「祓い」の語源

楽太郎です。

今回は、さらに風呂敷を広げて「祓戸大神による祓いとは何か」について考えていきたいと思います。

先日上げた、「祓戸大神を辿るⅡ」という記事の後半で「気吹戸主は御気津大神=保食神ではないか」という仮説を立てました。

保食(ウケモチノ)神は、天照大御神が月読命に命じて食料を取りに行かせたところ、口から食べ物を吐き出しているのを見てしまい、激昂して斬り殺してしまいました。
その亡骸から粟や稗、米や麦などの雑穀や蚕などが生まれたと言います。

日本書紀では「月読命」ですが、古事記では同じような神話が素戔嗚命によって描かれます。
この場合は高天原を追われた素戔嗚命が、料理を振る舞おうとした「大気都(大宜津)比賣命」が口から食べ物を吐き出しているのを目撃し、やはり斬り殺してしまいます。
そこから穀物が生えてくるのも同様でこの前後の二柱は共に「女神」だとされます。

祓戸四神になぜ一柱だけ「気吹戸主」という男性神が含まれているのか謎でしたが、気吹戸主が女神であるとするなら、「祓戸大神は四女神である」とした方がしっくり来ます。

その仮説を検証すべく、「気(キ・ケ)」と「食(ケ)」の相関関係と、気吹戸主と大気都比賣命の関係を調べてみました。
「豊受大神」の神名にある「ウケ」とは「食物」のことで、「宇迦之御魂」の「ウカ」と同じです。

「気(キ・ケ)」の音素は、上代特殊仮名遣いにおいてキ乙類であり、「酒(sake)」と同じ音素系統を持つとされます。
この場合の「食(カ・ケ)」はキ乙類であり、「気」と同じ語源を持つと思われます。

「御気津大神」の「御気」とは「御饌(ミケ)」であり、古代祭祀において神々に捧げられた食糧であったとされます。
「津」という文字は瀬織津姫命などの神名にも見られますが、この音は接続助詞らしく、「之」と同じ要素を持つ語らしいです。
私はてっきり、「瀬織津」という言葉があると思ってましたが、正しくは「瀬織の」という意味だったようです。

「大気都=大宜津比賣命」の「都」も「津」と同じ助詞であり、「大いなる気、偉大なる食べ物」を意味していると思われます。
ただ、「速開都比賣命」に関しては、「開都=水戸=港」であり、「都=津(ツ)」の用法とは言い切れないかもしれません。
ここは引き続き、考察をしていきたいところです。

では、「食=気(キ・ケ)」が音素として同じことがわかった上で、今回の本題に入りたいと思います。

祓戸大神は「罪穢れを祓う」と言いますが、「罪穢れ」とは何でしょうか。

「穢れ」は「気枯れ」だと言われますが、「穢れ」の「ケ」はキ乙類と推測され、おそらく語源的には「気」と同じ音から派生したものだと思われます。
「ケガレ」の「ケ」は「気・食・餉・饌」でもあるのですが、「褻」という文字では「日常的なもの」も意味し、「褻着(日常的に着る服)」や「褻稲(けしね・農家の日常食糧)」という言葉にも使われています。
では「カレ」とは何かと言うと、「枯れ」も意味合いとしては間違いではないようなのですが、どうやら「離る(かる)」が最も有力なようです。

つまり「穢れ」は「気離れ(けかれ)」であり、「気が離れる」ことを古代の日本人がどう表現していたかと言うと、疲れて気力が落ちたり、落ち込むような出来事が起きてネガティブになったり、食べ物がなくて衰弱したり、その延長で病気になったり死んでしまう、それを「気離れ」と呼んでいたのではないでしょうか。

伊弉諾命は、妻の伊奘冉命を追って黄泉の国まで追って行きましたが、伊弉諾命は伊奘冉命の死に恐れ慄いて逃げ帰ったわけではなく、腐爛した妻の姿を見て戦慄したのであって、それが「穢らわしい」と認識したからです。
古代人は「死」そのものよりも、腐敗を見ることによって気が滅入ったり、病原体をもらって病気になることの方を避けたのかもしれません。

グロテスクなものやショックな出来事を目の当たりにすると、私たちは気分が悪くなります。その感情こそ「気離れ」に他なりません。
気持ちが悪くなったり、落ち込むと元気もやる気もなくなり、仕事に支障が出て作業効率が落ちます。作業効率が悪くなれば、成果にも悪影響が出て生活や富を脅かします。
それこそが「気離れ」の悪循環を生み、どんどん状況は悪くなってしまうので、どうにかしなければなりません。

「穢れ」が「気離れ」だとするなら、離れた気は呼び戻さなければならないでしょう。
私は、それが「清め=気呼ぶ」なのではないかと考えています。

「キ・ヨメ(ヨム)」とした場合、「読む」の語源は「呼ぶ」であるらしく、どちらも言葉を出してこちらに招くことです。
「気離れ=穢れ」で失った気は、「気呼び=清め」によって取り戻し、元気を得るというわけです。

では、「祓い」とは何かと言うと、日本民族学の議論に「ハレ・ケガレ」という概念があります。
「ハレ」とは、祭祀などを執り行う特別な日を指しますが、やはり「ハレ」は「晴れ」なのだと思います。
「晴れの日」という言葉に使いますが、対義的に使われる「ケ」とは日常を表す「褻」であり、「日常と非日常」を表現する言葉に用いられてきました。

「ハレ」の言葉を分解すると、「ハ(ヒ)・アレ」のことなのではないでしょうか。
上代特殊仮名遣いの「ハ」は、「早・速」を当てます。「速」は「速佐須良姫命」に使われる文字ですが、これは「勢いがある・すごい」という意味があり、「厳・斎」と語源を同じくしています。

つまり、「ハ」という音自体、盛んさを表現すると共に、「神」や「神事」を表していたとも言えます。
「ハ」が「速」であったとして、「ヒ」が「日」であり、「日・生れ(アレ)」だとすると、まさに太陽の登る様を指しているように思いますが、

「アレ」は古代日本語において「阿礼」と当て字されますが、阿礼は榊に綾絹や鈴をつけた幣帛で、古代から祭事に用いられました。
「神聖な霊が出現する」ことの意とされ、「ハ・ヒ=神」が降り立つ時こそ「ヒ・アレ=ハレ」であったのではないでしょうか。

とすれば、「祓い」は「ハレ(ル)・らう」の意であり、「ハレの状態にする」という意味になります。
それは「ケガレ」が「ハレ」ることであり、まさに浄化のプロセスそのものです。

では、ここまで色々とワードが揃って来たところで、「罪穢れ」の「罪」の語源を辿ると、古語の「つつむ/つつみ」から派生しているらしく、これは悪いこと、不吉なこと全般を意味したそうです。

平安時代に書かれた旧式の「大祓詞」には、天津罪、国津罪が細かく述べられていますが、その中に「昆虫の災い」「高津神の災い」「高津鳥の災い」とあります。
これは、古代の日本人にとって自然災害も「良くないこと=罪」であったからで、今日の法的罪状とは認識が異なったようです。

だから、「身の回りに起きる悪いこと全般」は「罪」であって、「穢れ」と共に不幸や災難をもたらすものだと考えられていたはずです。
それを解決するには、「ハレ」を呼び込むために「祓い」を行い、「清め」によって「気」を呼び込む必要があったのです。

おそらく、古代の日本人はこれを行うのが神々だという認識があり、神々に奉じて祓い清めをお願いするのが神道の始まりだったのだと思います。

その神々の働きの中で、「祓いの神」の役割がどれだけ大きいのかがわかります。
祓戸大神の産みの親である伊弉諾命も、禊祓をしたことで数多の重要な神々を誕生させました。

ゆえに、神道の真髄は「祓い清め」にあるのはこのためであり、神々も臣民も罪穢れを浄化されることによって健康や幸福を手にすることができるのです。
「穢れ」を受けてテンションが下がったり、体調を崩したりした時、「祓い清め」によって元気になるとしたら、それは「癒し」に他なりません。

「祓い清め」とは癒しのプロセスであり、「罪」が赦しによって贖われるとしたら、神々は愛や慈悲の心を持って、この世界や人々を治癒する存在なのかもしれません。