楽太郎です。
米国とイスラエルによるイランへの軍事攻撃が始まって6日、原油価格の高騰による更なるインフレが懸念されています。
報道では、イランの戦艦が米潜水艦による攻撃を受け甚大な被害を被っています。
またイラン側のミサイルが周辺国で相次いで撃墜され、まるでイランが一方的な損害を出している印象がありますが、これはマスコミに米国側のデメリットを覆い隠そうとする意図があるように思います。
昨年6月にイスラエルとイランが一時戦争状態に陥った「12日間戦争(立ち上がるライオン作戦)」では、イスラエルの虎の子であるハイファのエネルギー関連施設、ワイズマン生化学研究所、テルアビブの高層ビルなど、爆撃により多大な被害が出ていたことはあまり知られていません。
それどころか、当初のイラン側の不良在庫のミサイルのみを撃ち放した飽和攻撃によって、イスラエル国内の防空システムは殆ど消耗しきったと見られています。
また、アメリカの「THAAD(高々度迎撃ミサイルシステム)」の在庫のうち、4分の1をイスラエル防衛で消費したと言われています。
しかし、イランは国内に780台近い弾道ミサイル発射設備を有することから、おそらくイランが保有するミサイルの数は数千発と考えられます。
この戦争が膠着状態に陥るほど、イスラエルと米国の対空防衛力は大幅に削られていき、最終的には防空能力にかなりの差がついてしまうのではないでしょうか。
どうもイランはそれを狙っている可能性があり、トランプ大統領が思うよりイランは長期戦に持ち込むつもりかもしれません。
イランは、これを機にイスラエルを本気で叩き潰すチャンスだと捉えていて、なぜならイスラエルの軍事力の脆弱性が昨年の「12日間戦争」でほぼ明らかとなり、今回はその「代理」としてアメリカがしゃしゃり出てきているわけですが、それでも陸上作戦ではアメリカに戦闘機とミサイルを中心とした空軍力しかなく、戦争継続能力はイランの方が優位と踏んでいる可能性は高いです。
イスラエルは、昨年の戦争時の民間被害を統計として出しておらず、あれだけの被害状況にも関わらず戦死者は「戦闘員」30名足らずとしているのはどう考えても不自然です。
アメリカもイスラエルも「建前」を大事にする国ですから、自国に不利な情報を公表するほどお人好しではないでしょう。
「悪の枢軸」であるイランが一方的にやられているだけ、戦争が終われば「世界平和」となり、めでたしめでたし、というアメリカ側のシナリオには懐疑的になる必要があり、抑えた表現が多いイランの公式報道から「韜晦(とうかい※わざと身分を隠して振る舞うこと)」を読み取る方が賢明でしょう。
というのも、イランの保有する弾道ミサイルは射程距離1000から2500キロの長距離のものが多く、ロシアが一時ウクライナ侵攻で発射した「オレシュク」という試作型の最新弾道ミサイルの同型を既に開発し、去年の戦争時に実用化して戦果を上げているからです。
「極超音速弾道ミサイル」と呼ばれるこのタイプは米国にも開発できておらず、現時点で既存のあらゆる防空システムを貫通すると言われています。
私は、イランが「勝機」を見込んで、アメリカとイスラエルの挑発に「乗った」のだと考えています。
アメリカとイスラエルは国運を左右する戦争になる可能性があり、この戦争を楽観視しない方が良いかもしれませんが、日本としては「物価高」との戦いになるため、あまり深刻に捉える必要もないでしょう。
さて、冒頭から長くなって恐縮ですが、今回のテーマは「改心」についてです。
先日3月3日の満月を機に、神々が「改心」を人々に本格的に働きかけていく、と私は述べてきました。
「改心」と急に言われて、「自分は何か悪いことをしているのだろうか」と大抵の人は思うでしょう。
それどころか「何で自分が反省しなくちゃいけないんだ」と反発する人もいるはずです。
この「自分は何に悪いことはしていない」という「無自覚」こそ、実は神が「気づき」を与えたい部分なのです。
では、私たちが知らずのうちに犯す「過ち」がどういうもので、それを神々はどう気づかせたいのでしょうか。
大抵の人は、例えば身の回りや世の中が良くないことに対して、自分こそ「被害者」であり、この世のどこかに「原因」があって、それが世の中を悪くしていると考えます。
まあ、日本の長期不況も「日銀」と政治家や官僚や、既得権者などが実質的にもたらしたようなもので、その下の一般国民にはどうしようもない、というのも一理あります。
ただ「他責」をしても問題解決にならないばかりか、「自分以外の何かのせいにする」ことで、自分自身に変えるべき部分があることに気づけないこともあるのです。
そこに「我」というものがあり、「欲」があり考え方の「癖」があります。
神々が「改心」と言う時、その観点は表層的な事柄にあるのではありません。
もっと深く、見つけづらく掴みにくい「本質的」な部分で、私たちはこれまでの生き方を見つめ直すよう、神々から促されているように思います。
そもそも、「善悪」とは何でしょうか。
「法律に違反していなければ何をしても良い」と今の人々は考えますし、「善悪の基準は人それぞれ」と大抵の人は考えます。
果たして、そうでしょうか。
例えば、店に入って勝手に商品を取っていくのを「よい」と言う国はありませんし、急に知らない人に蹴り飛ばされて「ありがとう」と返す文化もありません。
自分にとって「良いこと」は「善」であり、「悪いこと」は「悪」ですが、人類という括りで見れば「良いこと」をわざと「悪」と言うことは殆どないように思えます。
その反対にしてもそうで、とりあえず社会一般にとって双方に不利なことは「悪」、互いの利益を膨らませるようなことは「善」と呼ぶのでしょう。
かと言って、「法律に書いていないことは何をしても良い」と考え、誰かに一方的に不利益を与えることを「悪ではない」とは言い切れません。
誰か一方が得をし、片方が全く謂れのない不利益を被る、この「不公平さ」を解消させるために「法律」というものがあるからです。
だから、そもそも「善悪など人それぞれ」と言う時点で、社会的な「善悪」の通念が欠落しているのです。
それが「当たり前」になりすぎだからこそ、今の世は「我良し」になってしまって、自分が得をすれば「善」だけど、自分に不利益をもたらしうる兆候全てが「悪」という認識に置き換わっているように思えます。
こう言っても、これほど極端な考え方は普通しないと思われるでしょうし、されどこうした感覚は多かれ少なかれ誰しも持っているのではないでしょうか。
例えば、レストランでメニューを注文しすぎて、食べきれずお残しする時に、誰かが「食べ物は残さず食べなきゃダメだ」と忠告しに来たら、「自分が金を払って注文したのだから、つべこべ言われる筋合いはない」と殆どの人が思うはずです。
けれど、自分の子が食べ物で遊んでたり料理を残そうとする時には、親として「食べ物は大事にしなさい」と教えるでしょう。
「善悪」という基準で見たら、どちらも「食べ物を粗末にするのは良くない」という同じ現象なのに、「アレは良くてコレはダメ」というのもおかしな話です。
「善悪」というのは、自分の置かれた立場でコロコロ変わるものではないからこそ、社会一般で「ルール」として通用するのです。
しかし、近年はこの「ルール」というものが一人歩きして、誰かが考えるタイプの「方便」になってしまいました。
「こうするのがマナーだ」と一方的に言われ、それに従わなければ「世間知らず」とされ下に見られる、この不文律を履修するのが「大人になる」ということであり、私たちはこうした「型」に嵌められてこそ「一人前」とされてきました。
しかし、これは「方便」の上での「善悪」であって、本質的なものではないでしょう。
人々はこれを「コンプライアンス」と呼びますが、それが道徳観や「モラル」に等しい観念とは言い切れないはずです。
今は人々が形さえマナーを守っていれば「善良」とされるので、この不文律にない「善悪」の価値観は、世の方便によって上書きされてしまうのです。
そして、この「方便」を使う上で便利なのが「ビジネス」の世界です。
人々は「お金」を得ることで欲しいものを買い、食べたいものを食べて好きなところに住むことができるため、これを「幸福」と言うのであれば、「お金を稼ぐ」ことは幸福を手にするための「善業」なのです。
「経済」というのは、「お金があれば幸せになれる」という暗黙の了解の上に成り立っています。
当然、それ自体に「善悪」はないのですが、「金=善」という価値観がズレ始めてしまうと、「金儲けは人が幸せになる最善の手段だから、幸せになるためならどんな金儲けでも許されるべき」と解釈する者が現れます。
確かに「幸福=善」かもしれませんが、「金=幸福=善」となった時、金儲けのためなら何をしても良いという風潮になります。
そこに「お互い」や「全体」を考えた「善悪」は存在せず、せいぜい自分の身の回りの「善悪」が全てになり、これを咎める者があれば「法律(という必要最小限のルール)では悪でないのだから、善である」という強弁が通用してしまうのです。
そして、私たちは暗黙のうちに「お金は必要なものだから、どんな手を使っても絶対に手に入れるべき」と考えます。
それ自体、予め決められた社会の仕組みなのである程度は仕方ないのですが、私たちは「お金を稼ぐためには多少どうかと思うことでも、黙ってせざるを得ない」ことには、わりと自覚できていないのです。
実は、神々が「反省」を促したいのはその部分であり、「人間」と「労働」、「お金」と「人生」との付き合い方について、人々に見直すよう望んでおられるのだと思います。
この時期、特に我が国での「30年」以上の経済低迷と社会の荒廃は、顕著に「お金と生き方」の問題として現象化していると言っても過言ではないでしょう。
特に株式の時価総額が盛り上がるほど膨らむバブル景気と、その内部に孕む利権や社会構造の歪みは、このテーマが最も現れている部分なのではないでしょうか。
私たちが今の株式市場の肥大化と金融の在り方をどう捉え、「力」ある者なら何でも許される世をどう考えるかに、神々の「試し」がある気がしてなりません。
この現状を見て、「勝ち組になれば問題ない、負け組になるのは自分のせい」と考えるのか、「そんな考えや仕組みで世の中は続いていかない」と考えるのか、その判断を問われるような事態が起こり続けています。
そして前者が「我良し」の考えであり、その仕組みで成り立つ今の世の中を、神々は刷新しようとなさっているのです。
「自分さえ、自分の身の回りさえ良ければ問題ない」という自己中心的な考えは、これから神々が作り出そうとしている「ミロクの世」に相応しくないでしょう。
今日のように「我良し」の思想が栄え、一握りの富裕層が大多数の貧民を組み敷く世となった現代は、世に多少の「悪」が必要とは言え、明らかに持続不可能な社会を形成してしまっています。
仮にこれが神の作り給いし世の形としても、いずれは滅ぶ文明ではいけないでしょう。
ここで人々が、自分のためを思うだけでなく人のことをきちんと考え、その上で実践に移せるかを神々がご覧になられているのだと思います。
私たち一人ひとりが無自覚に、この世の仕組みの一部となり「当事者」であったことは、神々は決してそれを「罪」と考えておられるのではなく、その行為を自覚した上で自分の判断を少しずつ変えていけるかを問うておられるように感じます。
今の世の中にしても、どう考えても今日明日でガラッと変わるようなものではないことは確かです。
しかし、少しずつ変わっていく世界に対して、自分に変わっていこうとする気持ちがあるかどうかが重要なのだと思います。
私たちは、日月神示にも述べられているように「罪の子」ではありません。
ユダヤ・キリスト教では人間は「原罪」を負った存在ですが、神界に「戒律」は存在せず、神道で言えば私たちは「神の子」であり、大神の「分御魂(わけみたま)」を授かった神の一柱です。
だからこそ、どこまでも「自由」で、あらゆる幸福の権利を保証され、それぞれの意思が尊重されなくてはなりません。
私たちは、今「戦争」をしています。
これは目に見えない戦争であり、トランプ関税に端を発する「経済戦争」や「神と悪魔の戦争」と言いたいのではありません。
「我」と「私」の戦いであり、「自分さえ良ければ良い」という考えと「人と共に分かち合おう」とする考えとの「戦争」です。
「自分」を表現する時、「我」では「自己中心」となり、「私」は「自他との境界」を意味します。
この境目を巡る戦争であり、これは自分自身の心に起こり、人それぞれの心の戦いが今の世に起こる騒乱に繋がっているのです。
この「心」で起こる「戦(いくさ)」こそ、神の申される「祓い清め」であり、区別することで両者は「和す」のです。
これは単純なことで、「私は私、他人は他人」であり、「良いものは良い、悪いものは悪い」という考え方に過ぎません。
「我」では自己中心となり、「私」は「自分」でありながら他人を認めて分かち合える、実は「無我」でも「私」ではあり続けられるのだけれど、「我」は強すぎると「私」に置き換わってしまうのです。
世の「善悪」に対して「我」を軸として見てしまうことで、全体として何が良くて何が悪いか、その判断が次第にボヤけていきます。
私たちはここで「悪いものは悪い」と言えず、世の方便に流されて判断を有耶無耶にしてきたからこそ、あべこべが罷り通る世の中にしてしまったのではないでしょうか。
この葛藤を「戦」と捉えたとして、私たちはどう立ち向かえば良いのか、その答えはやはり「日月神示」にあります。
「春の巻・第四十二帖」から少し長いのですが、引用します。
「新しき御代が到来しても戦は無くならん、戦も歩みぞ、弥栄ぞ、じゃと申して、今のような外道の戦でないぞ、人殺しや生命殺すような戦は外道、やればやる程激しくなるぞ、正道の戦は人を生かす戦、やればやる程進むのじゃ」
「今の人民は、戦と申せば人の殺し合いと早合点するが、それは外道の戦、天国への戦もあるぞ、幽界への戦もあるぞ、人民の言う今の戦、今の武器は人殺す外道の道、それではならんのう、外道は無いのであるから外道なくして下されよ、外道抱き参らせて正道に引き入れて下されよ、外道の武器を捨てよ、外道の武器生かして、活かして命を生かす弥栄の武器とせよ」
この戦に用いるべき「武器」とは、「念」であると天之日月神様は仰います。
「春の巻・第四十七帖」からです。
「念が新しき武器であるぞ、それでは人民まわりくどいと申すであろうなれど、もの事は順と時あるぞ、元のキから改めて下されよ、尊き御役」
「同・第四十六帖」には、こうあります。
「今の武器は幽界の裏打ちがあるぞ、神界の裏打ちある武器でなくてはならん、まことの武器ぞ、ヒックリであるぞ、念からつくり出せよ、その念のもとをつくれば神から力を与えるから、この世の力と現われるぞ、念の凸凹から出た幽界を抱き参らせねばならんのぞ、中々の御苦労であるなれど、幽界を神界の一部に、力にまで引き寄せねばならん」
「念」の在り方について、こうも述べられています。
「思想と申すのは、広い意味で太神から出ているのではあるが、幽界からの力が強く加わっているのじゃ、念と申すのは神界からの直々であるぞ、悪の気を断たねばネンとはならんぞ(同・四十帖)」
「カタは形をもたねばならん、念は語ることによって現われるのじゃ、・が無なればなる程、〇は有となるのであるぞ、このことよく分かって下されよ、肚はらの中のゴモク(汚いもの)捨てるとよく分かる(同・第十一帖)」
「念を武器にする」とは、大日本帝国が第二次世界大戦時に日本中の宗教者を集めて、アメリカのルーズベルト大統領を呪殺しようとしたようなものではありません。
私が思うに、武器になり得る「念」とは「我良し」で発せられる、人を非難するような否定的な「言葉」に対して、「善き言葉」を返していくことではないでしょうか。
それは暗く陰湿な「悪意」に対して「希望」で立ち向かうことであり、前者が「幽界の武器」とすれば、「神界の裏打ちある武器」とは「光」であり、人々に希望や勇気を与える言葉です。
「希望の念」こそ、私たちが手にして暴力に立ち向かうべき「人を生かす武器」なのだと思います。
今、私たちの「日本」には、これから悪くなる(悪くなって欲しい)という言説がメディアでも SNSでも蔓延っています。
こうした中で「希望」の言葉を信じ、前向きな言葉を使って善く生きようとすることが、私たちなりの「戦い」であり、悪に「立ち向かう」ことになるのではないでしょうか。
そして、その希望が「悪意」に打ち勝った時、今の体制は目に見える形で変わっていくような気がします。
その時、「悪」は自らを顧みる機会を得て、自分の行いが「悪の御用」であったと思い知るでしょう。
しかし新たな時代において、彼らの「悪」は「許されるべき悪」であり、彼らが心を入れ替えた時に悪は「抱き参らされる」のです。
かと言って、私たちが完全に「善」の側であり、彼らが一方的な「悪」という「勧善懲悪」の関係であるはずがありません。
私たちにも迷惑をかける部分は多少なりともあり、それが「お互い様」であることを分かち合った時、お互いの立場を認め合うから共存することができるのです。
お互いを許し合う中で、その空間に生まれる優しさと反省の気持ちこそが「弥栄」の礎になるのだと思います。
これまで3000年続いた「闇の世」にあって、誰もが傷だらけになった時代が終わり、人々の心に初めて安心が生まれる時、私たちはようやく自分たちの心を癒すことができるのでしょう。
その「優しさの応酬」が始まる時、ようやく世の中が良い循環に入るのだと思います。
それこそ、未来永劫続く平和の時代の始まりであり、これが「ミロクの世」を意味するのかもしれません。
私たちは、そんな誰もが「嬉し嬉し」となる世を迎えるために、この大峠を乗り越えなければならないのです。
最後に、「春の巻・第四十二帖」を引用して終わりにしたいと思います。
「新しき霊界は神と人と共でつくり出されるのぞ、それは大いなる喜びであるからぞ、神のみ旨であるぞ、新しき世は開けているぞ、夜が明ければ闇は無くなるぞ、新しき型はこの中からぞ、日本からぞ、日本良くならねば世界は良くならん、変えられるでないか」
この新月から始まる「改心」を促すメッセージとは、私たちが自分の罪と向き合うというよりも、「変えられる」という事実に気づくことなのかもしれません。

