「身魂磨き」の方法

楽太郎です。

最近、自分のブログなのに自分のことをだんだん書かなくなり、まるで「日月神示」の回し者みたいになってきています。
ただ天日月神様の手先であるということは、太陽系創造神の僕ということなので、人間としては何ら恥じることではないと思います。

仮に「日月神示」が画家の岡本天明氏の創作と考えて、私が日月神示の普及に貢献してたとしても、パブリックドメインである以上は誰かが得するわけではありません。
もし得するとしたら、天国にいらっしゃる岡本天明翁か、日月神示同人活動を楽しんでいる私くらいでしょう。

どの道アコギなやり方で得をしているわけではないので、趣味の範囲として考えれば人畜無害なのではないでしょうか。

これまで、日月神示解説の折には「身魂磨きをせよ」と常に結論として申し上げてきたのですが、この括り方では神示の受け売りをそのまま伝えているだけに過ぎません。
私自身が日月神示を実践して「岩戸開き」がされたと豪語している身として、「どうしたら身魂を磨くことができるか」を解説しないわけにはいきません。
そこで今回は、私の考える「身魂磨き」と、その実践方法について書いていきます。

さて、いきなりハック的な言い方で申し訳ないのですが、一番手っ取り早い「身魂磨き」の方法は、「日月神示」を読むことです。

「神示読めば、神示の気通うぞ(黄金の巻・第四十二帖)」とありますが、この神示を実際に読むことで日月神様に「霊線」が繋がり、身魂の程度に応じて霊的変化が生じてきます。
この「霊的変化」が霊性の目覚めを促し、神の力が介することで「自己浄化」が進むのです。

黄金の巻・第四十八帖」に、こう書かれています。
「この道に入って、始めの間は返って損したり馬鹿を見たりするぞ、それはめぐり取って戴いているのぞ、それが済めば苦しくても、何処かに光見出すぞ」

「月光の巻・第四十四帖」にもこうあります。
「この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をしたりする事がよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭の清算をさせられているのじゃ」

実際、私は日月神示を読み始めてから半年以内に、左足首骨折1回、1週間寝込む風邪2回とロクなことがありませんでした。
しかも霊性変化というのは、スピリチュアル的な言い方をすると「好転反応」と言いますが、大抵の場合心身の不調を伴い、運気もダダ下がりします。

しかし「下つ巻・第十四帖」には、「この道は初め苦しいが、だんだん良くなる仕組みぞ」とあります。
「上つ巻・第二帖」には「悪の楽しみは先に行くほど苦しくなる、神のやり方は先に行くほど段々良くなるから、初めは辛いなれど、先を楽しみに辛抱してくれよ」と述べられています。

私は日月神様のこの言葉を噛み締めてきましたが、全ての人がこの地味な辛さを耐え忍べるとは正直思えませんでした。
人によっては、この不調を「悪いものに憑かれた」と思い、神示を読むことをやめてしまうかもしれません。

日月神様方が見込んで、「やる気があるなら協力してやろう」と手を差し伸べて下さっているのに、自分で望んでおいて反故にするのは勿体ないことです。
私たちは自分自身で「巡り」の内容、「借銭」の内訳を知ることができません。

だから、自分可愛さに「私は特に悪いことはしてこなかった」と思うかもしれませんが、誰しも自覚できない悪い癖というのはあって、どこかで他人を犠牲にしたり良くない仕組みの一部になっていたりするものです。
それは自分以外の人にはわかることかもしれず、神様なら尚のこと、巡りの程度は完全に帳簿につけておられることでしょう。

少なくとも、こういう言い方をされた時点で全くピンと来られない方は、日月神示を読んでも何も起こらないと思います。
ここで身につまされるものを感じ、反省する気持ちが湧く人にこそ、「借銭」を返す意思表示が神様に伝わるのではないでしょうか。

おそらく、「借銭」を返済する気のない人に神様は導きを与えることはなく、また神様から借銭の催促はギリギリまでないと思います。
しかし「ギリギリ」ということは、その分利子が上乗せされ、全額が一度に請求されるということです。

この「巡り」の免除を受けるような特別な魂は、おそらくこの世に存在しません。
今生のうちには、どこかのタイミングで必ず巡ってくるものであり、一生のうちに返しきれなければ来世、再来世へとカルマは持ち越されていくでしょう。

だから、今なら特別に「借銭早期返済プラン」に加入すれば、巡りが「大難を小難にする」くらいには割り引いて頂けるキャンペーン中なのですから、ぜひ「秋の岩戸開き祭」に参加するべきではないでしょうか。
しかしその分、一月分の返済金額が割増になる覚悟がいると思いますが。

まず「日月神示」を読むことで、いつもと変わったことが起きたり心境に変化が起こってきたら、神様の手が入り始めたと考え、そのまま変化に身を任せていけば良いのです。
ただ、ここで「我」を出して変化に抗おうとすると、浄化を自分で押し留めることになってしまいます。

この「巡り」や「借銭」は、自分が得をしようと「我よし」になっていたことで、自分で作ってしまった良くない因縁です。
仮に「人に対して良く振る舞おう」と外面だけ「良い人」であっても、自分の悪い癖に気づかないままでは逆に巡りを生んでしまいます。

だからこそ「心からの改心」が必要であり、それをガチで進めることが「身魂磨き」です。
「黄金の巻・第六十七帖」には「みたま磨きとは、善いと感じたこと、ただちに行うことぞ」とあります。

いつもの癖を直すには、いつもとは別の行動を起こすことです。
カップ麺が身体に良くないとわかっているのに、今日のお昼にまたカップ麺を買うようでは、「仕方ない」といくら言い訳したところで生活習慣は改善しません。

そこで全く別のやり方を決めて実践するのは、頭や気力を使い身体も動かす必要があります。
ただ、それを面倒くさがっているうちは何一つ変わることはなく、身魂磨きもできません。

「身魂」の「身」とは、「身・口・意」という実践の形に他なりません。
自分の心で思うことと、口から話す言葉と、身体での表現や行動と一致していることを「身」と呼ぶのです。
そして「魂」とは、「身・口・意」が内面に浸透していくことで変わる心の状態です。

「身(ミ)」が「◯(カタ)」とすれば、「魂(タマ」は「・(キ)」です。
これらが揃って、「◉(キミ)」という真の「身魂」が完成するのです。
従って、「身魂磨き」とは単なる改心だけでなく、反省からもたらされる実践であり、実践の積み重ねによる成長でもあります。

これは「修行」と呼べるものであり、訓練プログラムがあるわけではなく、マイルストーン報酬もあるわけではありません。
ただひたすら「自分自身」の向上のために切磋琢磨するだけであり、その報酬を「磨き抜いた自分自身」と思えるかがポイントです。

目に見えて得することはあまりないかもしれませんが、おそらく悪因縁を断ち切ると、以前より良い気を運びやすくなっているはずです。
それこそ「開運」であり、何万円も開運グッズに費やさなくても自分の心持ち一つで幸運を招くことができるのだから、よほどコスパが良いのではないでしょうか。

打算的な言い方になって恐縮ですが、さらに神様からのお役目を果たせば、いずれお陰も頂けるはずです。
どれだけ「目に見えないもの」を信じ、耐えながら前に進むことができるか、その試練を乗り越えられるためにあるのが「身魂磨き」だと思います。

ゆえに、「何にも良いことがない」と自己研鑽をやめたくなる時にこそ、「身魂磨き」が求められるのです。
私はさんざん愚痴りながらも、何だかんだ言って身魂磨きを続ける根性は一応ありました。
それは性格の素直さとか、気合いの入り方とかではなく、「信仰心」にあったと思います。

「身魂磨き」にコツがあるとしたら、それは「我を捨てる勇気」を持てるかどうかです。
人間は欲がありますし、自己保存本能があります。現状維持は安心しますし、何より人は変化を嫌う生き物です。
反面、時代が変化を求める時に「変わらない」という選択は弊害となり得ます。

人が「変わろう」とする時に、染みついた昔ながらの悪い癖や腐れ縁ほど、なかなか断ち切るのが難しいものです。
別に勧めるわけではないのですが、あらゆる「断捨離」の中で一番苦労したのは、「昔馴染みとの関係」を断つことでした。

「長い付き合いだから」「色々お世話になったから」と、はっきり言ってあまり良いとは言えない惰性的な関係を捨てられないのは、そこに「我」があるからです。
「これまでの自分」という「我」は、実は何の根拠もなく、殆ど幻想やこだわりと言って良いものです。

その「いつもの自分」でいることへの安心は、変化を嫌うだけでなく自分の成長を阻害する要因でもあり、それが「身魂磨き」を妨げる原因になり得ます。
わざわざ「自分は悪かった」と、進んで反省したがる人の方が稀です。
だからこそ、神様が口酸っぱく仰られなければならないほど、「身魂磨き」のハードルは高いのです。

人は、一度に変わるのは難しいものです。
世の中に関してもそうで、今の世の中は全く動いてないようにすら見えるほど、遅々とした変化の中にあります。
けれども、世も人も「変わろうとしない」よりは遥かにマシです。

私たちは今まさにこれから、揃って「変わり始める」というシークエンスに入っていくのだと思います。
「ようやく」という感じもしなくもないですが、仮に神様が業を煮やして人の世を一気に変えたいと思われているなら、もうとっくに大きく揺さぶっているはずです。

この地球を造り固められた神々にとって、富士山を噴かせたり隕石を落としたりするくらいは、他愛ないのではないでしょうか。
神様が本気で人間を「改心」させたいのなら、天変地異を起こして「神の民」だけを選び、「間引き」をするのが手っ取り早いはずです。

最初に文明を成り立たないくらいまで揺さぶれば、複雑すぎるあまり人間の手には負えなくなった世の仕組みも簡単にリセットされ、あっけなく世の刷新は可能になるでしょう。
しかし、神様たちはその手段を避けに避けて、今もなお遅々とした世の歩みに賭けておられるように思います。

人間たちが本当の成長をし、教訓から良い世を自分たちの手で造り上げることにこそ、「建て替え・立て直し」が宇宙的な意味を持つのではないでしょうか。
だからこそ、今だに立ち上がることすら躊躇する人々に対して神々は檄を送り、何とか引っぱろうとなされているのだと思います。

この30数年、日本人はどれだけ真面目にやっても、煮湯ばかり飲まされてきました。
「がんばろう日本」と言っても、がんばれば頑張るほど世は煮詰まっていき、全く報われない状態が続いてきました。
今になって「立ち上がれ」と言ったところで、疲弊しきった人々の心に、その声が響かない理由も私にはわかるのです。

ただ、私は無闇矢鱈に日本人が、ひたすら虐められてきただけだとは思いません。
この時代において苦労することの意味とは、「今」を生きる人々が古い時代を壊し、新しい時代に作り替えるために起こっていることなのではないでしょうか。

「青葉の巻・第十五帖」には、「世の建て替えと申すのは、身魂の建て替えだから、取り違いせん様致されよ」とあります。
21世紀になって、今さら銃や刀を持って世の変革はなりません。
人の心が変われば、言葉が変わり行動が変わり、人の作るものが変われば世の中も変わってきます。

今、私たちが「経済」をフィールドにした「戦争」に巻き込まれているとしたら、それは「魂」のレベルで起きています。
その戦争で日本人が負けないためには、断固として「心」を守り、決して「お金」に魂を売らないことです。

もし、私たちがこの戦争で負けるとして、再び焦土となり外国人の跋扈する国土を、ポンと子供たちに渡して良いのでしょうか。
多くの大人たちは、正直そこまで考えていないでしょう。自分はそこまで長生きしないから、まさか世の中はそうはならないから、と甘く見て深く考えることをしないように見えます。

むしろ、そこで「何とかしなければ」と思えるのは、その人が自分よりも大切なものが何かわかるからです。
それは「我」を捨てる勇気のある人だからできることで、「自分さえ良ければいい」と思う人には到底考えつかないことです。

「我よし」では世の中を見ていない人だからこそ、これからの時代に必要な人材となっていくでしょう。
そうして「世を変えたい」と思うからこそ「日月神示」に辿り着き、もし「身魂磨き」を行おうとするなら、きっとその覚悟で難局も乗り越えられるはずです。

曇った身魂では形だけ良いものと、中身の良いものの区別がつきません。
それゆえ人々の判断が大いに狂い、おかしな人間が上に立つようになったのが今の世だからこそ、「慧眼」を持つ人の活躍は多くの人を救い、世を変える力になるでしょう。

神様は一方的な「自己犠牲」を好まれません。
しかし、「我よし」ではなく「世のため人のため」に働く人間のことは大好きです。
しかし、神様が好まれる人材が踏みにじられるだけの時代は、そろそろ自分たちの手で終わらせるべきではないでしょうか。

人の手を借りずとも、権威や金の力を借りずとも、はたまた「神」の力を当てにせずとも、自らの才覚だけで切り拓く勇者を、時代が必要としているのです。