「日月神話」

楽太郎です。

今回は、「日月神示」に関する記事です。
以前、「天日月大神解説」という記事の中で、神々の中心に「御三体の神々」が存在し、「天御中主神、高神産日神、神産日神」と「伊弉諾命、伊奘冉命、撞賢木向津姫命」の計六座で「天・地の御三体」を形成していることを図説しました。

「日月神示」に書かれた神話は、「記紀」や神社伝承にある神道的系譜とは若干異なります。
御三体の神にあらせられる「撞賢木向津姫命」は記紀には登場なさいませんし、六甲比売神社に祀られる「六甲比売(むかつひめ)命」や、伊勢神宮荒宮に祀られる「撞賢木厳之御魂(いつのみたま)向津姫命」の神々とも関係性は不明です。

また、「天御中主神、高神産日神、神産日神」の三柱を「造化三神」とするのは良いとして、補遺である「アメツチの時」によると、以上の三柱に「天国常立尊、国常立尊、豊雲野尊」を加えた七柱を「別天津神」としています。

「紫金の巻・十二帖」には、どうやら「天常立尊」の代わりに「クラゲナスタダヨエル」という神が「ウマアシカビヒコジ」神と対比する形で登場しています。
この「クラゲナスタダヨエル」という御神格は少なくとも記紀の系譜には存在せず、一般的には「アメノトコタチ」とされます。

「日月神示版・別天津神」の次代に「国常立尊」と「豊雲野尊」が続きますが、「至恩の巻・七帖」によれば、別天津神五柱を繋ぐ「+と−」の働きとして、男女ペアの二柱が存在するとされます。
しかし一般的な「神代七代」では、神示版別天津神に国常立尊・豊雲野尊の二柱が加わっているため、神示の神代では「ウイジニ・イモスジニ」以下「イザナギの神・イザナミの神」までの五代になります。

また神代五代の「イザナギの神・イザナミの神」がそれから「成りなりて」「伊邪那岐命、伊邪那美命」となり、国産み・神産みをしたとされます。
つまり、記紀や一般的神話と神示の系譜は若干異なります。

それは日月神示が、岡本天明氏の創作だからデタラメなのだ」という批判があるでしょうが、例えば「クラゲナスタダヨエル神」と「ウマアシカビヒコジ神」の御神格に関する説明に違いが見られる点は、一考に値します。

「ウマアシカビヒコジ神」に関して日本書紀に記述はなく、代わりに「泥(ひぢ)の中に生(おおい)でるがごとし、すなわち人(かみ)と化成(な)る」とあります。
対して神示では「ヨコの十の動きがクラゲナスタダヨエル、タテの十の動きがウマアシカビヒコジ」と語られています。

神示にあるウマアシカビヒコジ神は、宇宙に漂う泥のようなモノから、葦の芽が伸びるように生まれ出た生命、という記紀的な説明より「十のタテ」という空間的な捉え方をしています。
「まつりの巻・第一帖」では、「十(かみ)の動くのが卍(ほとけ)ぞ)」と書かれています。
つまり、「十(かみ)」のタテの動き、神が「生長」「発展」する働きを「ウマアシカビヒコジ」とし、ヨコの動きを「クラゲナスタダヨエル」とするなら、ヨコとは「交流」や「拡大」と捉えることもできます。

「神は生長し、弥栄する」存在であるからこそ、全知全能でありながら完成に向けて成長し続ける、そう神示には語られています。
そのため、「ウマアシカビヒコジ神・クラゲナスタダヨエル神」以下の世代は「人」という形を持ちながら、転生を重ねることで「神としての自己同一性」を発展させているように思えます。

ここまでは「神」としての「法則的存在」であり、これら五柱の働きを補完する、或いは「働きそのもの」として、男女ペアの神々が「+と−」の役割を担い、それが成りなりて「伊邪那岐命、伊邪那美命」に繋がっているように考えられます。

この説明を辿る限り、記紀の記述にはない独特の「形而上学」、即ち宇宙哲学があります。
この世界観が例え天明氏の創作であろうと、この内容の深淵さは一瞥すべきです。
もし「日月神示」が真の神の啓示なのだとしたら、この宇宙創生の神話が実際の神界と世界の成り立ちを説明していることとなり、「聖書」のように一つの宗教的到達点と見ることもできます。

ゆえに、私の文脈では「神界の真実である」という前提で話を進めていこうと思います。

「日月神示」の興味深いところは、神道の一般的な固有名詞と互換性がありながら、一般的でない神名や微妙に異なるニュアンス、伝承とのズレがあり、どちらかというと神示独自の文脈が存在することです。

例えば「御三体の神」に加わる「つきさかきむかつ姫」に関しては、天照大御神荒魂の「撞賢木厳之御魂向津姫命」と同一神であるか、はっきりしません。
神示には「地上にご活躍する元の生き神」として「雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、竜宮の乙姫」がよく挙げられています。
しかし、その神々に「木の神、金の神、日の出の神」が加わったり加わらなかったり、微妙な表記揺れに関して詳細な説明がないため、一見矛盾しているようにも感じます。

それらの神々が「十柱」や「九柱」であることもあったり、様々なバリエーションがある中で、聞き慣れない神名が登場することもあります。
「水の巻・第十帖」には「火の神」が挙げられますが、「今の臣民にわかる様に申すならば」とした上で、「わかひめきみの神」と述べられます。

「火の神」と言えば、一般的には「火之迦具土(ひのかぐつち)命」です。
しかし「わかひめきみ」とは、おそらく「稚日女(わかひるめ)命」のことであり、もしくはもう一対である「君」の「稚彦命(?)」を加えた二柱を指しているのではないでしょうか。

ただ「稚日女命」は一般的には天照大御神の侍女とされ、記紀では素戔嗚命が皮を剥いだ斑駒を屋敷に放り投げた際、機織りに使っていた梭(ひ)を身体に突き刺したか、「陰部(ほと)」に突き入ってしまい、その傷が元で亡くなられたとされます。
「稚日女命」に兄か弟に当たる「稚日彦」が存在する記述はありませんが、近い御神格に「天若日子命」がおり、葦原中津国平定の段において大国主の娘の下照姫と結婚したことで、戻って来るように催促しに来た雉を殺したため、高皇産日神の怒りに触れて矢で射殺されたとされます。

しかし、「稚日女命」も「天若日子命」も神格として「火の神」という扱いではありませんが、奇妙なことに両神とも不遇な死を遂げています。
ただ「火之迦具土命」も伊奘冉命が出産後、「陰部(ほと)」を火傷したことで亡くなり、それに怒った伊弉諾命によって首を切り落とされてしまいます。

この奇妙な一致に関しては後ほどまた取り上げますが、「紫金の巻・第十二帖」では「暗劒(くらつるぎ)殿」という神名が登場しています。
この「暗劒神」という御神格は、全く一般的ではありません。
しかし同じ文脈を他と比較しても、「火の神」が「暗劒殿」に対応しているとしか考えられないのです。

この「暗劒」という表現を分析した時に、「暗・闇(くら)」というのは「光・昼」に対応し、「和魂」に対する「荒魂」ではないかと思います。
では「剣」とは何かと言うと、「富士の巻・第三帖」には「三種の神宝」として「玉とは御魂ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ」とあります。
つまり「剣」とは「◉」の外側における働きであり、まとめると「暗剣=荒魂」になります。

では一体、何の神の「荒魂」なのでしょうか。
「荒魂」で一番最初に思い浮かぶのは「天照大御神荒魂」であらせられる「撞賢木厳之御魂向津姫命」です。

「稚日女命」とは、天照大御神の侍女か「妹」という説が一般的ですが、私の神示解説では「真の天照大御神は伊奘冉命である」と結論づけています。
だから「稚日女命」とは「御三体の神」の一柱である「つきさかきむかつ姫=撞賢木厳之御魂向津姫命」と比定できるかもしれません。

神示では「日の神が火を司り、月の神が水を司る」と語られています。
つきさかきむかつ姫が伊奘冉命の御子神であれば、「日(火)の神」としての神能を受け継いでいてもおかしくありません。

別のところでは「春の巻・第三帖」の「節分祝詞」の中で、「大日月大神、皇神御前」として「大国の常立大神」「豊雲の豊大神」以下に、「祓戸大神」の四柱「瀬織津姫命・速秋津姫命・息吹戸主命・速佐須良姫命」の神名が挙げられています。
ここの件は非常に興味深いのですが、伊勢神宮や古文書では「撞賢木厳之御魂向津姫命」は「瀬織津姫命」と同一神であらせられるとされます。

瀬織津姫命は、祓戸大神であり水の女神とされるので、「稚日女命」が火の神として挙げられることと矛盾します。
しかし「つきさかきむかつ姫」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の御子神であるとすれば、「日(火)と月(水)」の両属性を司る神能を有してもおかしくありません。

神示の中に出てくる「竜宮の乙姫」とは、かつて滝に「龍」を連想し、滝の女神である瀬織津姫命が「白龍の化身」とされることから、私は当初「竜宮の乙姫」が「瀬織津姫命」なのだと思っていました。
しかし「暗劒殿」の文脈では「竜宮の乙姫」も列挙されているので、同一神とは考えられません。
上述の「水の巻」では、竜宮の乙姫は「玉依姫命」と同定されています。

日月神示の中では、元の神々は大地や気象を司る「龍体」の神であるとされます。
おそらく「海神」の「龍族の末娘」という意味で「綿津見神の次女の玉依姫」に宛てているのではないでしょうか。

私個人としては、「玉依姫」の「玉」とは「サ(稲霊)」であり、「狭依姫命」と同定されうる「瀬織津姫命」の意味合いもあると考えていますが、その詳述は「玉依姫命について」という記事にあるので、どうぞご覧ください。

話を戻しますが、伊弉諾命と伊奘冉命の御子神が「つきさかきむかつ姫」であり「火」を司る能力があるとしたら、神示では「岩戸隠れ」したままの真の天照大御神の変わりに、「日(火)」を司り現在の「天照皇大神宮の神」としてお祀りされている根拠ともなり得ます。

とは言え、実際に伊勢神宮に「撞賢木厳之御魂向津姫命」が天照大御神として祭祀されている理由に結びつくかは不明です。
「わかひめきみ」が「稚日女命」「天若日子命」と比定されうるとして、同じく二柱の紛れもない御子神でありながら不遇の死を遂げた「火之迦具土命」について、どう考えたらいいのでしょうか。

そのヒントは、神示「日月の巻・第三十帖」にあります。
この文節は「記紀」の神産みの段に準えておりダイジェストになっていますが、時に「同じ神の名が二回」登場します。
神示には「同じ名の神が二つある」と述べられており、それらは「善」の顔と「悪」の顔がある、つまり「和魂」と「荒魂」を意味しているのだと思います。

文節内の「迦具土神」の件で、「闇山津見(くらやまつみ)神」が「陰(ほと)」から生じたとされます。
実は「陰(ほと)」が性器を指す場合は女性器以外になく、男性器を指す古語は「はせ」が使われます。
陰部から誕生した神は「闇山」であり、渓谷や洞窟などを彷彿とさせるため、どことなく「女性器」を連想します。
つまり、ここでの「迦具土神」とは女神であり、不慮の死を遂げた稚日女命と繋がるのではないでしょうか。

だから「火之迦具土命」が火の神であり、稚日女命と同一視するならば、神示の中で「火の神」という扱いを受ける理由になり得ます。
火之迦具土命は伊弉諾命に首を切り落とされた後、数々の自然神を自らの身体から産み落としますが、素戔嗚命に斬り殺されて亡骸から穀物を発生させた「大宜都姫命」、同様に月読命に斬られた「保食神」とも同じ図式が浮かび上がってきます。

こういった神話形式の類似を鑑みるに、おそらく元は一つの神話だったのではないでしょうか。
「素戔嗚命」と「月読命」は同一神説があり、神示の「荒れの巻」を読み解く上では「素戔嗚命=伊弉諾命」なのです。
要は伊弉諾命が娘の「つきさかきむかつ姫」を殺す図式の神話が、一般的に世に流布していることになります。

ただし、実際の「撞賢木厳之御魂向津姫命」は天照皇大神宮神として伊勢神宮にお祀りされていますし、瀬織津姫命としては「祓戸大神」であらせられます。
即ち「死んだ神」という訳ではなく、むしろ「元津世からの生き通しの神」であり、「何者かに殺される」という経緯を辿ってはいません。

ただ、「つきさかきむかつ姫」がご誕生された後、母神である伊奘冉命が「岩戸隠れ」され、地下世界に行かれ隠棲なされたのは記紀と共通しています。
従って、その後に隠棲なされた伊奘冉を慕って、伊弉諾命が黄泉の国に会いに行く筋書きはどちらも変わりません。

思い出して頂きたいのは、伊弉諾命と伊奘冉命の第一子は「ヒルコ」とされることです。
「ヒルコ」とは「日る子」であり、「る」は接続助詞として「日の子」を意味し、二柱の第一子は「日(火)の神」だったのではないでしょうか。

しかし、ヒルコとアワシマに関しては、成婚後に伊奘冉命が先に声を掛けて子作りを行ったため、不具の子として産まれたとされます。
伊弉諾命と伊奘冉命は「兄妹」として産まれたとされ、いわゆる「近親相姦」による遺伝的異常を連想します。

この神話の原型は、与那国や沖縄にルーツのある「洪水型兄妹始祖神話」の形式を持ち、人類の始祖として存在する一組の兄妹、という共通項があります。
そのパターンでは「近親相姦を避けるためにタブーを解除する通過儀礼を行う」という性質があるそうです。

伊弉諾命と伊奘冉命はまず「日と月と地」を作った後、オノゴロ島に降りて天の御柱を境に反対に周り、出会った所で交わったとされます。
この儀式は神から「近親相姦」のタブーを解除するための「清め」であったのだと思いますが、それでも女性の方から声をかけたのが原因で、不具のまま産まれてしまったヒルコは、葦の船につけられて流されてしまいます。

酷い話だと思うのですが、この子は実の子として数えなかったとされます。
この第一子の「ヒルコ」が「日(火)の神」の後継男子として名を消された神なら、神産みの最後に産まれた「火之迦具土命」は「日(火)の女神」です。

ゆえに「ヒルコ」と「火之迦具土命=稚日女命=撞賢木厳之御魂向津姫命」は一対の「日(火)」を司る神格だったのではないでしょうか。

しかし「ヒルコ」が流されてしまったため、「火」を司る神は「さかきむかつ姫」のみになったのだと思います。
系譜ではそうなっていても、事実上は「ヒルコ神」と「稚日女命」の二柱なのですから、「わかひめきみの神」で間違いはないのです。

ヒルコ神は「蛭子」とも書かれるので、火の神でも「水」の属性を持っているように感じます。
「つきさかきむかつ姫」が「瀬織津姫命」であるとすれば、二柱とも「火と水」の両属性を持ちうることになります。
これは「日(火)」を司る伊奘冉命と、「月(水)」を司る伊弉諾命の血統を、両方受け継いでいるように見受けられます。

ここまでは物語の延長として空想しうる部分ですが、不具の子というだけで「実子」として認められなかった、忌み子のヒルコ神に対する同情はいつの時代もあるようで、ヒルコ神が葦の船で流されて辿り着いた先で「少名彦那命」や「七福神恵比寿」として、立派になって戻ってくるという神話が民間では広く知られています。

では、この「ヒルコ神」に当たる神を「日月神示」ではどのように取り扱われているのでしょうか。
ここから先は、完全な空想の「物語」としてお聞き下さい。

神示に挙げられる十二柱、国常立尊、豊雲野尊、雨の神、風の神、荒れの神、岩の神、地震の神、木の神、金の神、火の神、日の出の神、竜宮の乙姫。
この神々は、かつて地球が「泥海」だった時代から今なお生き通しであり、地球の自然体系を司っているとされます。

しかし、偉大なるこの神々以外にも、「泥海」の頃から生き通しの神が存在します。
それが長らくロシアに上がっていた「悪神」です。

「大峠」において拮抗状態であった「善と悪」の神々の戦争で、「九分九厘」まで神の国を闇に染めうる強大な神力を持つ悪神。
私は、かつての「ヒルコ神」が悪神の正体ではないかと思うのです。

順を追って説明します。
泥海を作り固めた神々のうち、「火の神」が「わかひめきみの神」であり、先ほど「つきさかきむかつ姫」と同定できると説明しました。
かの女神には、先に産まれた「ヒルコ神」の存在を「兄」として想定することが可能です。

「神示」には記紀にあるようなヒルコ神の存在は、どこにも記されていないように見えます。
ただ「五葉の巻・第一帖」には、以下の文章があります。

「あの子を生んで、この子を産んで去ったのであるぞ、その中に一人だけ良くない子が出来た、その子には海の藻草や山の菜、野菜を食べさせてくれよ、段々良い子になるぞ」

この文節を読むに、ヒルコ神が「良くない子」として産まれた、かつての故事を連想します。
そしてこれを語る日月神様が、まるで「父」であるような優しさをもって、「緑のものを食べさせやれ」と仰っています。
あたかも、良くない子が獣のように、肉ばかり食べているような印象を持たないでしょうか?

ヒルコ神を流した「葦」は、当然「豊葦原瑞穂の国」である日本の「オノゴロ島」から流されています。
日本のすぐ「北」にはロシアがあり、悪神が上がっていたとされる大陸です。

そして今回の大峠にある「神の国」を八つ裂きにし、奪いに来る悪神は「北」からやって来るとされます。
神示には日本列島は「国常立尊」の影とされ、「艮(東北)」に封じられていると言われています。
この悪神はまるで、自分をかつて捨てた父に対し、復讐しに向かっているように見えないでしょうか。

そう考えると、悪神が「日本列島」を狙う理由がわかる気がします。

「良くない子」だからと、北の地に押し流して一方的に離縁した父、伊弉諾命に反感情を抱き続けた「ヒルコ神」は、地上の曲がった気から誕生した「幽界」の悪霊「オロチ、金毛(キツネ)、邪鬼」を従えました。
彼ら闇の者を遣わして善の神々を誑かし、騙された神々は「伊弉諾命(国常立尊)と伊奘冉命(豊雲野尊)」を岩戸に封じ込めます。

日の神は岩戸の中に閉じ込められ、月の神は地中に封じられてしまい、神界の「日月」の玉座は空白になります。
そこで神々は二柱の正当な神能を受け継ぐ「つきさかきむかつ姫」を「日の神、天照大御神」として祀り上げることにしました。

これが第三の岩戸閉じである「偽の岩戸開き」であり、日月の神を失った神界をつきさかきむかつ姫が支配するも、悪神の力が強大すぎて神界に「乱れ」が生じたのではないでしょうか。
この悪神の性質は「我よし」そのものであり、いくら神とは言え「我」を出してしまえば、悪神の思惑に飲まれていったのかもしれません。

この悪神が「ヒルコ神」なのだとしたら、伊奘冉命が先に声をかけるという「いろは(色)」を間違えたことで産まれた神であり、それゆえに神示では「神界の乱れは色からぞ(春の巻・第二十五帖)」とあるのだと思います。

この「悪神」が伊弉諾命と伊奘冉命の二柱の実子であるからこそ、我が子が不良化した理由にも心当たりがある伊弉諾命こと「天日月神」は、「悪を抱き参らせねばならぬ」と仰るのかもしれません。
一度は「悪」として見捨てても我が子、やはり愛情があるからこそ、いくら悪でも「可愛い」のでしょう。

この神が現在、世界の「金融」を支配して戦争と拝金主義の世を作り出し、混沌をもたらしている悪の根源としたら、その企みが潰えることは約80年前に「日月神示」が岡本天明氏に降ろされた時点で、すでに決まっていたのかもしれません。

いずれ世界が「ミロクの世」となるならば、「天日月大神」となられた「伊弉諾命」と「伊奘冉命」の二柱は、かつての「素戔嗚命」のように散々グレて暴れた息子に対して、「抱き参らせる」日が来るのでしょう。

ならば「不和」だった世界が「調和」に向かう時、「闇の世」は次なる世界の「造り固め(修理固成)」のためには必要なプロセスだったのではないでしょうか。

だとすると、やはり大神から見れば「悪」はこの世に必要な法則の一部であり、「悪神」もまた世界の生長のために欠かせない存在なのかもしれません。
ヒルコ神が「出来損ないの日(昼)の神」だとしても、「闇を司る神」として、この宇宙には重要な大神であることには変わりはありません。

そんな大きな一つの「家族」の物語が、神界を巡る歴史であり真実なのだとしたら、この世界がどんなに醜く悲惨でも、その涙の奥に「美しい」と思える本当の景色が見えてくる気がします。
この宇宙はすれ違う「家族の物語」の一部であり、その波乱と和合に向かうストーリーの映しとして、人類と地球の歴史があるのかもしれません。

そこには「破滅」だけでなく、悲しみや死だけではなく、「愛情」が全てを内包する世界があります。
「日月神示」には、そんな物語が読み取れるのです。