくさんあるのに良い商品があまりなく、欲しいモノがない」という不思議な空間となっています。
なぜこうなのかと考えると、卸流通の仕組みが小売販売企業に一元化されており、品物の仕入れから販売手法や収益性を企業が統括することで陳列商品に「多様性」がなくなっているからだと思います。
つまり、小売業者は利益を確保するために販売価格に転嫁しなければなりませんが、できる限り「安く売りたい」ので原価の低い商品を棚に並べる必要があり、そういった商品ほどあまり良質ではなく、むしろ日本人が慣れ親しんできた商品は「高級品」という部類になりつつあるのでしょう。
決して「スーパー」を悪者にするわけではありませんが、販売店も借地代や建物の維持管理費、従業員の給料や株主配当なども鑑みると、やはり収益性確保のためには「小売価格」に転嫁させなくてはなりません。
しかし、それが「企業」であるから全体的な利益に結びつけなくてはならないわけで、私たち現代人が買い物をするのは殆ど大型スーパーですから、商品に多様性がなくなってくるのは必然かもしれません。
生鮮食品などはエネルギーインフレの影響をモロに受け、特に魚介類や果物はなかなか食べられなくなってきています。
しかし、これは「流通」の上でマージンが跳ね上がっていることを考えれば、地方の「自産自消」で賄える生鮮食品は遥かに安い値段で買えるはずです。
こうした生鮮食品の流通は以前なら「卸売り市場」で行われてきたのですが、今はめっきり市場の数は減り、個人の小売店も大型スーパーに役割を譲ってしまいました。
ただ「たくさんの種類の品物が一箇所に集まった場所」というのが市場のメリットだとしたら、その上位互換であるはずのスーパーが、むしろ「多様性」という面で綻びが出始めている気がします。
個人商店が集まった「市場」や「商店街」は、同じ業種の店舗が2・3軒隣り合っていても、競合したりせずに何十年も経営を続けられたりします。
ただコンビニなどは、ドミナント戦略で生き残った店舗が地域に一軒ずつ根付きます。
これは店舗が「競合」するからであり、対して個人商店が同業種と「共栄関係」を築くことが可能なのは、それが「個人経営」だから経営に柔軟性が働くのだと思います。
私はここに、次の時代にあるべき「経済」のヒントがあるように思えてなりません。
現在の物流経済の行き詰まりは、「大企業」の寡占と資本の巨大化がもたらしていると考えられます。
つまり市場の寡占化は中小事業者の淘汰に裏打ちされ、「多様性の喪失」が日本経済の停滞に繋がっているように思えます。
今「昭和」を語る人はあまりいませんが、あの時代の雑多な賑やかさは、個人商店や個人経営の飲食店の繁栄が空気の醸成をもたらしていたのではないでしょうか。
地元の産業を潤した「商店街」や「市場」の賑やかさも、郊外型大型ショッピングセンターの進出により、90年代以降から急速に活力を失っていきました。
「昔は良かった」と思う理由の一つには、「賑やかさ」や「活気」を連想するイメージがあるはずです。
この心象を振り返ってみると、様々な人が軒を連ねて思い思いに商売をする、というかつてあった町の光景に繋がっています。
大型スーパーは確かに便利なのですが、「賑やかさ」の内容は違いますし、従業員も店の雰囲気も淡々としたものです。
私にはどうも、日本が「元気」を失った理由は「商業形態の一元化」にあるような気がしていて、つまりは巨大資本の参入と経営戦略の合理化です。
市場経済では「巨大資本の寡占化」は推奨されるべき風潮があるからこそ、中小規模の事業者が「ニーズに応えられないから負ける」というのが淘汰の正当的理由になるのですが、実際は「弱肉強食」の世界では強い者が生き残るというだけではないのでしょうか。
これを「市場競争」と言いながら、大きな敷地と建物面積を誇り、大量生産された商品を大量に卸し、廉価で販売するという手法に抗える個人商店は殆どないでしょう。
これを人々は「時代の流れだ」と言い、車でないと行けないような郊外のショッピングセンターに土日を使って買い出しをする、というライフスタイルに変化していきました。
これを「悪い」と言っているわけではないのですが、昨今は逆に「経済的合理性」を感じにくい時代になりつつあると思います。
おそらく、円安不況に伴う物流経済の停滞感には、「均一化されたサービス」のもたらす弊害がある気がします。
先に述べたように、「多様性の喪失」が市場の画一性を生じさせ、生活や消費活動に対する柔軟性を毀損しているとも言えます。
ゆえに、未だ「卸売り市場」は良いものを豊富に取り扱っていますし、多少高くても価値のある買い物ができるのだと思います。
この部分にこそ「経済」を立て直すカギがあり、未来のビジネスのあり方が垣間見える気がします。
そもそも大型ショッピングセンターも、いくら地元密着型で市民の生命線を支えていようと、経営企業が赤字ならば地域を放り出して撤退せざるを得ません。
近年、そうした大型スーパーの地域消滅が相次いでいますが、歴史的に見ても大体30年ほどで店舗としての寿命を終えています。
対して個人商店などは、ご高齢になっても店主が店頭に出ていたりして、店舗としての寿命で見れば企業経営の比ではありません。
「商い」というのは、「需要」がある限り半永久的に成立します。
つまり「必要だ」と人々が思うものを必要に応じて供給し、対価を得られる限りは続くということです。
逆に言えば、時と場合に応じて「必要ではない」と人々が思うからビジネスとして成り立たなくなるのであって、それを資本力や政治力でモノ言わせるようにした結果、歪な経済を作り出したとも言えます。
率直に言ってしまえば、市場が寡占的環境から中小事業者主体の多様的環境に向かっていけば、経済は自ずと活性化するはずです。
これは「理論的」には筋が通っているのですが、人々の消費習慣や市場経済の成り立ちから考えて難しいと言わざるを得ません。
しかし、中小事業者がどんどん市場に進出し、市場を「多極化」に向かせる環境にすることで、むしろ「巨大資本」は設備を維持するためのコストが逆にネックになる時代になってくるのではないでしょうか。
私は「米国経済崩壊」後の世界は、経営が堅実で実利の伴う企業に対する投資が主流になると考えています。
その中でも、一時的に高いパフォーマンスを見せる、事業目的と報酬と責任が明確な一撃離脱型の企業が中心的役割を担うはずです。
それを「同人企業」と言うなら、少人数や個人が主体となる事業者に適した環境となり、個人事業主だけでなく人手の採用コストが低い「家族経営」も息を吹き返す気がします。
つまり「個人経営」の商店や飲食店であり、ニッチで地元密着であるがゆえに、実体のある商業的環境の構築に繋がります。
そう考えると、現代人の消費習慣や生活に対する価値観も、あと10年経てばだいぶ変わっているかもしれません。
おそらくこれからの時代は、そうそう「技術革新」が起こらない世の中になるはずです。
なぜなら、真の技術革新がないからこそハイプに過ぎない「AI」に過剰投資が集中し、株主が配当を得られる見込みがほぼ絶望的と言っていいほどの状況になっているからです。
「技術革新」が起こらないということは、人々の接するモノやサービスの技術水準も長い間、大して変わらないということです。
そんな地味な時代が30年、50年と続けば、人々は毎日を「どう楽しく暮らすか」を考える時、文明の利器には大して頼らなくなるのではないでしょうか。
そして経済的な停滞は「安定」に変質し、「内面」に対する余裕は人々の文化活動や社会奉仕に向かっていくと思います。
こうなるためには、まず中小事業者が打って出られるような上昇傾向の経済的基盤が必要になりますが、これに関しては「時間が解決する」と私は思います。
日本の「円高基調」への転換により、たったの数ヶ月あれば日本経済は息を吹き返すと私は見ているからです。
そう考えると、早いとこ「白黒つけて欲しい」という気持ちも湧いてきます。
日本政府は元より、日銀がインフレ不況の根源たる「円安・低金利政策」を推し進め、円を売った分の資金を「米国債購入」に充ててきた訳ですが、いくら官僚とは言えエリートですから、これが米国の圧力と特定産業団体の利益誘導のための「売国行為」であることは承知しているはずです。
植田日銀総裁を見てわかるように、未だに利上げをのらりくらり交わし続けているのは、それだけ海外含む既得権益層の権力が支配的ということでしょう。
けれども、日本の知識人層はともかく一般国民は賢いですから、そろそろ「円安」が諸悪の根源であることもわかってきた頃合いだと思います。
米国株式バブルは綻びが出始めてきていますし、日本円の「ロング」の伸びは堅調です。
日本推しの投資家も「今か今か」と待っているでしょうが、日本を支えたい勢力と国民を絞り上げて利権を固持したい勢力の衝突が、水面下で起こっているようにも思えます。
私は、人が言うほど日本の未来は暗くないと思いますし、だからこそ諦めずに言論活動をしてきました。
その「明るいビジョン」は見えていますが、対して「昔は良かった」という郷愁を抱いていては見えてこない部分もあります。
おそらく、未来の日本は「昔に戻る」ような形に収まっていくと思いますし、郷愁にある「古き良き」とは本当に良かったから人々の記憶に残るのでしょう。
ただし、これから来たる古き良き時代の再来は、これまでとは違う軸の「豊かさ」となるはずです。
むしろ今の時代を人々が思い出して「あの頃は良かった」と思う状況になるかは、これからの未来を私たちがどうするのか次第です。
私が子供の頃は「ヘン」な商品を売る人やお店がたくさんあって、大人たちは野心的で、元気だし自信も垣間見えていました。
その頃の日本の「活気」こそ、私がもう一度取り戻したい部分だったりします。
あの楽しげな雰囲気を、これからを生きる子供たちにも味合わせてあげたいのです。

