楽太郎です。
先月あたりから、「多くの人が大峠を登り始めたようだ」という話をしています。
私の身近なところで、不可解な「怪我」や「病気」を耳にする機会が増えました。
これを確証バイアスとか無意識の「チェリーピッキング」である可能性も否定できないのですが、それにしては私の狭い観測範囲での不遇発生率が高すぎる気がします。
私の経験上、「大峠」の間には「巡り」いわゆる「負のカルマ」が降りかかってきます。
「神の道に入ると、始めは良くないことが起こる」と「日月神示内」ではっきり明記されているくらいですから、やはり「岩戸開き」に「借銭の返済」は欠かすことのできないファクターのようです。
おそらく「大峠」に関して、勘の鋭い方は2020年ごろから既に渡り始めています。
ただ最近、峠を登り始めた人も「日月神示」と出会っている可能性は低いと思います。
なぜ神示に関係なく「巡り」がやってくるかと言えば、「大峠」の本質が「禊ぎ」であるからではないでしょうか。
「地の岩戸開き」の後に御降臨なされる「天日月大神」とは、私の神示解釈では「伊弉諾命」です。
日本神話では一般的に、伊弉諾命は共に国産みをなされた伊奘冉命と黄泉の国で仲違いをした後、黄泉比良坂に「千曳の岩」を置き阿波岐原で「潔斎」をします。
この「黄泉比良坂」は洞窟のような印象もあるのですが、もしかすると「峠」のような「境」の道なのかもしれません。
伊弉諾命はそこで黄泉醜女の放つ亡者の群れに襲われながら、命からがら逃げてきます。
そこで受けた「穢れ」を阿波岐原で禊いだ際に、三貴子を始めとする日本の重要な神々をお産みになられました。
私は「日月神示」を降ろされた「天日月神」は伊弉諾命ご自身であると考えていて、すなわち伊弉諾命が世界再編の要と説く「大峠」とは、「黄泉比良坂」に準えているのではないかと思います。
ゆえに、今度は天と地を遮る「千曳の岩」を取り除くと語られているため、やはり「地の岩戸」は黄泉比良坂にあると考えて間違いないでしょう。
伊弉諾命が落ち延びた「葦原中津国」が今度は「黄泉の国」同然になってしまったため、むしろ「岩戸」の向こうにある「高天原」は清浄な神の世であり、穢れた身では渡ることができないという理屈は成立します。
「黄泉の国」同然の現界で受けた「罪穢れ」は、いずれ伊弉諾命のように禊がなければなりません。
神話の順序とは付合しない部分もありますが、「岩戸開き」とは伊弉諾命が閉じた「千曳の岩」を開くことでもあるため、先に阿波岐原で「禊ぎ」をしてから「千曳の岩」を開くのは話の筋としては矛盾しません。
そして「天界」は現在、岩戸が開かれた「弥栄の世」となっているはずで、第二次世界大戦直後の80年前に実現しているため、今度は「地の岩戸開き」を行わなければならないという話ではないでしょうか。
ゆえに「大峠」の最中に「禊ぎ」を行い、「巡り」を果たした者から「岩戸」を開くという順序は理に叶っています。
ただし、大峠の最中に「借銭」を全て返済したからと言って、即「神人」になるという訳ではないかもしれません。
「岩戸開き」にはどうしても「一二三(ひふみ)」が必要で、その段階を順序正しく通るから「三四五(みよいづ)」の仕組みに辿り着くことができます。
岩戸開きは「四」から「五」の間にあり、「五」は「五六七(ミロク)」に繋がります。
この手順を踏むことで「神の道」が開けるので、当てずっぽうでは岩戸まで辿り着くことすら困難なはずです。
だからこそ神示では「神示(ふで)を読め」と口酸っぱく語られるわけですし、私もこうして「ひふみ」を伝えていたりします。
だから「日月神示」は「岩戸開き」と「大峠」のマニュアルであって、その取り扱い説明書に従わない限りは間違った手順を踏み続けることになりかねないはずです。
ただ私は個人的に、霊的なセンスのある人はこの数年で神示に触れないまま「岩戸開き」を行い、自覚なく「神人」になっている方がおられるのではないかと思っています。
この「神人」というのは、神様と自分の心の深いところで「・(キ)」が繋がっているだけで成り立つので、信仰対象も思想信条も大して問われないと考えています。
つまりは「我よし」という考えを捨て、利他でありながら自分を大事にして、「悪」を憎まず共存共栄の意思を実践する人です。
それが「神」の願いであり本心であるからこそ、同じ感性の人は神様と心を共有することができるのです。
こう説明すると結構単純なことなのですが、それでも「我よし」に染まっている現代人には極めて難しいようです。
大抵の人々は「お金」が欲しくて毎日働いていますし、特に今は自分一人生きるだけで大変な時代であり、お金を稼ぐには多少アコギでもなければロクに食えないでしょう。
これまで「競争社会」という弱肉強食の世界に放り込まれていた私たちは、多少なりとも「他人」を蹴落とそうという考え方が染みついています。
そんな中で「目に見えないもの」を大事にして「神様」を信じ、自制心を持ちながら実直に生きようとはなかなか思えません。
そこであえて「損」な生き方をする人に神は祝福を与えるのですが、それをわかる人がごく僅かであることは言うまでもありません。
冒頭の話に戻りますが、それでも人々も知ってかしらずか「大峠」を登り始めました。
つまりは多くの人々にとって「禊ぎ」が始まったのです。
私の観測では「個の大峠」の期間は一般的に3年から7年で、人によって長さも険しさも違うはずです。
けれど、最終的には誰もが「本来の自分」に辿り着き、それぞれが納得のできる生き方を見つけ、落とし所のある生活に行き着くのだろうと思います。
これに大して年齢は関係なく、ご高齢でも「大峠」を渡りきる気合いの入った方もおられるでしょうし、そうした方はおそらく長生きされると思います。
若者でも「獣」の道に落ちて、何ともならなくなる人もいるでしょう。
そこら辺は個人の選択であり「身魂」の程度によって決まったことなので、良し悪しではないと申し添えておきます。
ところで、「地の岩戸開き」とは地球に生きる人類が「弥栄」の時代を迎えるために必要な「通過儀礼」であることは言うまでもありませんが、世界の人々がもれなく神の「臣民」であれば、世界の国々も「神国」です。
その「神の国の中の神の国」こそ我が「日本」なのですが、それゆえに「雛形」と言われます。
「地の岩戸開き」が日本人主導で行われる理由は、「天日月大神」は日本の国造りを行った「伊弉諾命」に縁があり、かの神話は「日本語」で語られ、その祭祀も我が国の言語や文化を背景としています。
だから、キリスト教圏や他の国の方々が「岩戸開き」の概念を理解するより、一手も二手も容易いのです。
日本が先んじて「国家の大峠」を終えることで、他の国々が我が国を手本として続くことでしょう。
この「国家の岩戸開き」のために、私たちはこの30年「禊ぎ」をしてきたとも言えます。
実際は政府日銀が「円キャリー」を通して米国始め海外に国富を譲渡する仕組みを支えてきただけなのですが、その経済不況は霊的に言っても「借銭の返済」であったでしょう。
私がよく参考にするエコノミストの増田悦佐氏は、経済的データを精密に分析した上で「日本の失われた30年は円高を容認し経済好調であれば、骨の髄まで米中利権国家にタカられ、より国家・経済の腐敗が進行していた可能性があり、その危険を避けるための意図的な“韜晦(とうかい:身分を慎んで隠すこと)”だった」と述べています。
また、経済成長を終えた先進国が迎える製造業と金融主導型経済の衰退という「宿命」を甘んじて受け入れた日本は、「世紀末」を正しく迎え文明としての転換をスムーズに果たしたと評価しています。
この説に関して私は反証する能力を持たないのですが、もしこの30年が日本が過去三千年のカルマを「禊ぐ」期間であったなら、「借銭の返済」によって巡りが果たされ、そのまま「岩戸開き」を行っても差し支えない状態となるはずです。
そして現実的に、経済の面で後期資本主義からの移行を終えつつある我が国は、ドル覇権崩壊後の世界経済において、一歩先んじた状態にあることは間違いないでしょう。
ゆえに、日本人の間では悪名高い政府日銀の「売国的円安政策」が、むしろ国家のカルマを清算する役割を果たしたと考えれば、悪どい官僚機構も「悪の御役」だったと言えるかもしれません。
そして「大峠」を終えた後の日本は、何だかんだで世界で唯一「マシな状態の先進国」になり、国際的な地位は一層高まるでしょう。
また戦後GHQが恣意的に作成した「日本国憲法」も見直す機会を得て、天皇制や六法の成り立ちまで検討され始めるかもしれません。
しかし、日本社会の雁字搦め的な規制や法制度は、あまりに堅固なお役所仕事で成り立っており、国家権力が健在なうちは窮屈な仕組みが続く可能性は多いにあります。
私は学閥や産業団体と絡んだ「官僚機構」が日本の「癌」だと認識してますし、この利権や癒着が存在する限りは国家の腐敗を完全に取り除くことは困難だと思います。
それでも、いつかはこの仕組みも変わるから「日本」が立ち直ることになっているはずで、さすがに人智の力が及ぶようには思えませんが、そこら辺は神様たちが一番考えておられる部分ではないでしょうか。
これから先、天日月大神の統治による「ミロクの世」が到来するとして、何が最も変わるかと言えば、私は「因果律」だと思います。
これまでの世ではやり方を選ばない悪人ほど力を持ち、資本力や武力、影響力などがあるからこそ、人間社会では法や告発を物理的に抑え込み、少なくとも生きている間は悠然と逃げきることができました。
それは「悪神」の力が強大であったことにも関連があり、天の因果律も地上では発動しにくい状態であったのだと思います。
しかし神世となり、天の光が地上にくまなく注ぐ世となれば、悪人も「自因自果」という宇宙法則がもれなく適用されることになり、すぐに悪事が暴かれることで悪業も栄えなくなるはずです。
天の意志が地上に反映しやすくなる世界は、やはりこれまでの世界のルールとは根本的に異なるでしょう。
霊的に見て、因果律の発動速度も次第に早くなっているのを感じますし、すでに闇が逃げ延びられる環境ではなくなっているように思えます。
おそらく「アセンション(次元上昇)」とは、地上の因果律を変更する上で、物質次元の波長を一気に引き上げることで霊的干渉、神々の高い周波数帯の調和力を高めるために必要な施策だったのかもしれません。
この数十年はまさに世界は「大峠」のために動いていたと言え、その中心に我が国「日本」があったと考えて間違いないでしょう。
「大峠」を説明する上で「下つ巻・第二帖」には重要な文言があります。
「岩戸開くと申してもそれぞれの岩戸あるぞ、大工は大工の岩戸、左官は左官の岩戸と、それぞれの岩戸あるから、それぞれ身魂相当の岩戸開いてくれよ」
これが「個の岩戸」を指すとも言えるのですが、大工や左官業などの「業界の岩戸」や「国家の岩戸」など、様々なレイヤーの「岩戸」があると考えられます。
これらを総括しての「地の岩戸開き」であり、実際にあらゆる分野で難題が山積していることでしょう。
つまりは、これら全てを乗り越えることが「大峠」であり、古い時代に背負った罪穢れを清算する「禊ぎ」です。
「失われた30年」を実際に歩んできた私たちは、どうも80年越しの「大峠」において、正念場を迎えていることは否定できないように思います。
そして最近は、医者に掛かっても首を捻られるような奇妙な不調や、全く身に覚えのない災難に出会う人も増えてきたのではないでしょうか。
これは素直に自分が過去やってきた「巡り」が訪れていると考えられます。
もしこれが遅かれ早かれ、全人類が迎えねばならないものだとしたら、「悪人」も自分の罪と向き合うべき時はいずれ来るはずです。
この「禊ぎ」をきちんと終えた者から先に次の世に渡り、新たな世に生きることになるでしょう。
これは私の感覚だと相当しんどいのですが、苦しいのを耐えれば道は開けるのですから、逆に悩まなくてよい分だけ楽です。
「苦しくても楽な道」と神示に書かれているのは、あながち大袈裟ではないと感じます。


