招神万来
  • お知らせ
  • エッセイ
    • イラスト
    • 時事関連
  • 神世創作
    • 神世絵
    • お祓い漫画
  • 神世考察
    • 神人関連
  • 神話研究
    • 日本神話
    • 日月神示
2026.01.14

「十柱の神」について

「十柱の神」について
2026.01.14

楽太郎です。

 

先日投稿した「日月神示の神々」という記事では、例に漏れず長文になってしまったため、日月神示に登場する「十柱の神々」についての詳細などを省きました。

今回は、その件について解説していきたいと思います。

 

(※1/15 追記:「岩の神」の解説を修正しました。)

 

さて「日月神示」を読むにあたり、「まつりの巻」や「水の巻」などに登場し「旧九月八日からの誓いの言葉」などに挙げられる「御三体の大神」から説明を始めます。

この「御三体の神々」には幾つかバリエーションがあって、同じ御神格と考えたら一貫していないと感じる部分もあります。

 

「水の巻・第十帖」では、その内訳について言及されています。

「今の臣民に分かる様に申すならば、御三体の大神様とは、天之御中主神様、高皇産霊神様、神皇産霊神様、伊邪那岐神様、伊邪那美神様、つきさかきむかつひめの神様で御座るぞ」

というか「御三体」と仰っておきながら六柱おられますが、話を先に進めます。

 

「風の巻・第十二帖」では、こうです。

「月の大神様が水の御守護、日の大神様が火の御守護、お土つくり固めたのは大国常立の大神様、この御三体の大神様が三日、この世を構いなさらねば、この世はグニャグニャぞ」

 

私の解説に基づけば「月の大神」が伊弉諾命、「日の大神」が伊奘冉命と比定できますが、安直に「高皇産霊神」「神皇産霊神」と重ねて考えることはできません。

また「つきさかきむかつ姫の神(※本記事では「撞賢木向津姫命」とします)」を「国常立大神」に比定するのは難しく、私の文脈では「国常立尊・大神」は伊弉諾命の上位存在であり、ここでは「世の仕組み」に関わる「御三体の大神」という文脈と思われます。

 

「この世を司る」という意味での「御三体の神々」は、やはり「水の巻」に挙げられる六柱であると考えられます。

「御三体」と言いながら六柱おられるのは、「天と地」でそれぞれ御三体とされているからではないでしょうか。

 

すなわち「天の御三体の神」とは「天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」であり、「地の御三体の神」とは「伊弉諾命・伊奘冉命・撞賢木向津姫命」と考えられます。

ただ「今の臣民に分かる様に申すならば」と申し添えてあることから、厳密に言えば神界では全く異なる定義や名称が存在するということであり、天之日月神様としては全く「取っ掛かり」のない話をされても人々に理解できないからだと思います。

 

その証拠に、「水の巻・十帖」の続きに挙げられている「十柱の神々」の内訳は、私の今回取り上げる内容とはかなり異なります。

まず、その本文を抜き出してみます。

「雨の神とはあめのみくまりの神、くにのみくまりの神、風の神とはしなどひこの神、しなどひめの神、岩の神とはいわなかひめの神、いわとわけの神、荒れの神とは大雷いかつちのおの神、わきいかづちおの神、地震の神とは武甕槌たけみかづちの神、経津主ふつぬしの神々様の御事みことで御座るぞ、木の神とは木花開耶姫このはなさくやひめの神、金の神とは金かつかねの神、火の神とはわかひめきみの神、ひのでの神とは彦火々出見ひこほほでみ神、竜宮の乙姫殿とは玉依姫たまよりひめの神様の御事で御座るぞ、この方の事、何いずれ分かって来るぞ」

 

まず「十柱の神」について解説します。

「天の巻・第二十二帖」では「十柱の世の元からの生き神様、御活動になっている事分ったであろうがな」とあり、100年掛かりの「大峠」において、重要な御働きをなされている神々様であることがわかります。

 

「キの巻・第三帖」から、少し長いのですが抜粋します。

「雨の神、風の神、地震の神、岩の神、荒れの神様にお祈りすれば、この世の地震、荒れを逃れさせて下さるぞ、皆の者に知らせてやって下されよ、この方イの神と現われるぞ、キの神と現われるぞ、シチニの神と現われるぞ、ヒの神と現われるぞ、ミの神と現われるぞ、イリヰの神と現われるぞ、五柱の神様を篤あつく拝おろがめよ、十柱の神様を篤く拝おろがめよ」

 

「夜明けの巻・第八帖」では、この十柱を「祀る」ことが説かれています。

「まつれまつれと申してあろうが、終わりの御用は初めの御用ぞ、まつりの御用ぞ、オワリの十のヤマにまつりくれよ、役員、皆宮つくれよ、宮とは人民の申す宮で無くても良いのだぞ、一の宮、二の宮、三の宮と次々に作ってくれよ、道場も幾ら作ってもよいぞ、神の申した事なせば成るのだぞ、宮と道場作り神示読んでまつれまつれ」

 

この「十のヤマ」というのは、どうも実際の「山」ではなく「奥山」という抽象的な空間を示しており、また「宮」が「神人」に係る「神の宮=肉体」であることから、「道場」とは神の道「ひふみ」を伝える場所と考えられます。

その「奥山」に「十柱」の神々をお祀りすることが、「岩戸開き」に繋がる重要な「御用」となるのではないでしょうか。

 

しかし、お祀りするべき「十柱」の神々の御神名が詳らかでなければ、具体的にお祀りすることは難しいと思います。

では、私が神示を読んだ上で比定した「十柱の神々」の内訳を挙げてみます。

 

 

私のブログをご覧になられている方は「天之日月神」様が「伊弉諾命」であられることは凡そご納得されると思います。

「御三体の神々」に関しては先述の通りでありですが、「十柱の神々」も記述される箇所によって表記にブレが見られます。

 

「十柱の神々」の中で中心となる神々の名称は、「雨の神」「風の神」「岩の神」「荒れの神」「地震の神」の五柱となります。

日月神示は「天地がひっくり返る」や「火の雨が降る」または「大地震の神」など、おどろおどろしい表現が散見されることから、オカルト界隈では特に「黙示録」的予言の書として解釈されてきました。

ここに挙げられる「五柱」の神々も、本気で御力を出されたら世が吹き荒れそうな面々にも思えます。

 

ただ私の解釈では全て「伊弉諾命・伊奘冉命・撞賢木向津姫命」の3役であり、低予算のインディーズ映画ばりのマルチキャストであることがわかります。

かなり意外と思われるでしょうし、順番に解説していきたいと思います。

 

まず、「水の巻・十帖」の「十柱の神々」の内訳について注釈をつける必要があります。

例えば「風の神とはしなどひこの神、しなどひめの神」の部分は、「男神」と「女神」の二柱と思われるのですが「地震の神」以降は漢字表記となり、所々に漢字とひらがなが混ざります。

また「木の神」や「日の出の神」あたりから一柱となり、かなり厳密に定義づけされている印象があります。

 

これは「ひらがな」の所ほど「実態と乖離している」からではないでしょうか。

後に詳述しますが「御三体の神々」の「つきさかきむかつ姫の神」はひらがなですが、「竜宮の乙姫」に関しては「玉依姫」とかなりハッキリ書かれている感じがします。

どうも「ひらがな」で書かれている御神名は「本質的ではない=形としてのもの」と考えれば、ニュアンスが掴めるかもしれません。

 

上記にある「風の神」としての「しなどひこの神、しなどひめの神」は、実は二柱ではなく「◉(カミ)」の「・(キ)」と「◯(ミ)」を示すと考えれば、だいたい説明がつきます。

神示には「男の魂は女、女の魂は男」と書かれているので、少なくとも神霊において「御魂」は御神格と反対の「性」を持つ可能性があります。

 

風の神が仮に男神とすれば、「しなどひこ」が「◯(ミ)」であり、「・(キ)」は「しなどひめ」となり御魂は女性格です。

逆に「岩の神」は「いわなかひめの神、いわとわけの神」とあることから、現れとしての御神格は「女神」、御魂としては「男神」と考えられます。

「雨の神」はまず置いといて、「風の神」を男神、「岩の神」は女神と考えた方が良さそうです。

 

「扶桑の巻・第一帖」には「イシもの言うぞと申してあったが、イセにはモノ言う石があると、昔から知らせてあろうがな」という一文があります。

 

この文章に関して、年末の「天之日月神」という記事で取り上げた「二見興玉神社」に伝わる「御鎮座伝記」で、猿田彦大神が五十鈴の宮におられた倭姫命の前に現れ、まさに「モノ申す」様子が書かれています。

私はこのエピソードを知った時「やっぱり日月神様は、個性を隠しきれないお方なのだ」と思いました。

 

「もの言う石」とは単刀直入に言えば「神」のことです。

「神は言波(ことば)ぞ(地つ巻・第三十四帖)」とあり、また神々は「◯九十(まこと)」の世界におられることから、神を「言(コト=いわ)」と表現でき、さらに「岩」は「石」とも言い換えられます。

 

当然「岩」は何らかの神の比喩と考えられるのですが、ここで先の「風の巻・第十二帖」で書かれていた「お土つくり固めたのは大国常立の大神様」が参考になります。

「土」を固めると「岩石」になりますが、ここで述べられる「大国常立の大神」が「岩の神」に当たるのではないかと考えました。

 

ただ神道においても「日月神示」においても「大国常立大神」という御神格はあまり聞いたことがありません。

これは「大国主命」と「国常立尊」の同一神格化された御神名であり、どちらも「伊弉諾命」に同定可能であることから、「国常立大神」または「国常立尊」と考えることができます。

 

(※ここから訂正部分)

 

ただ、先述の通り「岩の神」の表記の仕方は「女神」と受け取ることができます。

「富士の巻・十二帖」には「御土は神の肉体ぞ、臣民の肉体もお土から出来ているのぞ」とあり、やはり「石」とは「神」そのものと読み取れます。

また「天つ巻・第三十三帖」には「神の石はお山にあるから、お山を開いてくれよ」とあり、どうも「岩」というのは「山にある石」のことではないでしょうか。

 

「山にある石」を司る、つまり神の国を司る神とは「真の天照大御神」であられる「伊奘冉命」と考えるのが最も妥当です。

ゆえに「岩の神」とは「真の天照大御神(天照皇大神)」こと伊奘冉命となります。

確かに「国常立尊」の可能性も捨てきれないのですが、「岩の神」は「荒れの神」に対応する形で登場するので、後の解説を含めて参考にして頂きたいと思います。

 

では「岩の神」を伊奘冉命として、「荒れの神」について考えてみます。

伊奘冉命と「天照大御神」の対偶神を連想する時、「伊弉諾命」に比定しうる「素戔嗚命」を外すことはできません。

「荒ぶる神」とは「現ぶる(生れ降る)」神でありながら、その御力が強すぎて天を追われたともされており、「荒び(あれ)の神」とは「素戔嗚命」に当てはまると言えます。

 

「風の神」を考えるにあたり、「上つ巻・第三十七帖」に「雨も欲しい時に降り、風も欲しい時に吹くと雨の神様、風の神様申しておられるぞ」とあり、「雨と風の神」は「天つ巻」「富士の巻」でもセットで言及されています。

「岩の神」と「荒れの神」同様に「対で語られる神」とは「伊弉諾命」と「伊奘冉命」以外に考えられません。

 

「イザナギ」とは「誘う+キ」が語源とも言われますが、「イサ+凪」と読み、除災の神である素戔嗚命と同定可能であり、祓戸大神の産みの神でもあられることから、「科戸(しなど)の風」と無縁ではないと思います。

従って「風の神」とは「伊弉諾命」と言えるでしょう。

 

「風の神」が伊弉諾命とするなら、セットで登場する「雨の神」が自動的に「伊奘冉命」に比定されることになります。

神示によると伊奘冉命は「真の天照大御神」とされ、「雨=天(あま)」を司っておられるのは長らく伊奘冉命であり、「雨の神」という表現も特に矛盾しません。

 

(※補足)

上記「雨の神」とされる「天水分神・地水分神」とは神道において「速秋津彦命」と「速秋津姫命」の二柱からお産まれになられた「雨天の神」と言われています。

「水を配る」神とすることから、河川や水田だけでなく「山」の水源地でも祀られてきた歴史があります。

 

「天水分神・地水分神」の性別ははっきりしませんが、「山」に祀られる「神」と考えれば「岩の神」とほぼ同じ論理で「天照大御神=伊奘冉命」と考えるのが妥当ではないでしょうか。

「あめのみくまりの神」からの推察は強引な印象も拭えませんが、「天と地を分ける」二柱のうち「天」を司ることから「伊奘冉命」とすれば納得いく説明ができる気がします。

 

さて、残るは「地震の神」ですが、日月神示の目録において「地震」は「二日(◉)ん」と書かれています。

「二つの◉」とは「日月」を意味し、すなわち「日月の神」となられた伊弉諾命と伊奘冉命の二柱を指す御神格と考えられます。

あと、ふと思ったのですが「じしん」とは「二神(じしん)」かもしれず、やはり二柱の神と考えて良いかもしれません。

 

また「春の巻」に登場する「大地震の神」とは「大日月大神」と考えられ、かの御神格は「地の日月神」たる人間全般を含め、天地の神々を統べる大神とされます。

従って「日月の神」たる二柱が「天日月大神」「地日月大神」となり、総じて「大日月大神」となられる時、「大地震の神」が御顕現なされるのだと思います。

 

さて、ここまで「五柱の神」が明らかにしてきました。

残りは、たびたび表記揺れのある五柱を含めて「十柱」となるわけですが、まず先に「金の神」について言及します。

 

「空の巻・第十一帖」に「土の金神こんじん様を金かねの神様と申せよ」とあります。

大本教では「艮の金神」は「国常立尊」とされ、日本に封じられたとされています。

「磐戸の巻」には「この神は鬼門の金神と見えるのだぞ(第十七帖)」とあり、伊弉諾命(天之日月神)が国常立尊と同定されることから、やはり「金の神」も同じように結論づけられると思います。

 

さて「富士・鳴門の仕組み」が成就する時、「苦の花が咲く」と言われ富士に御鎮座なさる「木の神」は「木之花咲耶姫命」と考えられます。

日本の神道的解釈では、「岩の神」たる石長姫命の妹であり、天孫降臨後に瓊々杵命の妃となられた御神格になります。

 

上記の「水の巻・十帖」では「日の出の神」の正体が「彦火々出見命」と書かれていますが、「梅の巻・第五帖」ではこうあります。

「ニニギの命お出ましぞ、ニニギとは富士のキの御役である」

 

「松の巻・第二十九帖」に「豊受とようけの大神様をお山の富士に祀り、箸を供えてから、お下げした箸を皆に分けてやれよ」という一文があります。

「富士」にお祀りするべき神が伊奘冉命に同定可能な「豊受大神」とすれば、かの女神は「木之花咲耶姫命」と考えられます。

 

木之花咲耶姫命は配偶神を「瓊々杵命」とするので、富士に「キ」をもたらす神は「伊弉諾命」ではないでしょうか。

従って「日の出の神」「木の神」も「雨の神・風の神」同様に一対であり、それぞれ二柱の御役と考えられます。

 

上で「日の出の神」に挙げられた「彦火々出見命」は、「竜宮」の豊玉姫命を妃にして「鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ命)」を子に儲けます。

そのウガヤフキアエズ命を育て、成人後にご結婚なされたのが「玉依姫命」であり、上記では「竜宮の乙姫」に当てられています。

 

「乙(弟)」とは「末の子」に関連する言葉であり、「竜宮」の王たる伊弉諾命(彦火々出見命)と伊奘冉命(豊玉姫命)の「子」として「玉依姫命」を考えれば、想定できるのは「撞賢木向津姫命」です。

以前、本ブログで「玉依姫命について」という記事で、玉依姫命を「瀬織津姫命(撞賢木向津姫命)」と同定しています。

 

「玉依姫命」の「末娘」という肩書きが二柱の御子神「火之迦具土命」と重なり、「火の神」の詳細にも関わってきます。

「極めの巻・第一帖」に「火結神ほむすびの実秀答みほと焼かれて岩戸閉ざしき」という一文があります。

 

この「ホト(陰部)」が焼かれたのは伊奘冉命が「火の神」を産んだためで、ゆえに伊奘冉命は「火結神(火産日神)」と言われます。

「火の神」は上記に「わかひめきみの神」とありますが、これは「稚日女命」であり、「きみ」とは「姫君」かもしれません。

 

つまり「大日女命」たる伊奘冉命の御子神が「稚日女命」であり、「火の神」と考えることができます。

「大日女命」とは「天照大御神」のことですから、伊奘冉命を真の天照大御神とすれば「稚日女命」は「撞賢木向津姫命」、すなわち「天照皇大神宮の神」現天照大御神であられると考えられます。

従って「竜宮の乙姫」「火の神」は二柱の御子神であられる「撞賢木向津姫命」に比定することができます。

 

あと残るは「暗劔(くらつるぎ)の神」ですが、詳細に乏しいのは否定できません。

「富士の巻・第三帖」には「玉とは御魂みたまぞ、鏡とは内に動く御力おんちからぞ、剣とは外に動く御力ぞ」とあり、「劔」とは「魂」が外に働く状態を表していると読めます。

「暗い」の反対は「明るい」ですが、これは「和魂(ににぎたま)」に対する「荒魂(あらみたま)」を示しているのではないでしょうか。

 

つまり「暗劔の神」とは「天照大御神荒御魂」であられる「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(撞賢木向津姫命)」と考えられます。

もし「天照大御神荒御魂」が伊奘冉命であるならば、「五柱の神」のうちに入っていてもおかしくありませんが、かの御神格は一度だけ「紫金の巻」に登場し、「九柱の神」の並びでは「木の神」か「火の神」に被る形で表記されています。

 

私は「暗劔の神」が「木の神(伊奘冉命)」に当たるのか「火の神(撞賢木向津姫命)」に同定できるのか、そもそもこの並びの真意がわからず悩んだのですが、順当に考えて「撞賢木向津姫命」であると結論づけました。

「剣の神」とは、神示の文脈では「素戔嗚命」の御神能の一角です。

「祓い」の力が伊弉諾命由来と考えれば、その御子神であられる「撞賢木向津姫命(瀬織津姫命)」が「剣」の権能を持たれているのは不思議ではありません。

 

撞賢木向津姫命という御神格を考えるにあたり、先述の「松の巻」にある「豊受の大神様をお山の富士に祀り、箸を供えてから、お下げした箸を皆に分けてやれよ」の一文が参考になります。

「松の巻・第二十八帖」では「保食うけもちの神様祀らずに、いくら野山を拓いたとしても作物を作ることは出来ないぞ」とあります。

 

「保食の神」とは、月読命が食事を供される際、食材を吐き出す姿を見て激昂し、斬り殺されてしまわれた女神とされます。

その亡骸からは五穀を始め、蚕やあらゆる生活を豊かにする生き物が生まれたとされ、これは「大気津姫命」が素戔嗚命に殺害される神話と同じ形式を持っています。

 

さらに、「斬り殺された女神の亡骸から自然物が生まれる」という構図は、伊弉諾命に殺害された「火之迦具土命」にも見られます。

つまり「保食神」「大気津姫命」「火之迦具土命」は、同根の神話形態と言えます。

 

私の説では「火之迦具土命」を「撞賢木向津姫命」と同定しているので、「保食の神」も同様と考えられます。

「風の巻・第八帖」には「海にはどんな宝でも竜宮の乙姫殿持ちなされているのだぞ、この世の宝は皆、この方作ったのだぞ」とあります。

 

この文脈では、竜宮の乙姫がこの世の「宝」を全て作り出し、それを持たれていると読み取れますが、しかし「この方」は竜宮の乙姫ではなく、語り手の「天之日月神」に掛かっているように読めます。

「持ちさなれている」という尊敬語が乙姫に掛かっていますが、「この方作った」という言葉が乙姫に掛かるとしたら、言い回しとしては「この方作られた」になるはずです。

 

つまり「この世の宝を作った」のは天之日月神、いわゆる伊弉諾命ではないでしょうか。

「保食の神」という御神格にしても、「豊受大神」が生み出した地上の恵みである「ウケ・ウカ(食)」を「持つ(保つ)」役割と考えられます。

 

「竜宮の乙姫=保食の神」とすれば、どうも同定可能である撞賢木向津姫命は、二柱からもたらされた被造物を管理する御役を担っているように思えます。

先の「豊受大神の富士」にお供えする「箸」とは「保食の神」のことであり、伊奘冉命と伊弉諾命のもたらす「宝」を司る御神格も揃ってお祀りしなければならない、という意味だとしたら、ここで「御三体の大神」の祭祀が成立します。

 

現在の「天照大御神(天照皇大神宮神)」であられる撞賢木向津姫命は、おそらく「高天原」を統べる権能を持たれているはずであり、ここで「大神」とは八百万の産土神・氏神を統括する御神格と言えるでしょう。

「地つ巻・第二十帖」には「世界に変わった事出来たら、それは神々様の渡られる橋ぞ」とあり、この「橋」は富士にお供えする「箸」に掛けていると思われます。

 

竜宮の乙姫が伊弉諾命の御造りなされた「宝」を管理し、「豊受大神」が地上にもたらされた「恵み」を有する構図から、二柱の御子神であられる八百万の神々は撞賢木向津姫命を「代表」として、遍くその御神能を持っておられるのではないでしょうか。

 

要するに「御三体の大神」であられる「撞賢木向津姫命」は二柱が「神産み」した八百万の神々を司る御神格であり、「御子神の大神」とすれば「地の御三体の神」の本質が見えてくる気がします。

そして「天の御三体の大神」であられる「天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神」の神々は、地の御三体の大神にある「逆三角形」の図式をそっくり反転したご関係を有します。

これは何を意味するのでしょうか。

 

これには「空の巻・第三帖」にある、謎が多い一節を避けて通れません。

「ひふみ四十九柱、五十九柱、神代の元だ
ぞ、あめつち御中ムしの神、あめつち御中
ムしの神、あめつちの御中ムしの神、あめ
つち御中ウしの神、あめつち御中ウしの
神、あめつち御中あめつち御中ウしの神、
あめつち御中あめつち御中ウしの神、あめつ
ち御中ウしの神、あめつち御中ウしの神、あ
めつち御中あめつち御中天地あめつち御中ヌしの神、天地のはじめ」

 

「これは何なんだ」とお感じになられると思いますが、そう思わない方は多分おられないのではないでしょうか。

「天御中主神」の変形名詞「あめつち御中の神」は、よく見ると「十柱」あります。

そして会社の送り状などに書く「御中」という言葉だけを見れば、「あめつち」の中にある神、と読むことができます。

 

「天之御中主神」は宇宙開闢の原初に係る御神格であり、「神は神の中に神を産む」という「ウム・ナル」の図式から考えれば、「あめつち」とは「天之御中主神」ご自身と考えられます。

「星座の巻・第十帖」に、こうあります。

「世の元は〇であるぞ、世の末も〇であるぞ、〇から〇に弥栄するが、その動きは左廻りと右廻りであるぞと申してあろう、その中心に動かぬ動きがあるぞ」

 

この世の始めと終わりである「◯」とは「天之御中主神」と「撞賢木向津姫命」を示していると考えられないでしょうか。

神々の原初である「天之御中主神」と、二柱の「最後の子」である撞賢木向津姫命は対極の立場にあるように思えます。

「御三体の大神」が三つ巴の上下対称形となることから、「高皇産霊神≒伊奘冉命」「神皇産霊神≒伊弉諾命」にそれぞれ紐付けれるなら、「天之御中主神≒撞賢木向津姫命」と考えることができます。

 

そして「空の巻」にある最後の「あめつち御中あめつち御中天地御中ヌしの神」とは「撞賢木向津姫命」の御立場を象徴する箇所であり、これまでの「あめつち御中の神」が「ウ」と「ム」だったのに対して、「ヌ」となっています。

この「ヌ」とは二柱が「国産み」をなされる際に用いた「天之沼(ヌ)矛」にあるように、「霊(ヌ)」と考えられます。

 

つまりは「ウ」から生まれた霊魂、撞賢木向津姫命を「大神」とする八百万の神々と人間を含めて「あめつち御中あめつち御中天地御中ヌしの神」なのだと思います。

だから「◯から◯に弥栄する」というのは天之御中主神に始まり、「地の日月神」たる人間で終わる構図はピッタリ当てはまります。

 

そしてこの「あめつち御中の神」の十柱は「ひふみ四十九柱」に掛かっています。

この「四十九」という数字は「アイウエオ」の並びに関連し、神示の重要概念である「五十連(いつら)」にも繋がります。

今回の記事も長くなりすぎる帰来がありますが、せっかくなので最後まで行きたいと思います。

 

「星座の巻・第二十二帖」からです。

「アとオとウとは天人の言葉、人民に与えられた元の言葉であるぞ、五柱の元つ太神が十柱の夫婦神と現われ、十柱の子と交わって五十神と現われるのじゃ、故に五十神の中の三十二神は新しく生まれるのじゃ、更に二十七神とはたらき、又二十五有法とはたらくぞ」

 

私はこれを読むたびに「近親相●じゃん、けしからん」と思っていたのですが、そうではありません。

この「元つ大神」から始まる「交わる神々」は殆ど「二柱」ご自身ですし、それも「御神威」が交わるという、かなり抽象的に捉える必要があります。

 

順に説明していきたいと思います。

「極めの巻・第九帖」から、少し長いのですが引用します。

「天の「5」を地に移すと地の五則となるのじゃ、天の大神は指を折って数え給うたのであるぞ、天の大神の指も五本であるから、それを五度折って二十五有法となされ、五十を元とされたのじゃ、神々、神心、神理、神気、神境であるぞ、これを五鎮と申すのであるぞ、この交叉弥栄は限りなし、上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すぞ、東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申す、裸物、毛物、刃物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用を五法と申すのじゃが、それだけでは足りん、その中に〇があるのじゃ、大神がましますのじゃ」

 

この内容から、誤解されるような内容ではないことが伺えます。

つまり「大神」はこれら「五極」の中に存在し、それぞれ「五」ある五極とは「いろは(アイウエオ)」の並びで説明されます。

これが神示によく使われる「ア」や「ヤ・ワ」などに示される表現です。

 

「ア」と「ヤ」「ワ」はよく目にしますが、「ヤ」は伊奘冉命、「ワ」を伊弉諾命とするのは、たびたび解説してきました。

「天人の言葉」たる「ア」「ウ」「オ」の「ア」は「天之御中主神」と置き換えることが可能だと思います。

この「アイウエオ」の頭文字の列は「大神」に準ずる極であり、「アカサタナハマヤラワ」の十柱が存在することになります。

 

これらを一覧にすると、こうなります。

 

 

「夜明けの巻・第四帖」に、こうあります。

「この方はカの神と現われるぞ、サの神と現われるぞ、夕の神と現われるぞ、ナの神と現われるぞ、ハマの神と現われるぞ、ヤラワの神と現われたら人間は眼を開けて居れん事になるぞ」

 

また「地つ巻・第二十九帖」の文言も参考になります。

「この神示はアとヤとワのつく役員から出すのだぞ、それが表の役ぞ、旧九月までにはその御方お揃いぞ、力のつく役員裏なり、夕のつく役員表なり、裏表あると申してあろうがな」

 

「ア・ヤ・ワ」は先述の通りに比定できますが、「カ」は裏、「タ」は表とすることから両者が対の関係にあるのがわかります。

神示を出す御役は「ワ」である伊弉諾命と思われるので、「表」の「タ」が「ワ」の系列と考えて間違いないでしょう。

 

「天之日月大神」としての御神格で考えたら「カサタナハマヤラワ」全てに当てはまるのも説明としては矛盾せず、ゆえに「伊奘冉命」が「裏の御役」として「カ」の極におられるとするのも無理はありません。

 

「光の巻・第七帖」に、こうあります。

「⦿すと二ふと四よとの大き戦あると知らせてあったが、一旦は二ふと四よの天下になる所まで落ち込むぞ、行く所まで行きて、ナのミタマとノのミタマの和合一致出来てから、スのミタマが天下統一、世界一平となるのじゃぞ、愈々大峠、取り上げにかかるのだぞ」

 

この「◉と二と四の大戦」に関しては、テーマから外れるので割愛しますが、この文脈で重要なのは「ナ」の極での「和合」であり、「サ」行にある「ス」の身魂が全てを統べることになるという内容です。

「ナ」に対する「ノ」とは「善と悪」と考えれば、伊奘冉命の配下にある「神界」と「幽界」の統合が進んだ後、「伊弉諾命」の「ス(ウの段)」で新しい世界が「生まれる」と言えるのではないでしょうか。

 

これが先に挙げた「星座の巻・第十帖」の「その(◯の)動きは左廻りと右廻りであるぞと申してあろう、その中心に動かぬ動きがあるぞ」という文章で語られる「・」であり、「ス」とは「サ」の行が伊弉諾命の系統であるとする論拠は、天之日月大神の御神能に係るからと言えます。

そのため「カ」「ナ」は伊奘冉命、「タ」「サ」は伊弉諾命の段と考えられます。

 

あとは「ハマ」ですが、順繰りに「アカサタナ」が進んでいるので、正直言ってどちらでも問題ないのでしょうが、「ハ」を伊奘冉命側、「マ」を伊弉諾命側としました。

ここで「アカサタナハマヤラワ」を十柱の神に比定する作業が完了しました。

 

さて「星座の巻」の文言に戻りますが、「五柱の元つ太神が十柱の夫婦神と現われ、十柱の子と交わって五十神と現われるのじゃ、故に五十神の中の三十二神は新しく生まれるのじゃ」とあります。

「五柱の元つ太神(アイウエオ)」が揃うと、「三十二柱」が新たに生まれ「五十柱」になるということは、それまでは「十八柱」だったことになります。

 

「四本指」が「五本」になることから、それまでは「四極」の世界だったと考えられますが、「4」の段ではどうも「18」の数字には綺麗に収まりません。

順当に考えて、これまでは「ア・ウ・オ」の三極であり、それに何かプラスアルファの要素が加わっているのかもしれません。

 

図で赤字で示してありますが、「アイウエオ」の五極の世界が開けた時、「ア・ウ・オ」の段で重複しない「新しい文字列」は確かに「三十二」となります。

ここで「五十音」のいろはで考えているので、「ワ」の段は一般的な「ワヲン」の形にはなりません。

「ン」を入れると「五十一音」になりますが、それを「ム(無)」とすればキリが良くなり「五十連(いつら)」が完成します。

 

「月光の巻・第四帖」には「あめのみなかぬしのその前に、あめゆずる日、あめのさぎりのみことあるぞ、くにゆづる月、地のさぎりのみことあるぞ」とあることから、「ン」の極を「ア」の前に置いても矛盾しません。

ゆえに、図のような階層図となります。

 

「新しく生まれ出でる神々」とは「高神産日神・神産日神」と「豊雲野尊・国常立尊」の中間であり、「別天津神」のもう一つの二柱である「天常立尊(クラゲナスタダヨエル神)」と「ウマアシカビヒコジ神」が、それぞれ「豊雲野大神」と「国常立大神」であることが浮かび上がってきます。

これが神示に語られる「元の元の元の(大)神」の正体ではないでしょうか。

 

これが「三十二柱」に相当する御神格の誕生であり、この御位には真の「天之日月大神」が鎮座し、「国常立大神」と「豊雲野大神」から全ての神々を内包する「大日月地大神」の御顕現を表していると言えます。

つまりは、この大統一神のご誕生こそ「大峠」の真の目的であり、そのために「三千世界の大洗濯」が必要だったのでしょう。

 

ここまで来て、ようやく「神界」の全貌と「大峠」の目的が薄っすら見えてきました。

とりあえず、この時点で10,000文字を読んで下さった皆さまには、労いの言葉をお贈りしたいと思います。

 

最後に、なぜ「撞賢木向津姫命」が天之御中主神の対極にあり、「最後の御子神」なのかについて語ってみたいと思います。

 

伊弉諾命と伊奘冉命が「高神産日神・神産日神」から連綿と続く「二柱神」の系統であれば、御子神であられる撞賢木向津姫命にも「伴侶」となるべき対偶神が存在してもおかしくありません。

二柱の下にお産まれになられた二柱が、さらに二柱の御子神を産む、という図式を繰り返していけば「未来永劫」子々孫々までの継承が可能になるはずです。

 

「撞賢木向津姫命」に最も「配偶神」として可能性が考えられるのは、二柱が最初にお産みになられた「ヒルコ神」であり、当初なら「日(る)子命」としてご誕生なされ、妹神の「稚日女命」として、共に将来の「二柱」となることもありえたでしょう。

 

しかし少なくとも神話上、そうはなりませんでした。

また、日月神示からも撞賢木向津姫命の配偶神は全く示されていません。

 

これは「◯から◯」に至る仕組みとして、「天之御中主神」の「対偶」が「撞賢木向津姫命」であると考えられないでしょうか。

その意味では「伴侶」ではなく「裏と表」であり、宇宙開闢と共にすぐにお隠れになられた天之御中主神が「表」に現れた時、それが「撞賢木向津姫命」のご誕生であったのかもしれません。

 

だからこそ、二柱の神は地球の「修理固成」が終わっていないにも関わらず、「竜宮の乙姫」のご誕生に合わせて別離を選択なされたと考えられるのです。

すなわち、二柱の「神産み」の真の目的は「天之御中主神」を産む(転生させる)ことであり、その成就も宇宙の「経綸」の完成に不可欠な要素であったのでしょう。

そして、撞賢木向津姫命のご誕生をもって「括り」とされたのではないかと思います。

 

果たして、これから再びご一緒になられた伊弉諾命と伊奘冉命が「国常立大神・豊雲野大神」となられ「天日月大神」に即位なされた後、この宇宙はどうなるのでしょうか。

おそらく、その後の未来のことは神々ですらわからないことかもしれません。

 

まして、その未曾有の未来は「天之御中主神」の御顕現であられる「撞賢木向津姫命」が全ての鍵を握っておられる、そんな気がしてなりません。

前の記事「日月神示」の神々

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

最近の投稿

「十柱の神」について2026.01.14
「日月神示」の神々2026.01.11
「神界」の仕組み2026.01.09
「仇なす者」の正体2026.01.05
「天国」への道2026.01.04

Category

  • お知らせ (10)
  • お祓い漫画 (6)
  • イラスト (20)
  • エッセイ (127)
  • スピリチュアル (21)
  • 哲学 (2)
  • 日月神示 (23)
  • 日本神話 (5)
  • 時事関連 (37)
  • 神世創作 (10)
  • 神世絵 (16)
  • 神世考察 (92)
  • 神人関連 (34)
  • 神話研究 (34)

Archive

  • 2026年1月 (6)
  • 2025年12月 (15)
  • 2025年11月 (16)
  • 2025年10月 (23)
  • 2025年9月 (23)
  • 2025年8月 (17)
  • 2025年7月 (25)
  • 2025年6月 (21)
  • 2025年5月 (26)
  • 2025年4月 (19)
  • 2025年3月 (26)
  • 2025年2月 (32)
  • 2025年1月 (31)
  • 2024年12月 (24)
  • 2024年11月 (8)

Links

HITSUKU | 日月神示解説

© 招神万来  |  楽太郎 All Rights Reserved.

Menu

お知らせ
エッセイ
イラスト
時事関連
神世創作
神世絵
お祓い漫画
神世考察
神人関連
神話研究
日本神話
日月神示

LINK

HITSUKU | 日月神示解説