楽太郎です。
前回の記事で、日月神示の解読から「七神人によって地の岩戸が開かれる」という解説をしました。
この「七神人」に関しては、話半分でも面白半分に受け取って頂いても結構なのですが、今の世が完全なる行き詰まりを見せる中、世の刷新を促すには人間の力では不可能な部分が多いのは事実です。
どういう方法を取ることになるのか私にも量れない部分はあるにしても、「地の岩戸開き」は霊的事象であることから、象徴的な行動の結果と考えても良いかもしれません。
何はともあれ、「善の神」の御神力が弱まり悪が裁かれない世となっているから「闇の世」なのであり、神の力を存分に発揮できる状況にすれば、3000年来の光なき世は終わり、「真の日」が照らす弥栄の世となるのではないでしょうか。
さて、今回はこれまでのおさらいを兼ねて、少し先までの話をしながら、今後の見通しを立ててみたいと思います。
前回の記事で「神の力が弱いから、悪がのさばる闇の世となっていた」という話に度肝を抜かれた方もおられたかもしれません。
これは少し考えればわかるのですが、あれだけ「因果応報」とは言いながら、あまりに傍若無人に繁栄する「悪人」が多すぎるのは否定できないはずです。
人間が裁けるわけでもなく、天が裁くにしてもなかなか消えてくれない、「憎まれっ子世に憚かる」の状態がずっと続いてきました。
私の持論としては、人間の近視眼的な時間感覚では「因果応報」は確認できなくても、数十年のスパンを超えて来世、再来世で彼らの運命を見届けた上で結論を出している訳ではないため、そのまま「勝ち逃げ」できるとはどうしても思えません。
ところで、私が「個の岩戸」を開く上での「カルマの解消」をしていく中で、キッチリ自分のしてきた全ての悪業が正しく返ってきて、反省させられたという自覚があります。
「日月神示」がガチだと思ったのは、本当に自分のした「巡り」が自分に返ってくるのを体験したからで、率直な感想で言えば「もっと悪逆非道なことをしていたら、どんな目に遭ったのだろうか」ということです。
この経験を通して「神はちゃんと人間の行いを帳面につけておられる」と感じましたし、だからこそ「因果応報は存在する」という確信を持つに至りました。
おそらく「カルマの返済」は、自分が返済する気になった時に始まるもので、請求書を突っぱねているうちは延々と利子が溜まっていくタイプの借金という感じがしました。
だからこそ、私は個人的に「悪業は甘く見ない方がいい」と全ての人に忠告したいのですが、残念ながら悪人ほど聞き耳を持たないでしょう。
これまでの世界が、神ですらも肩身の狭い「闇の世」が3000年も続いたとされます。
その間、「善」の行いをする無垢な人々も、涙を流しながら搾取されたり命を奪われることもあったでしょう。
そして、その非道に立ち向かう人もまた、いずれは骨抜きにされるほどの状態に置かれたりもしたはずです。
なぜ、こんな理不尽な世の中が3000年も続き、今なお悪意ある虚偽や謀略が「大正義」の顔をしているのでしょうか。
元も子もないことを言ってしまえば、「まず最初に神界の上層部でそうなってしまったから」なのですが、この宇宙は「霊界の動きを物質が追従する」という法則が働きます。
まず神様の世界でそうした不和が発生したことで、神界の上から下まで、霊界から幽界、そして地上世界へと「同じ構図」の出来事の反映が起こってしまうらしいのです。
「日月神示」が降ろされた「富士の巻」の時点(昭和19年8月)では、「神界の都には悪が攻め来ているのだぞ」「神界ではその戦の最中ぞ(第三帖)」とあることから、「天の岩戸開き」が「夜明けの巻」以降の1945年に起こったと考えているので、現在の地上世界のような出来事が相似形で天界に起こっていた可能性があります。
時系列的には、1945年に天の岩戸が開けても2025年現在で岩戸が半分開かれていないため、未だ光の力が及ばぬ「闇の世」であり「神の都に世界中から敵が攻め寄せている」という状況なのだと思います。
しかし、これが神示に示された通りのシナリオなら、ここから確実に起こるのは「日本のお土が上がり、外国のお土が下がる」ような出来事であり、また「地の岩戸開き」と「ミロクの世」の到来です。
私が日月神示のストーリーを眉唾と思えない理由はいくつもあるのですが、全世界のスピリチュアリストが口を揃えて語った「アセンション(次元上昇)」や実際の霊的変化との合理性、そして「大峠」との付合する点の多さは、岡本天明翁の創作では予見し得ないであろう、未来の出来事が完全に再現されているように見えるからです。
つまりここまで再現性があるのなら、行き着くところは一つであると私は思うわけです。
「悪の御役について」という記事は、ガラにもなく暗い内容になってしまったのですが、「因果応報」が確実に発動する宇宙の法則なのだとしたら、「岩戸を閉じる係」の人々が辿る運命の残酷さについて、正面切って扱わなければならなかったからです。
現在、人々が使っている古い集合意識の「気場」は、「お金」や「承認欲求」など俗世一般のモチベーションを支え、そのエネルギーを原動力にして一つの文明を作り上げてきたという経緯があります。
この古い集合意識は「幽界」の干渉が強く、拝金主義や自己中心的欲望は「魔」にとって良い餌場となるものでした。
それでも、神々が文明の形成を支援し「神気」が古い集合意識に流れているうちは、その気場もある程度は浄化され、良い影響をもたらしていたりもしたのです。
しかし次第に人間社会が「幽界的様相」に近づけば近づくほど、神々の浄化力は弱まり、集合意識はより「魔界的様相」に近づいていきました。
勘の良い方は、人々がまるで「憑き物」に取り憑かれたかのように集団狂気に染まっていくのを、僅かにでも感じておられたのではないでしょうか。
「黄金の巻・第五十六帖」に「群衆心理とは、一時的な邪霊の憑き物ぞ」とあります。
私がかつてSNSで言論活動をしていた時、反対意見の勢力が全く互いに繋がりを持たず、また司令塔も指示系統も存在しないのに、まるでマニュアルでもあるかのような戦術行動を取り、役割分担をきっちり編成して波状攻撃を仕掛けてくるのを目の当たりにして驚愕しました。
そして、彼らのロジックも論法も視点の取り方も、型に嵌めたように全く同じなのです。
恐ろしかったのは、実体の見えない統率力の高さだけでなく、異常な暴力性と底知れぬ悪意が垣間見えたことです。
だから私は未だに、「人間相手に言論活動をしていた」という自覚はないのです。
というより、霊的な観察力はなくとも今のSNSやネットは「魔窟」としか表現しようのないスペースが多い気がします。
話を戻しますが、今は「集合意識」の場に神気が流入して来ない状態のため、邪気が蔓延し気場も縮退を始めているため、どんどん気場としての質が悪化しています。
最近、芸術関係の分野で最前線のトピックに創造性を感じにくくなくなったのも、この集合意識からはインスピレーションが抽出しにくくなっているからではないでしょうか。
また「お金」や「社会的ステータス」という成功への動機づけも、権威性がどんどん剥ぎ取られています。
それゆえ、今から新たに「お金持ちになる」「スターになる」というモチベーションが湧きにくく、それもまた世の勢いを削ぎ落としているように見えます。
この古い集合意識のエネルギーの枯渇は、いずれ「共食い的環境」を作り出し、気場として破綻していく中で、まともな人は次々と離脱していくことになるでしょう。
では「集合意識」に接続しないで人間が行動可能かというと、実は可能です。
この「集合意識」の本体は、「社会通念」や「常識」、人生のビジョンや共通の価値観など既存の「社会的集団」を取りまとめるための「霊団」の一部です。
人間は社会に属さず、山の奥で一人でも暮らせますし、社会通念は生きること自体に直接影響はありません。
人間は個人で「魂」のエネルギーを引き出し、その「神気」を才能という形で発揮する能力を備えています。
これまでの集合意識は、その「才能」を引き出さずとも社会のルーティンの中で生きられる仕組みを作るために必要だったのです。
その基本コンセプトは「没我」であり、外的な要因を使い「魂」のエネルギーに依存しないシステムを集合意識は内蔵していました。
ゆえに、人間は「魂」から神気を引き出して活動できるので、逆に言えばそっちが本来のあり方と言えます。
ただ、それでも社会を生きる上で常識や共通観念は持っていなければなりません。
だから大体の人は当面の間、自分の魂の力を喚起しながら、薄れゆく集合意識を足場にして生き方を模索する状況が続くでしょう。
その果てに、巨大な旧来の集合意識ではなく、よりニッチな共同体的気場を形成する人々も出てくるかもしれません。
ただし、「魂」に繋がる世界には、新たな集合意識の気場「精神界」が開けています。
これは従来の霊的階層とは一段高いところに置かれた神気の通うエネルギー場であり、ここは地球意識から生み出された「共存共栄」の性質を強く持っています。
将来的には、この新しい気場が人類の中心的なエネルギー源になっていくと思います。
ただ、この気場はかなり高い波長域にあるため、「我良し」という考えの人はなかなか入って来られない仕組みになっています。
それはこの気場の「主」が列記とした正神であるためで、下手すると管理者に気場から弾かれかねません。
全体の仕組みとしては、個人が判断や生き方をアウトソーシングすること自体が不利に働き、自立心を促すような流れの中、その行き着く先は「私利私欲」ではない、公益性を尊重する「共存共栄」の道に繋がっています。
だからまともに生きていこうとするなら、遅かれ早かれこれまでの生き方では立ち行かなくなり、独立独歩の生き方にならざるを得なくなるはずです。
現時点でさえ、古い集合意識の世界では息が苦しくなり、より生きやすい環境を求め、「目に見えない世界」に出口を探す人々も増えてきたのではないでしょうか。
この「魂」が求めるのは、人間が無意識に希求する「神」であり、その気を正しく受けることのできる魂は、周りがどれほど狂気的でも平然としていられるはずです。
つまりは、自分の「魂」と繋がり、魂から「地球」や「神々」と繋がる個人は、どこにあっても精神的エネルギーが枯渇するということはありません。
これから世の「建て替え・立て直し」が起こるとして「神人」の活躍を語る時、彼らは「人智」を超えた力、「神力」によってこれまで個人では出来なかったことが可能になる部分もあるでしょう。
その「神力」とは残念ながら漫画のような超能力ではありませんが、神に繋がることで発揮される個人の「全才能」です。
人間の持つ発想力やノウハウ、技術や身体能力を包括する「才能」の力によって、具体的に活躍していける時代となるのです。
少しサービストークをすれば、私が思うに今、神々は「才能」をスカウトしている最中だと思います。
自分には大した才能がないとか、「今さら」と考えておられる方がいるかもしれません。
自らの魂の目的と行動が一致した時、才能というのは簡単に花開きます。
当然、才能を発揮するにはノウハウや積み重ねも必要なのですが、大事なのは「目的」であり、明確な目的のために自分の才能を使おうとする時、技術よりも「魂」の発露が際立ちます。
この「魂」の状態にこそ「才能」は宿るのですが、この部分を履き違えて「知識」や「技術」、あるいは単純に「センス」というものが才能だと人々は考えがちです。
魂のスタンスが自分にとって正しければ、「やりたいこと」と「得意なこと」が一致し、技術やノウハウは後からついてきます。
ここが「能力開発」で見落としがちなところであり、何の目的もなく「才能」だけを求めるから人は自分の適性がわからず、得意不得意が見えないまま何となく「やりたいこと」の技術を伸ばしてしまいます。
だから、最初に必要なのは「動機」であり、その意欲は「魂」から湧き上がるものです。
「技術」や「ノウハウ」なんてのは、2・3年真面目に勉強すれば大概は身につきます。
自分を省みて「身魂」を磨けば、自ずと適性や「才能」がわかってきて、衝動を素直に受け入れているうちに技術もノウハウもついてくる、私はそう思います。
だから「自分なんて」という気持ちは捨てて、今からでも自分の可能性に向き合うべきだと思います。
これまでの世は良い部分も悪い部分も極端にありましたが、いずれにしろ「賞味期限切れ」ですし、いつまでも味のしないガムを噛んでいてもしょうがないのです。
時代は変わるのですから、気を改めてその時から「本番だ」と思えばいいと思います。
昔よりも明るく楽しい世の中にすれば、問題ありません。

