楽太郎です。
いつも10,000文字近い記事を皆様に読ませてしまっておりますが、今回は特に入魂の内容となるので、予めご了承下さい。
さて、昨日17日21時ごろに金環日食を伴う新月が水瓶座に起こり、14日からは「土星・海王星牡羊座期」を迎え、私は「大峠・八合目」に入ったと解説しています。
スピリチュアルな内容に関しては本記事後半で扱うつもりですが、時事の話をすれば、米国での2月16日月曜日は「プレジデント・デー」とする祝日でした。
そのため、米国株式市場もお休みだったのですが、おそらく「時間外取引」の場での攻防は想像を絶するものだったはずです。
これまで「Chart Exchange」の株価チャートを見ながら米国経済を見てきたわけですが、どうもそろそろ「結論」を出しても良いのではないかと思い始めています。
と言うのも、「ザラ場」での上がり下りをいちいちコメントするのも、投資家目線で言えば「野暮」と言えるもので、株式はやはり長期視野で見るべきものだと思います。
「結論」というのも、MicrosoftのQ4決算発表を皮切りとした「黙示録」的傾向は、2月の「MTD(月初から今日まで)」のレンジを眺めると本質が見えてくる気がします。

これが「USストック市場」の2月1日から16日までのMTDレンジです。
おそらく、マグニフィセント7は株式下落に対して株式買い戻し(自社株買い)の対抗措置を取っていると思われ、それを差し引いてもハイテク大手に対する投資家からの「売り浴びせ」は、どうも本格基調な気がします。
マグニフィセント7の解説は後ほどしますが、「AI革命」のためには、AIのアプリケーションだけでなく高度な情報処理を支える半導体処理装置、NVIDIAのGPUを例に出しますが、こうした装置を実装したデータセンターへのインフラ設備が必要になります。
しかし2月レンジを見ると、「AI脅威論」の主役たるAI企業、アンスロピックの神話的な語り口が流布する一方、それを下支えするはずのNVIDIAと、 主なCPU開発企業のAMDとIntelも調子が芳しくないようです。
これには、中国を始め「AI特化型」の半導体処理装置の開発競争が響いているとも言えるのですが、現在建造中のデータセンターの殆どがNVIDIAのGPUを導入する計画となっているため、数年先のプロジェクトを今更キャンセルし、新興企業の最新AI処理装置に切り替えるのはどうも現実的とは思えません。
従って、今回の「AIブーム」を支えてきた投資家たちからすると、NVIDIAのGPUがデータセンターの設備に使われない世界線というのは、なかなか考えにくいはずです。
アンスロピックがこれから「AI革命の騎手」に踊り出ようというタイミングに、NVIDIAに端を発するAI処理装置の躓きはAI革命にとって足枷になりかねません。
さて、アンスロピックの話題を続けますが、まず昨日からBloombergに出されている記事を参照したいと思います。
この報道では「AI脅威論」の最根拠たるアンスロピックが、「責任あるAI企業」を理念とし「人権的・倫理的配慮」をAI開発に活かそうとするあまり、国防省が事業計画を受けて「それでは軍事には使えない」と契約延長に難色を示しているそうです。
私はこの記事を読んで「ピン」と来て、最近AmazonやGoogleの株価が特に思わしくない理由が何となく見当ついてしまいました。
以下のストック表の中でMicrosoftの下にある「PLTR」が要人暗殺用AIを開発する企業「パランティア」ですが、月初から「9.22%」の下落となっています。

このパランティアは、イスラエル軍がハマスの要人や中東地域の敵対勢力を標的として選定する技術を担当していました。
同社の暗殺用生成AIとハイテク2社が提携し、Googleの膨大な地図データとAmazonの「ラスト・ワンマイル」に関わる個人情報と地理情報が提供されているとされます。
パランティアが開発する暗殺用AI アプリは2種類あるそうです。
要人暗殺の個人情報を取得し優先順位を策定する「Lavender(ラヴェンダー)」、暗殺対象が戦闘部署でなく、帰宅して家族団欒している時を狙って現在地を特定する「Where is Daddy?(パパはどこ?)」です。
暗殺用ドローンやポケベル爆弾などを送りつける位置選定には「グーグル・ストリートビュー」を、陸上経路の算出には「ラスト・ワンマイル」のシステムを使用しています。
この業務契約がペンタゴンから嫌気が刺され始めているのは、ハマスやヒズボラなどの勢力が既に何らかの対抗措置を取り、殆ど作戦としての効力を失ったか、または「暗殺対象」が組織にいなくなり、軍事上の作戦重要度が低下しているのかもしれません。

パランティア社は、昨年中旬頃には200ドル付近まで時価総額を上げましたが、現在では約133ドル、35%ほど下落しています。
パランティアとAmazon、Googleの著しい株価下落は「国防総省(戦争省)」の契約継続の不安視が株価に反映していると考えることはできないでしょうか。
そもそも、AmazonもGoogleも世界中の人々が「必要不可欠」と感じるほどの浸透度を見せる割に、実は企業収益の面で見るとほぼ横ばい、2021年からは特に伸び率が鈍化してきています。
しかも「AI投資」と称して債権を発行しながら内部留保を減らし、莫大な投資計画をデータセンター建設とAI開発に当てています。
ここで収益性としては「頭打ち」のマグニフィセント7にとって、国防省改め「戦争省」との受注が企業利益を飛躍的に押し上げているという経緯がありました。
どうも赤字財政が窮に瀕するあまり、一部的に業務を閉鎖せざるを得ない状態までに陥っている米国政府は、もはや「AI開発」という金食い虫を養えなくなり始めているのかもしれません。
おそらく「生成AI」というのは中国の全面監視体制と国家統制技術を観察し、米国政府も政治的「効果」を感じているでしょう。
しかし「ない袖は振れない」くらいまでには財政が逼迫しており、「AIバブル崩壊」を見越した国防族からハイテクロビーが疎まれ始めているのかもしれません。
だから私は、パランティア始めAmazonとGoogleの国防省との契約切れの懸念が投資家に波及し、機関投資家を中心に売り浴びせが起きているのだと思います。
しかももっと良くないのは、2007年頃の「サブプライム・ローン破綻」と同じ轍を今まさに踏みそうだということです。
AI脅威論はCLOの好機、カーライルやブラックロックが割安ローン購入
ここで「カーライル」や「ブラックロック」などの投資ファンドが、「コラテラライズド・ローン・オブリゲーション(CLO)」という債権を購入しまくっているそうです。
かつて「コラテラライズド・デット・オブリゲーション(CDO) 」というのがあって、低信用のローンなどでの負債を抱える債権者の中で、返済実績の良い人々のグループを証券化して金融商品にしたもので、今回の「CLO」は「サブプライム・ローン」時の不動産の中長期ローンを、自動車などの分野に鞍替えしただけで、実質的に「CLO」も「CDO」もほぼ同じ仕組みです。
つまり、2007年に始まる「世界金融危機」の引き金となった米国不動産「サブプライム・ローン破綻」と全く同じシナリオを再現しつつあるということです。
冷静に考えれば恐ろしいことなのですが、マスメディアはよくもいけしゃあしゃあとこうした記事にできるもんだと思います。
そこで、「カーライル(CG)」や「ブラックロック(BLK)」を含む「アセットマネジメント」市場を「MTDレンジ」で見て、今回の「導入」を終わりたいと思います。

*
さて、記事の「本題」に入ります。
昨日17日の「日食新月」というのは「日月神示解説」的には重要な日だったことは言うまでもないでしょう。
「日月神話」では、「月」を司るのは素戔嗚命こと「伊弉諾命」です。
新月が起こった「水瓶座」は、「改革と調和」の星座と言われ、「エレメント」では「風」とされます。
「水」を司るのも素戔嗚命、言わば伊弉諾命であり、伊弉諾命に係る星座で「新月」が起こるのは象徴的です。
「土星・海王星牡羊座期」も興味深く、「土星」は「実直さ」を伴う惑星であり、「厳格さ」として見れば「父神」としてのイメージがあります。
「海王星」は、「理想」や「時代精神」を司る星とされますが、「海王」とは「ネプチューン(ポセイドン)」の意であり、日月神示における「海神」とは、伊弉諾命しか考えられません。
どちらも「伊弉諾命」に縁がありそうな惑星が「挑戦」を象徴する「牡羊座」で起こり、しかも同時に「水瓶座」の「日食新月」となっていました。
これは伊弉諾命に強い繋がりを感じる星回りと言ってもよく、まさに「天之日月神」として地上を飛び回っておられる「大峠」において、「富士(二十二)登山の八合目」の始まりを告げるには、最適の星回りだったと言えるのではないでしょう。
私はこの新月の前後、久しぶりに悶絶するようなエネルギー変化の煽りを受けて、ジタバタ苦しんでいました。
私は「我」というものが強すぎるあまり、たびたび「戒め」を受けていたのですが、この新月には特に「我を捨てる」ことへのテーマが提示されていたように思えます。
この「悶絶するほどの苦しみ」を感じる時、「我慢」が生じます。
しかし「我慢」の「慢」とは「慢心」の慢であり、「我」があるから「我慢」が生じるのだと、この機会に知ることができました。
「我」があるから「欲」が生まれ、「欲」が満たされないことに「我慢」が生じます。
「辛い、しんどい」ということに「欲望」は関係ないと思われるかもしれませんが、「楽になりたい」という思いも一応は「欲」と言えます。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」とは免許皆伝者だけが言えそうな台詞ですが、ここまで平常心で至ることを求めるのが「神の道」、その正道を歩む「神人」であるのなら、とてつもない精神的修行が求められる世界であることを、改めて思い知ったのです。
私が「我」を捨てよう、「折ろう」と考えてそれをしようと思っても、どうしても折りきれない部分がありました。
「神に全てを任せる」という一存に辿り着くことができないのは、単に「神を信じきれない」という部分が自分にあったからです。
私のこれまでの歩みは「招神万来」の1年に現れていますが、その殆どは「戦い」がテーマだったように思います。
私には「戦わなくてはならない理由」があり、負けられないという思いがあるからこそ、「我」を折ってここまでやってきたという自負があります。
実質的には、言論活動は数年前から始めているのですが、いつもその反応は冷ややかなものでした。
「法律に違反してないから何も悪くない」
「何でも金の世の中が悪い」
「世の中というのはそういうもんだ」
「お前なんかに言われる筋合いはない」
「自分が気に食わないだけのアンチだ」
そう揶揄されながら、私は「間違っていることは間違っている」と言い続けてきました。
私が戦ってきた理由とは、決して卑怯な手で勝ち上がる人々を引き摺り下ろすことにあるのではありません。
人の頭を踏みつけ、高笑いをするような人間が世に横行しながら、力ある者ほど実情に見て見ぬふりをするという現状に耐えきれなかったのです。
なぜ、その影響力がありながら「おかしいことはおかしい」と言ってくれないのか、弱い者を守る立場でものを言ってくれないのか、その不信感が「怒り」となり、私をここまで駆り立てたのです。
だからこそ私は大して味方がいなくても、ずっと戦ってきたのです。
当然、一人の力でできることなど高が知れています。
そこで「神」という目に見えない存在を信じ、その影を追いながらここまで歩みを進めてきました。
しかし、それでも私は神様を「信じきれていなかった」のです。
私の長い経験の中で「悪ほど生き延びる」という現実を間近に見て、神様という御存在を「頼りない」と思っている自分がいたのは否定できません。
「人間」としての目で見て「言っても悪人は得するんだろう」という考えが、脳裏にこびりついていたのだと思います。
だから自分の意志で「世直し」に挑み、結局は自分の手で「悪人」を裁こうとしていたのかもしれません。
しかし、日月神示では「悪を憎むな」と仰られます。
私も悪を憎まないよう「抱き参らせる」ことをテーマに、神示解説を含め言論活動に繋げてきました。
けれども心の底では、未だ「悪」を憎む心が抜けず、彼らの行いを「忌まわしい」と感じていたのは否定しません。
仮に「悪」を抱き参らせようとしても、却って悪人は増長してしまうのではないか、まして神が「裁き」を与えないとしたら、神に代わって「裁き」を与える人間がいなければ何も変わらないのではないかと、内心ではそう思ってもいたのです。
ただ「梅の巻・第十帖」に、こうあります。
「悪い事は蔭口せずに、親切に気付け合って仲良く結構ぞ、蔭口世をけがし、己を汚すのだぞ、聞かん人民は時待ちて気付けてくれよ、縁ある人民、皆親兄弟だぞ、慢心取り違い、疑いと我ががこの道の大きな邪魔となるぞ、くどい様なれど、繰り返し繰り返し気付けておくぞ、時来たら説き出すものじゃ、親の心察して子から進んでするものじゃ、その心よきに幸さきわうぞ、もの聞くも良いが聞かんでは、分からん様では幽国がいこく身魂ぞ」
「疑いと我」が自分にあることを自覚し、私は改めて反省する機会を得ました。
そして「怒りは慢心である」と言われることから、自分の「正義感」は「慢心」に繋がっていることを悟り、心根を改める決心ができたのです。
「月光の巻・第五十五帖」からです。
「そなたはよく腹を立てるが、腹が立つのは慢心からであるぞ、下腹からこみ上げて来る怒りは大きな怒りであるから、怒って良いのであるなれど、怒りの現わし方を出来るだけ小さく、出来るだけ清く短くして下されよ、怒りに清い怒りは無いと、そなたは思案して御座るなれど、怒りにも清い怒り、澄んだ怒りがあるから良く心得なされよ」
私が「悪」を見て「怒り」を感じるのは、単に「嫌い」という理由からではありません。
「嫌い」というだけで、人はしぶとく怒ることはしません。
「自分が何とかしなければ、物事は悪くなる一方だ」と思うから、平然と「悪行」が横行するのを見て、腹が立つのです。
「嫌い」なものは誰しもありますし、嫌いなだけなら大した問題はありません。
しかし「嫌い」という感情に「怒り」が付随する時、その感情は「憎悪」となります。
そして「憎悪」は「善の外道」となり「悪の外道」となる、根本的な「悪」の感情に結びついてしまうのです。
「春の巻・第五十九帖」に、こうあります。
「今を元として、自分を元として善じゃ、悪じゃと申してはならん、良き人民が苦しみ、悪い人民が楽しているから、神も仏も無いのじゃと申しているが、それは人民の近目ちかもくぞ、一方的の見方ぞ、長い目で見よと申してあろうが、永遠の理ことわりをわきまえよと申してあろうが、支払窓は金をくれる所、預け口は金を取る所、同じ銀行でも部分的には逆さまの事しているでないか、全体と永遠を見ねばものごとは分からんぞ、よく心得よ」
私が神様を信じきれなかった一番の理由は「神は悪を裁くことがない」という経験知からのものです。
しかし、神示によればその考えが「近目」であり、長いスパンで見たら「悪行」は「借金(借銭)」のようなもので、善人はコツコツ貯金をし、悪人は一方的に借金を積み重ねて、見た目上は「羽振り」が良いようになっている、それが私たちからは「不公平」に見える、そういうことのようです。
そう考えると、私の「疑念」は「因果応報(自因自果)」の法則そのものが本当に「あるかどうか」という点に行き着きます。
神が「悪」を裁かず、人に悪人を裁く権利が本来ないのだとしたら、「宇宙法則」が勧善懲悪をもたらすと考えるしかありません。
「人民は近目であるから色々と申すなれど、広い高い立場で永遠の目でよく見極めて下されよ、寸分の間違いも無いのであるぞ、これが間違ったら宇宙は粉微塵、神は無いのであるぞ(極めの巻・第十八帖)」
神々からすると、因果応報の法則(フトマニ)があるのは必然であって、「悪人がきちんと責任を取る」時が来るのは、人間の時間感覚からすると長いように感じるけれど、天之日月神様は「永遠の立場」で物事を見るように促しておられます。
私はこの「永遠の立場」が理解できないからこそ、眼前で堂々と横行する「悪行」というものに、いちいち腹が立っていたのです。
「極めの巻・第十二帖」からです。
「口先ばかりで、その場限りでうまい事申して御座るが、それは悪の花、心と行が伴なわんからじゃ、己自身の戦いくさが終わっていないからであるぞ、そなたの持つ悪い癖を直して下されよ、それが御神業じゃ、神々様も自分の癖を直すために御苦労なさっているぞ」
この「怒り」をやはり「悪」と戒め、神様たちですら、この「癖」を直すことにご苦労なされていることが述べられています。
そこに「我」を出さないようにする努力が「御神業」であり、真の「戦い」であると日月神示は語るのです。
「月光の巻・第五十二帖」からです。
「口先ばかりで良い事を申すと悪くなるのじゃ、心と行が伴なわねばならん、分かり切ったこの道理が行われないのは、そなたを取り巻く霊の世界に幽界の力が強いからじゃ、そなたの心の大半を幽界的なもので占めているからぞ、己おのれ自身の戦まだまだと申してあろうがな、この戦いくさ中々じゃが、正しく和して早く弥栄え、結構ぞ」
そして、月光の巻の続きには手痛いことも述べられています。
「そなたの持つ悪い癖を治して下されよ、その癖を治すことが御神業おんかみわざぞ、自分で世界を立て直す様な大き事申して御座るが、そなたの癖を治すことが最も大切な御用でないか、これに気がつかねば落第ぞ」
私は、今までの人生でここまで「芯」を食ったお説教ができる大人に出会ったことがありません。
やはり「日月神示」は、人類の「親神」から出されているお言葉と感じざるを得ない部分です。
「我われにどんな力があったとて、我を出してはならんぞ、我がを出すと力無くなるぞ、我を大き我に昇華させよ、大我に融け入らねばならん、大我に融け入ったとて小我が無くなるのでは無いぞ、人拝おろがめよ、物拝めよ、拝むと自分の喜びとなり、拝まれたものも喜びとなるぞ、嬉し嬉しとはその事ぞ」
誰かを「敵」と見て「戦い」を挑む時、「悪人」を裁こうとする「正義」の裏に「自分は絶対に正しい」という慢心があります。
しかし、そこにある「慢心」を改め、「我」を捨て「怒り」を鎮めるのには、「いずれ悪人は必ず悔い改めざるを得ない」ことを知るだけで良いのかもしれません。
善人も悪人も、皆等しく「因果応報・自因自果」という「巡り」の返報を受けるのだとしたら、一個人がいちいち悪行に目くじらを立てるべきではないのかもしれません。
私は心にも「神様を信じている」と思っていても、「神」という掴みどころがない御存在に、どうしても信じきれない部分は正直あったのです。
ただ、神様が「良い世界」にして下さるという御意志がある限り、私個人が身を呈してまで戦う必要はないのかもしれません。
日月神様が仰るように、世を良くしようという努力も、とりあえずは「神に任せおく」ように仰るなら、社会という巨大な「渦」に呑まれながら、船を制しようと舵を握る手も、安心して離せるというものです。
それは「レッセ・フェール(なすに任せよ)」であり、「ケ・セラ・セラ(なるようになる)」の世界です。
人間は、長い目でもせいぜい5年10年のスパンでしかものを見ることができません。
姑息な手を使った勝利を「フェア」と言い、勝ちを元手にずっと勝ち続けることができる、そう「悪」は言います。
しかし、全て自分がしてきたことの報いをいずれ自分が受けるのなら、外野が無理やり出張って押さえ込もうと、結果は変わらないのかもしれません。
これを「弱者の負け惜しみ」と言われるとしても、それこそ5年10年のスパンではわからないでしょう。
「善か悪か」という平面的な見方以上に、時間の切り取り方次第で「善悪」の関係も変わるのです。
ただ、少なくとも「闇の世」であった3000年はすぐに「因果応報」が発動せず、悪人が「闇から闇へ」逃げ仰せる時代であったのは言うまでもありません。
「因果応報」という神の法則が、存分に通用する世界にするためには、まず「闇の世」を終わらせなければなりません。
その時代を迎えるために、私たちは「地の岩戸」を開かなければならないのでしょう。
神々が直接手を下すわけではなくても、然るべき手の人々によって「悪」が報いを受ける世となれば、一市民が巨悪に訴える必要もなくなるでしょう。
ゆえに、「怒り」も「我」も世の中のために存在しなくて良いのです。
私はそう考えると、もう外の敵との「戦い」を終わらせ、また「自分自身」の戦いも終わらせられる気がしました。
全ては「神の胎の中」で起こっていることなのですから、安心して「神に任せおく」くらいの信頼感を持って、全ての意志を神様に預けて良いのかもしれません。

