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2025.11.24

「神の心」を知る

「神の心」を知る
2025.11.24

楽太郎です。

先日から風邪を引いた母の看病をしていましたが、家族のために動き回ったわりには好き勝手に言われ、少し疲れてしまいました。

冷静になってみると、ずっと母は私に尽くしてきたわけで、私のワガママをずっと聞いてきた側の人だということを、ようやく私が感じ取れる機会だったとも言えます。

今回の件で、「大人」でいなければならない立場に立った時、「親の心」というものが少しわかった気がしました。

 

やはり母の懐の深さや、それを「愛情」と呼ぶのだということ、それを感じると改めて父や母の偉大さを身に沁みて感じた次第です。

そして、その「親心」は何となく「神の心」に通じるように思えました。

 

神様は人間がどんなにワガママでも、粗暴で手に負えなくても、決して見放したりしません。

どれほど言い聞かせようとも、耳を傾けない人間に傍から語りかけ、ずっと寄り添う神という存在には、どこか底知れぬものを感じます。

 

母の世話をしながら「アレができてない、コレを早くやれ」とせっつかれ、さすがの私もイライラしたのですが、私が普段やらないようなことを人にしてあげて、腹が立つのは「我」というものがあるからです。

 

「これだけやってあげているのに」という感情の裏には、「人のためにやっているのだから、自分は報われるべきだ」という念があります。

本当に人に尽くす気持ちであれば、どんなワガママも可愛く思えるでしょうが、残念ながら私にはそんな器はないようです。

 

子を持つ同年代の親はこれをやっているのかと思うと尊敬するのですが、それよりそんな奉仕活動を数億年単位でなされている「神様」という存在は、計り知れないとすら感じます。

特にこの数世紀は、まさに「神を無きもの」にしようとする時代でした。

 

「日月神示」にあるように、わざと信仰を都合に合わせ、祭祀を政治の世界に持ち込み、さらに日本の神ではない神と混同する祀り方をしてきました。

挙句の果てには「科学」という唯物史観一辺倒となり、宗教の名を騙るカルト組織が事件を起こしては世の雰囲気を変え、「神」という概念そのものを噴飯物にしてしまったのです。

 

それでも神々は人間を見捨てず、今日も大地に伊吹を送り、人々の身魂を祓いながら導きを与え続けています。

なぜ、神ならばいつでも人間に「天罰」を与えられるのに、その力を行使せずに、じっと人々の暮らしを眺めておられるのでしょうか。

 

私はやはり神示にあるように、神様たちも今の時代が一つの「通過点」であることをご理解なされているからだと思います。

例えば、「なぜ神が蔑ろにされる時代なのか」「なぜ突然ブルドーザーが社を壊すのか」、神にも理由がわからなければ、誰であろうと怒り狂うはずです。

 

しかし「神」というのは、人間や下級霊の知りえないことを熟知されておられるから「神様」なのであって、誰が何をする理由も少し先のこともわからないようであれば、神様は務まらないでしょう。

つまり今の時代がこうである理由も、次の時代にはどうなるかも見透しておられるからこそ、達観しておられるのだと思います。

 

日月神示には「三千年」というスパンで示されていますが、人間が本来の生き方を忘れ、真の信仰から遠ざかった「闇の世」である現在は「幽界」同様になっていると言われます。

 

さすがに、この表現に心当たりがない人はいないでしょう。

どれだけ重大犯罪を犯しても差し引きで優遇され、権力者は何をやっても「ヤリ得」になる世の中、資本力で制度が動く政府に作られた社会は、全く民衆には優しくありません。

まして「モラル」は消失し、人々は互いに足を引っ張りあうことを「競争」だと思い込んでいます。

 

この高度に経済成長した社会が、本当に平和で生きやすい豊かな社会なら、出生率もどんどん上がり若者の消費も活発で、日本語が話せない外国人を率先して採用しません。

どこか歪で間違った世の中だからこそ「闇の世」なのであり、人心の荒廃と殺伐さはさながら「地獄」に近いでしょう。

 

ただ今の世がそうした状態にあるのは、「大峠」という神の世界も巻き込む時代の転換点なのだとしたら、また印象は変わってきます。

神示には「天界で起きたことは、事象と順序は違えど必ず地上で起こる」とあります。

つまり今の地上の動乱は神の世界に起源があり、同じ流れを踏襲しているだけの可能性があります。

 

おそらく、その問題のタネとなっているのが、天界に属する「幽界」という存在です。
日月神示の解読を進めながら、「真の天照大御神=伊奘冉命」が「黄泉の国(幽界)」を司ることになられた理由が、何となくわかる気がしてきました。

 

「雨の巻・第二帖」には、こうあります。

「天の太神様は慈悲深くて、どんな偉い臣民にも底知れぬし、地の大神様は力あり過ぎて、人民には手に負えん見当取れん、そこで神々様をこの世から追い出して、悪神の云うこと聞く人民ばかりとなっていたのであるぞ」

 

地上に住む人間の側からすれば、自然は恵みをもたらす反面、容赦なく住んでいる環境を削り取ったりします。

そして人間の犯した罪は必ずしも天が裁かず、時に不公平さを感じたりもするでしょう。

 

地上を支配し、秩序を司る伊弉諾命は人間にとって「父神」と呼べる存在ですから、厳格なのはわかります。

しかし「母神」であられる伊奘冉命は、人間どころか多くの神々の母でもあるため、その母性には計り知れない愛があるはずです。

 

「罪」を犯す天の益人らも、「罪」が転じて幽界に身を落とす亡霊たちも、言ってみれば伊奘冉命の「御子」です。

万物の母である伊奘冉命が「母性の神」であられるとすれば、どんな出来損ないの子でも庇う気持ちがあるかもしれません。

 

その子の愚かしさの理由も、罪の理由もわかるからこそ、母神であられる伊奘冉命は自ら「幽界」という闇に身を置かれておられるのではないでしょうか。

そこにあるのは「慈悲」であり「愛情」であり、善と悪が表裏一体であることを熟知しておられる神様だからこそ、「地獄的世界」をずっと優しく見守っておられるのだと思います。

 

けれど、その心は男神であられる伊弉諾命にはわからない感覚かもしれません。

厳格な父であるなら尚更、不出来な子は「けしからん」と思い、勘当すらしたくなるのが世の常ではないでしょうか。

 

まさか、それが理由で「夫婦喧嘩」とは思えませんが、なぜか伊奘冉命は最初にお産みになられた「ヒルコ神」を思い、未だに寄り添っておられる気がするのです。

私にも心当たりがありますが、どんなにダメな子でも自分が腹を痛めて産んだ子は「可愛い」と思うのが母親というものらしいのです。

だから、ずっと伊奘冉命は「ヒルコ神」の存在を忘れず、かの神様の肩を持ち続けている気がしてなりません。

 

なぜ神々が「悪」をお許しになり、その存在を許す懐の深さをお持ちになられているのか、理由が見えてきます。

「悪」というのは「善」を知らず、その価値がわからずに「倒錯」した状態なのです。

 

大抵の場合、人に親切にしたり優しい言葉をかけたりして、良好な関係を築いた方が豊かで平和に暮らせます。

しかし、他人を傷つける「気持ち良さ」を「善」と感じ、闘争を好み欲しい物を奪い自分のものにする、そうして自分が他人を踏み敷く環境を理想とすれば、それは完全なる「倒錯した善」の世界です。

 

世は、この支配の座の奪い合いと言っても過言ではありません。

「善良な世界」を望む人々は調和を理想とし、この地獄的観念を嫌悪し敵対します。

だがそれもまた新たな戦いの火種になり、闘争の連鎖は弱肉強食の世界を逆に根深くしてしまうのです。

 

この「倒錯」は「善」のもたらす社会的合理性を理解できないために起こり、「共存共栄」よりも「我良し」の極限を目指すものです。

そこにあるのは価値観の不一致だけでなく「無神経さ」や「無知」が潜み、その情動を支えるのは「弱さ」や「執着」、間違いに気づけない「愚かさ」があります。

 

ゆえに「悪」とは、どれだけ力を持っていようと「弱者」であり、蒙昧ゆえに「共存共栄」の真価を理解できないのです。

悪のやり方が最初の方だけ順風満帆で、後になればなるほど行き詰まっていくのは、最終的に自分が取れるパイまで潰してしまうからです。

 

この世界を作り給われた母神が、「悪」が悪である理由やその動機、彼らがいずれどうなるかも全て知っておられるとしたら、そんな彼らを見放さない理由も何となくわかる気がします。

「悪」に別の意味での「貧しさ」や「不幸」があるとしたら、むしろ「慈悲」を授けなければいけないのは自分で光を見つけられる天の人々ではなく、自分ではそこに辿り着けない者たちなのかもしれません。

 

霊界の悪人たちに対して、神々がそういう眼差しを向けているのだとしたら、地上に生きる私たちに対してはどうでしょうか。

 

私たち人間は、たかだか数十年の命で全てを経験し何もかも手に入れようとしますが、大抵そう上手くはいきません。

一時は成功しても、死ぬまでピークの状態を維持し続けることはできず、一旦落ちれば二度と取り戻すことはないでしょう。

だから、どこかの時点で「次の人生こそ、またチャレンジして頑張ろう」となるはずです。

 

そして、人間の悪癖や良くない性質というのは、一度や二度の輪廻では抜けきらず、何世代もかけてようやくマシになる程度のもので、まして一生かけても難しいことが殆どです。

そんな私たちが行う「しょうもない行動」に対して、とてつもない数の輪廻転生をご覧になられている神々が、いちいち目くじらをお立てになるでしょうか。

 

例えば、家で飼っている金魚のフンの長さを覚えている人がいないように、そんなものは「ないに等しい」くらい微々たるものです。
神々からすればもっと大事な、記録につけておかなければならないものがあるからこそ、些末な行動にいちいち口出しをなさらないのだと思います。

 

仮に私たち人間が「金魚」だとしたら、飼い主は金魚の健康状態や快適さが気がかりになるはずです。

つまり、神様は人間の「生き方」とか「内面」をご覧になられるのであって、一挙手一投足を注視するのでも視点が違うのです。

 

その気の遠くなるような緻密な時間軸の出来事を、無限に近い時をかけてご覧になられる神という存在は、やはり人間とは全てにおいてスケールが異なるでしょう。

だからこそ、一度きりの人生で「やらかした」人間も、数十世代、数百世代かけて少しずつ「マシ」になっていくレベルなら、おおよそ神からどう見えるかも想像できます。

 

つまりは、期待されていない訳ではないけれど「その程度だと思われている」のです。

ただし、神々からも標準より少しできる人間が見れば「おっ」と思うこともあるでしょう。

それが歴史上の偉人たちなのかもしれませんが、どれほど人徳があろうと神の足元には及ばず、どんな傑物であろうと「ヒトに毛の生えた程度」に見えるに違いありません。

 

けれども、もの凄く長い目で見れば、人間はいずれ神に等しいくらいに魂を磨き、高度な霊性を持つ存在になっていくのだと思います。

神々はそれがわかるからこそ「桃栗三年柿八年」の気持ちで、末永く人間の一生を見守っておられるのではないでしょうか。

 

私は少し人に親切にしてあげたくらいで、「何の見返りもないのか」とガッカリするくらいには浅ましい人間です。

しかし神々は全く対価など求めずに、人間に恵みを与え一生を養い続けるのです。

人間に「神などいない」と足蹴にされ、神の授ける賜物を自分の所有物にして富を稼ごうと、ましてドブに捨て無駄にしようと、神々はそれすらも許されます。

 

神とは、宇宙に注ぐ「愛」そのものです。

私たちはそれを受け取ろうにも、受け取れないほど小さな器しか持っていないため、神の偉大さを理解できません。

神は人間に「親」のような愛情を注ぐと共に、将来への期待と良い成長を案じ、祈り続けるのでしょう。

 

神の愛が「祈り」という形で発露するからこそ、神は人間に見返りを求めず、ひたすらに与え続けることができるのかもしれません。

それは「祈り」こそ「本心」であり、「心そのもの」であるがゆえに決して違えることのない、「誠」と言えるのではないでしょうか。

 

神話では伊弉諾命は、お独りで世をお造りになられる厳しさを知り、黄泉の国に赴きますが訳あって伊奘冉命と仲違いをされます。

かつて愛した伴侶と別れ、手下の兵たちに追い立てられ、必死で地上に戻って来られた時、伊弉諾命はボロボロでした。

 

そこで筑紫の阿波岐原で禊をなさる時、速川の瀬の中で伊弉諾命は涙を流されます。

その時、左目からは「天照大御神」が、右目から「月読命」が、鼻からは「素戔嗚命」がご誕生になられました。

「太陽」と「月」と「滄海原」を司る三貴子を自らお産みになられて、それぞれの世界の司宰を命じます。

 

これが我が国の始まりの始まりとなるわけですが、「日本」とは国産みをなされた二柱の別離という不幸、そしてその悲しみから立ち上がる決意から生まれた国だということを、私たちは肝に銘じなければなりません。

 

伊奘冉命は天の益人らを「一日千人殺す」と宣言しましたが、伊弉諾命は「一日千五百人分の産屋を建てる」と申されました。

この時の伊弉諾命の心持ちを、私たち日本人は今こそ受け継ぐべきではないでしょうか。

 

私は日々このブログを更新し続けていますが、さすがに見返りを期待する時はあります。

ただ、どれだけ得るものがなくても更新を続ける理由は、このブログが私の「祈り」そのものだからです。

 

少なくとも「やってあげている」という頭では、三日も持たなかったでしょう。

このペースで一年続けてきて、未だに「まだ書いていない」ことの方が多いくらい、世に言いたいことは沢山あります。

「世を良くしたい」という願いがここにあり、その願いが実際に叶うかどうかではなく、ただの1%であろうと世を変えられるなら、そんな「祈り」がここにあります。

 

だから私には神様のお気持ち、「御祖」であられる伊弉諾命の心情がわかる気がします。

奇しくも岡本天明氏に「日月神示」を授けた「天之日月神」は、まさに自ら「天日月大神」に預かりなられる「伊弉諾命」ご自身ではないかと私は思います。

 

「そんな偉い神様が」というところに妙味があるのが「日月神示」であり、そう考えると逆に説明のつくことが多いように思います。

だとしたら、私がこの「招神万来」で「日月神示」を扱うようになった理由も、何となくわかる気がします。

 

もう一度言いますが、日本は伊弉諾命の「涙」から始まりました。

「やれやれ酷い目に遭った」と、これまでの「闇の世」を振り返って悲しくなることがあるとしたら、その気持ちになるのは「これから」が見えているからです。

そして今、日本国民の流す「涙」から新たに生まれ出る神がいるのではないか、私はそこに一縷の望みを賭けています。

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2 件のコメント

肥の国の住人 より:
2025.11.24 19:17

楽太郎様

素戔嗚尊は航海に必須の星(星座)を司る神でもあります。
ですので、天照大神が日、月読尊が月、素戔嗚尊が星をシンボルとしています。
ここで北部九州に残る三貴子の痕跡について考察します。
先ず吉野ヶ里遺跡の近くに日の隈という地名があります。次に福岡空港の近くに月隈という地名があります。
私はそれぞれ天照大神、月読尊の在所だっただと推測しています。
どうもこの隈というのは後に組という言葉の語源となったようなのです。
つまり、日の組・月組といえば現代人でも理解しやすい。
でも星隈(星組)が見つからない。
ここで素戔嗚尊は追放された事を思い出すべきです。
福岡市の早良区に干隈(ほしぐま)という地名があります。
この場所こそが素戔嗚尊の在所つまり星隈だったのではないでしょうか。
つまり文字通り干された。
それに加えて早良は(サワラ)と発音するので、(スサワラ)のスが脱落した
本来は星原を意味する地名ではなかったかと思います。
記紀は九州の実際の出来事を荒唐無稽な神話に押し込めた気がしてなりません。

rakutaro より:
2025.11.25 10:17

肥の国の住人さん

コメントありがとうございます。
素戔嗚命の象徴が「星」であり、「干された」というワードで連想するのは、「葦原中国平定」においてでは、経津主神と武甕槌命、ある説では倭文神と建葉槌命が高天原から遣わされ「まつろわぬ神」として誅殺、あるいは懐柔された「天香香背男命」、別名「天津甕星命」です。
天津甕星命を祀る神社として茨城県日立市の「大甕神社」がありますが、ここは経津主神と武甕槌命を主祭神とする「鹿島神宮」から70キロほどしか離れていません。
また、大甕神社の創建は「紀元前660年」、つまり「日本建国」に遡ると言われています。

かつて「まつろわぬ民」の中には「星神」を信仰していた部族がいたらしく、「天香香背男命」は「金星」や「北極星」の象徴とも言われますが、日本神話と「昴」の関係を研究している方もおられるくらい、実は「星」というのは日本神話における「影のテーマ」と考えられます。

先の日立市の「天津甕星伝説」を調べると、古代の神奈川県から茨城県辺りにかけては海、あるいは湿地帯で、古代関東は船舶で行き来する地域でおそらく地方豪族は「海洋民族」だったのではないかと思います。
それゆえ、日立市、香取あたりに居住していた豪族がヤマト王権の「葦原中国平定」に最後まで抵抗したのは史実として認識できるかもしれません。

この神話にはどうやら続きがあるようで、長野県の諏訪大社は、この平定から落ち延びた「建御名方神」がお祀りされています。
かの神様は「天香香背男命」ご自身とも御子神ともされますが、史実で考えると香取にいた一族と繋がっている気がします。

海洋民族が「星」を目印にして航海することを考えれば、夜に星だけでなく「月」も見ていたのは十分考えられますし、そもそも「月と星」はセットだったのかもしれません。
奇しくも、「月の神様」が日本神話において影が薄いのは否めないのですが、「星の神」を素戔嗚命として考えると、殆ど日本神話の主軸とも考えられます。

だから、実際のところ「素戔嗚命」の権威性を上書きする目的が「記紀」にあったと考えるのは、わりかし妥当ではないかと思います。

[追記]
天孫降臨の地、高千穂、五瀬のあたりには「興梠(こうろぎ)」という苗字の方が多いそうです。
声優の「こおろぎさとみ」さんは東京都出身ですが、おそらく苗字の発祥はこの地域です。

この「こうろぎ」は「神呂木(かみろぎ」の転訛で、元は「神漏岐」であり、「神の宿る所」だったのだと思います。
まさに「高千穂」に相応しいと思うのですが、やはり九州の圧倒的な権威性は中央政権にとっては頭痛の種で、それは飛鳥時代、蘇我氏と物部、中臣氏の対立あたりで顕在化したように思います。

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