楽太郎です。
前回の記事「岩戸開きの真相」では、日月神示を参考にして「天地界図」なるものを作成しました。
これは我ながら良い作図をしたと思っているのですが、今回は「岩戸開き」をした後に開かれる「九・十(コト)」の世界を個人的見解に基づいて解説していきたいと思います。
さて、前回に上げた図を再掲します。

「白銀の巻・第一帖」には、こうあります。
「三千の世界の中の一つがそなた達の世界であるぞ、この世もまた三千に分かれ更に五千に分かれているぞ、この方五千の山にまつれと申してあろう、今の人民の知り得る世界はその中の八つであるぞ、人民のタネによっては七つしか分からんのであるぞ、日の光を七つと思っているが八であり、九であり、十であるぞ
人民では六つか七つにしか分けられまいが、岩戸が開けると更に九、十となるぞ、隠してある一厘りんの仕組み、九十ことの経綸けいりん、成就した暁には何も彼も分かると申してあろうが」
「岩戸」とは段階で考えれば、「碧玉の巻・第五帖」に「七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隅すみから開きかけるのであるぞ、開けると〇と九と十との三が出て来る」とあります。
つまり「八」から「九」の間に「岩戸」があると考えられ、「胸つき八丁」が過ぎてからが「正念場」とも言えるのです。
唐突な話になりますが、以前に私は「個の岩戸が開いたようだ」という話をしていますが、どうも最近さらに「十の世界」の扉を開いたようです。
これも実感するまでに時間を要したため、なかなか判断ができずにいました。
今回の記事は、私が体感してわかった「十」の段階について書いてみたいと思います。
私たち現代人が、これまで大半の時間を過ごしてきた八方的世界、いわゆる「八」までの期間は「ウ(有限)」の世界になります。
ところが「八」の端で「岩戸」を開くと、次の「九」は「(ウ」であり、やや物質的な世界から離れている状態に入ります。
上の図を参照して頂きたいのですが、「ウ」「(ウ」は「有限」の世界、いわゆる物質で構成される世界です。
この上に「ム」に連なる世界が広がり、厳密には「(ム=幽界」と「(ム)=神界」が存在し、地上から見れば「十」に属します。
私の体感の話をすれば、「九」とは霊界的には「中界」に位置し、やはりこれまでの人生や社会で染みついた「記憶」や「情念」というものを脱ぎ捨てるための時間帯でした。
その期間に、私は様々な霊的直感を得て、これまで体験してきた出来事の意味や世の中の実相について、考えたこともなかったような角度での認識を深めることになりました。
その見解を一言で言うなら、「この世界は自分が思っていたようなものではなかった」ということに尽きます。
自分自身の生い立ちについても、周囲だけでなく世の中の仕組みや目に見えない世界についても、まるで今まで自分が薄っすら認識していたストーリーとは全く異なる様相を呈していたことに気づいたのです。
それを今回の記事では取り扱いませんが、「悟り」とすら思える事実の見方に動揺しながらも、それが腑に落ちるタイミングで「十」の扉が開いたことがわかりました。
「十の世界」とは、人間から見れば「霊界(天界)」の広がりであり、上図で言うと「幽界(ム」から先の「神界(ム)」へ連なる道です。
そして「十」の世界が拓けた瞬間、私の古い価値観がガラッと「置換」されたことに気づきました。
これを神示にあるように「ひっくり返る」と表現しても良いのですが、まさにその感覚に近いのです。
それは、これまでの人生で「人間」を軸にした世界観が、「神」を軸にして見ると全く違う世界に見え始めた、と言えます。
人間の主観で言えば「善悪」や「矛盾」など甲乙つけるようなことでも、神の見方こそ「絶対」であり、その価値観を軸にすれば人間のあらゆる価値観は全て「相対」です。
つまり「神様は絶対」であり、人間がどう理屈をつけ正しいと思っていることも、「正しいかどうかは神が決める」のであり、人間には絶対的な裁定権は委ねられていないということです。
そして「神様から見たらどうなのか」というのが重要で、全て神々に裁定権がありその判断が軸である以上、いくら人間が騒いでも「神様が良いと言えば良い」し「悪いと言えば悪い」のです。
すなわち「真の善悪は神が決める」ことであり、人間がいくら議論しても決定的な結論には至れないはずです。
それは誰が言うことではなく、各自が自分の心で「神」と繋がればわかることであり、それが世に「道徳」や「倫理」の観念をもたらすのではないでしょうか。
もちろん「人」を造ったのは神々ですから、被造物である人間はどうしても神の「下位」に位置するのは仕方のないことなのですが、それが気に食わない人々もいるでしょう。
いや、神の下にいるのが「気に食わない」のは人間だけではなく、目に見えない「神に仇なす者たち」は、気の遠くなるような時間の中で反抗を続けてきたのだと思います。
私が霊的覚醒をしていく中で、彼ら「神に仇なす者たち」の存在も強く意識せざるを得ない体験をいくつもしました。
だから私たちが、目で見ながら人を相手にして暮らす日常的な世界の裏で、彼らの強い存在感を改めて認識し、彼らが作った「仕掛け」によって今の世界の大部分が作られていることにも気づいたのです。
ただ、それをありのままに正面から人に伝えても、非難を浴びるか「頭がおかしい」と言われるのは日を見るより明らかです。
だから私は自分の見解を正直に話すつもりはありませんし、だからと言って、いつまでも人々がその認識に辿り着かない様子を黙って見ているわけにもいきません。
まあ、このブログをお読みになる方は、そもそも勘の鋭い人が多いでしょうが、私は「この世界は人が思っているような世界ではない」ことを「十の世界」で確信し、それを改めて伝えていこうと思うのです。
そして、「神の目線」が曖昧模糊とした人間の世界に「正しい」目をもたらすのであり、人間が言う「公平」や「両義性」などは、多くの場合レトリックや詭弁に用いられているに過ぎないこともわかるでしょう。
人間はそう言われると大抵の場合は反感を持ち、まして「神はそんなことを言わない」とか「そもそも神などいない」と主張したがるのですが、人間がどう考えるかも神様は承知の上なので、人間が何と言おうと世界を引っ張っていくのが「神」という存在です。
そして、いずれは大なり小なり全人類がこの認識に到達せざるを得なくなる時はやって来るでしょう。
「神」の存在は、時代に応じて必要だったり要らなくなったり、流行ったり廃れたりして結局「無くて良い」となるようなものではありません。
人間の世界の裏側で、常に人間のために働いておられる列記とした存在の神々が、人間の一存でやめたり居なくなったりすることはないからです。
けれど「有神論」だけを強制するわけではないのも、神様のあり方なのです。
神に仇なす者たちは、「神」をダシにして「神はいない」と人々に刷り込むようなことを意図して行います。
ただ、そんな彼らを決して滅しようとせず、「無神論」や「反神論」をあえて許容するところが「神」のあるべき姿なのでしょう。
話を戻しますが、私は日月神示の解説を通して、2029年のどこかで「地の岩戸開き」が起こるという話をしています。
この説は現状の世界を見回して、あと3、4年というのは順当な時間感覚というか、どうもかなりリアルな数字になってきたのではないかと、昨今の事情を鑑みるにそう思います。
ただし肝心なのは岩戸が「八合目」で開かれてからであり、世が古い時代を離脱する「九」という「中界的段階」を経て、「十」に至るまでには「ひっくり返る」という表現がまさに一致する事態も起こりえるだろうと思っています。
そして、神示に語られる「全てが一旦、天地に引き上げられる時」とは、おそらくこの段階で訪れるはずです。
私の体感に基づけば、「十合目」になって「実は世界がこうなっていた」と完全にディスクローズされる段階が来ます。
その時、過去の経験から抱いていた違和感や疑問による「伏線」が解かれ、人々が世界の「ネタバレ」に触れ、価値観が置き換わることになるはずです。
人間社会の「価値観が置換される」ことで、物事の定義が人間中心から「神中心」になり、神々が物事の「良し悪し」について主導権を持つことになるのだと思います。
そして「神世」というのは、人々がディスクローズされた後の世界に訪れるものであり、「弥栄の世」は神世に築かれる文明社会にあるのではないでしょうか。
私はその日が来るまで、「ほら俺が言った通りじゃないか」みたいな誇示をしたいがために活動するつもりはありません。
ぶっちゃけ、人間としての主観に頼っては誰しもフラフラするもので、自分が神様と同じ目線で物事を見るということは、神様のご意見を伺っているに過ぎないのです。
従って、自分の目論見が当たっていようと外れていようと、「当たっていれば神様の言う通り」「間違っていたら自分の思い違い」で全てを処理すれば良いだけです。
自分の意見を押し通そうとするあまり、言論の世界は我を張るほど却って自分の首を締めるだけになりかねないものです。
「世を良くしよう」と思う時、大抵は自分の理想を他人や社会に当てがい、自分の物差しに合わなければ「悪」と断じ、煮ても焼いても食えない人々を呪い始めてしまいます。
けれど、「良い世の中」というのは人間の住み心地の良さというより、神様が高いところから人間を見て判断することであり、まして我の張った権力者や大衆の意見で決まるものではないでしょう。
だから私は基本的に「神様に頭が上がらない一人の人間」として、ひたすら頭を低くして神々のご意見を賜るスタンスでありたいと思います。
それを、人はやはり「人としてどうなのか」と思うでしょうが、これまでの価値観で作り上げられた人間中心の世界が、完全なドン詰まりの状態にある以上は、その考え方もいずれ限界に突き当たるはずです。
「人間中心の考え方」をヒューマニズムとは言いません。よく勘違いされますが、ヒューマニズムとは「人間を尊重すること」であり、決して人間至上主義ではありません。
人間を尊重しながら「神」の示す生き方を志すことに、矛盾は生じえないのです。
ゆえに、これまでの価値観で「神世」を生きる未来人の生き方は量れないでしょう。
最後に、話をまとめたいと思います。
岩戸が開かれるまでの「八方的世界」を現代社会とするなら、数字の「8」で終わる八進数の世界が、いずれ尻切れの状態で終わるのは明白です。
その先に永遠となる「十全」の世界が広がるから、この宇宙は永遠性を持つのでしょう。
これまでの社会は、自分を中心に他人と比べ、社会の物差しで自分の生き方を決めていました。
「正しいか間違っているか」も大抵の場合は多数派の意見で決まってしまい、それが本当に正しいのか間違っているかは数十年経って、ぼちぼちわかる程度のことにすぎませんでした。
あらゆる尺度が平均的な世界で、人々は右に左に流されながら、自分の思う正しさや間違いも強く言えない時代が長く続きました。
けれど、人々がその思考習慣から抜け出す時、ようやく個人が自分の意見で是が非か言う勇気の持てる機会が訪れます。
それが今まさに訪れようとしており、このグラつき始めた世界は「変革のファンファーレ」と言って良いでしょう。
他人を羨み、他人を呪い、他人を組み敷き、優越感に浸ることが常識の世の中は、明らかに間違っています。
これは決して私の「意見」ではなく、実際に神様はもっと自由に生きられるよう世界をデザインし、優勝劣敗ですら許される自由な世界にしてあるからです。
今、そのシガラミから抜け出す出口が、ようやく見え始めています。
それが「神の道」であり、その先に神々が座す「十(カミ)」の世界が広がっているように見えます。


