楽太郎です。
昨日、「日月神示解説」という記事を書きました。
そこでは、新たに世界を支配する神格が「天日月大神」であり、高天原と黄泉の国と葦原中津国、いわゆる神界と霊界と現世を統べるという話をしました。
今回は、前回の解説記事に加えると蛇足になりそうだった事柄について付記していきたいと思います。
さて、日月神示に予言されていた「三千世界の大洗濯」と「五枚の岩戸開き」と、昨今スピリチュアル界隈の中心的テーマだった「アセンション(次元上昇)」には密接な結びつきがあります。
本ブログでも度々取り上げていますが、新月と満月の周期で毎月異なる形で霊的浄化のウェーブが発生していました。
ある時には「過去への執着」であったり「人への感情的依存」であったりしました。
そのテーマが月の満ち欠けによって現れると、浄化に抵抗する人々の集合意識は邪気を生み出し、霊的な暴走をする傾向があったのです。
だから私は満月の日は大抵頭が痛く、まともに動けない日もままありました。
そして、去年の夏至から強烈な力を発揮し始めた季節分点は、二十四節気の巡りを利用して一つの区切りとなっていたようです。
昨年末の冬至には「神世」か「人世」を選ぶかの選択が問われ、ほぼ今年の運勢を決めるような目標設定を求められました。
そして今年の春分と5月の満月で、二度「神世」か「人世」を選ぶかの確認が行われました。
なぜ重ねて「選択の意思決定」が神々から問われたのかと言えば、日月神示でいう「神の道と獣の道」で人々を選分け、境界線を引くことで次の時代に進ませる人々を選ばれたのだと思います。
このように、太陽や月と地球の周転だけでなく、太陽系の星々や星座の逡巡とも影響し合いながら、宇宙的なスケジュールと並行して「アセンション」は進められてきました。
これらの占星術的な天体の巡りは、本来何十万年も前から予定されていた事柄であり、そのスケジュールに合わせてテーマが地上に降ろされ社会的な影響を生み出すことを考慮すれば、「アセンション」も「神々の浄化作戦」も、遥か昔から仕組まれていたのかもしれません。
奇しくも、日月神示を降ろされた「日月神」の御神名にある「日月」とは暦を示し、天体周期と密接な繋がりのある言葉です。
それゆえ、終戦一年前に岡本天明氏に降ろされた日月神示が、80年の月日を経て現代の私たちの目前に再現されることは、正しく「神からの啓示」に他ならないのではないでしょうか。
ゆえに、地球の次元上昇と天日月大神による新世界の到来は、どうも無関係とは考えにくいのです。
前回の解説で、一度目の岩戸開きは「伊奘冉命と伊弉諾命の再会」を意味すると書きました。
神話では伊奘冉命は火加具土命をお産みになられ、火傷が原因で黄泉の国に赴き、そこで黄泉大神となられました。
日月神示の霊界解説によれば、地上を巡る「気」が天上にそのまま還らず、傍に逸れて地獄的想念が溜まった場が「幽界」であるとされます。
昨今、スピリチュアル界隈では妙な話があり、「幽界が消失し始めているのではないか」というのです。
私はこれに関して実感があって、浮遊霊と生霊の大量発生の裏で、不浄霊の憑依も活発化しているのではないかと仮説を立てていました。
世には人間の心を無くしたような過激な人間が増え、その過激な人間を持て囃す過激な集団も増殖し、その背景の裏に私は「邪霊の憑依」を感じています。
つまり、幽界が縮退するにつれて行き場を無くした地獄的想念の不浄霊たちは、地上に居場所を求めた結果、似た想念の人間を苗床にし始めたのではないでしょうか。
従って、元々「獣」としての傾向が強かった人は、不浄霊の憑依が加わることで「獣化」が進行します。
ただ、憑依に対する「祓い清め」とは自ら行う意志がなければ浄化されないため、「神の道を選ぶか獣の道を選ぶか」を神々に問われた時、魂のレベルでの自由意志による決断を迫られたのです。
邪霊の憑依を受け入れ神を拒んだ者は、自らの意志で「獣の道」を進むのを選んだことになるため、今後は神に救われることのない道を歩むことになるはずです。
大神からの「分御霊(ワケミタマ)」である人間の魂は神の一柱であり、例え天界の神々と言えど神の一柱である人間の自由意志を無理に変えるわけには行かないのでしょう。
ゆえに、「自分の意志で次の時代を選ぶのか、このまま留まるのか」を選択させたのだと思います。
仮に神の道を進まないからと言って天罰が下るわけではなく、あくまで「神の加護から外される」だけでしょうが、それは迫り来る不幸を回避できないことを意味します。
従って、人間の「獣化」と世の動乱、アセンションとの相関は「幽界の消失」という面からも説明ができます。
しかし私の自説である「幽界の消失」と次元上昇した「地球の霊的気場=精神界」の出現は深い関係があり、幽界の消失で空いた霊的気場にスッポリ収まる形で「地球霊魂の気場」が作り上げられたとするなら、その霊的次元の創出にこそアセンションの真の目的があったと考えられるのです。
奇しくも、一度目の岩戸開きによって伊奘冉命が伊弉諾命と再会できるとしたら、黄泉大神としての任が解かれたとも解釈でき、つまり幽界が消失したからその国を治める必要が無くなったとも考えられるのです。
そして、これまで伊奘冉命は千引きの岩によって黄泉の国に閉ざされていたからこそ伊弉諾命と遭うことが叶わなかったので、黄泉の国を治める必要がなくなれば千引の岩を置く必要もなく、ゆえに両神は何千年、何万年越しに逢瀬を果たすことができるのです。
「地球」を支配しているのは国常立尊であり、神示によると日本列島は「国常立尊の影」であるとされます。
言わば、地球そのものが国常立尊大神の「御身体」であり、地球霊魂が「国常立尊大神の御霊体」であるとも考えられます。
だからこそ、幽界跡地に地球霊魂が上昇し、そこで新たな霊的気場を作るのは理に叶っているのです。
そして、地球霊魂であられる国常立尊大神=天日月大神と魂で繋がる人間こそ「神人」であり、新たな世界の礎となっていく人々なのだと思います。
このブログを遡ればわかると思うのですが、私がずっと「神世に上がるため」と表現して必死に自己浄化に専念してきたのは、次元上昇した地球の霊的気場にアクセスするには相当な精神的修行が必要だったからです。
それは「霊格」と言ってもよく、常識的な人格とは違う徳の高さであり、神示が「ゴモク(汚いもの)を捨てよ」「御魂を掃除せよ」と口酸っぱく述べられるのは、「我良し」という考えを持っていては地球意識を共有することができないからだと思います。
ゆえに「ミロクの世」が弥栄えるのは、我良しの考えは結果論で言えば合理的ではなく、人々が互いにWINWINの関係しか築かなくなるとしたら、必然的に繁栄し続けるしかないのではないでしょうか。
しかし逆に考えれば、今は誰もが「我良し」という悪に染まっているから一方的にWINLOSEなのだけど、長い目で見ればLOSELOSEだから先細り、世が行き詰まっていると考えることもできます。
その件に関しても神示には説かれていて、「世は金で治めて金で潰して、地固めする」とあります。
日本は戦後復興から高度経済成長、バブル崩壊から低成長の現代に至るまで、ずっと「拝金主義」の時代でした。
人々は精神的な豊かさよりも物質的・肉体的な価値を追い求め、ゆえに経済や社会が行き詰まっても「お金があれば幸せになれる」という目的意識から外れることができず、経済的利益を得る以外の発想を持つことができません。
今起こる日々のニュースを見ても、「法律に書かれていなければ何をやっても良い」「多少道理は違えても成果を出すべき」「お金があれば幸せになれるのだから金儲けは悪ではない」という考えが蔓延り、道徳的善悪が「利益=善」というロジックにすり替わっているのです。
だからこそ、成功や利益のためなら全てが奨励されるべき、という風潮の中で社会的制度もモラリティもおかしくなっているように思えます。
そもそも、物物交換の補助的手段でしかなかった「貨幣」という概念が、今では人の人生も魂も支配する仕組みになっています。
言ってみれば現代は「金で固まった世」であり、金で固まっているからこそ搾取と欺瞞に満ちた社会経済が固定化し、その毒が回って国家レベルで自家中毒にかかり、瀕死の状態にあるのです。
それがもし「金で潰される」のなら、こうして袋小路に入った文明社会も、全ては人類と世界のステップアップに必要な過程であり、世の建て替え・立て直しのために用意されたステージだったのでしょう。
ゆえに、これから先に起こることは大体予想できますし、私にはそっくりそのまま正規ルートのシナリオを辿るしかないように思えます。
人間は逆立ちしては生きられません。
しかし今の人々は頭を逆さにして、お尻を上に向けて両手で歩いているのです。
お尻が頭の位置にある人々が多いからこそ、世の中はおかしなことばかり起こっています。
今の世は逆さまの世界であり、心や思考があるべき場所に欲望が収まり、心ある者は損をし軽率な者はますます栄えます。
もちろん逆立ちは人間本来の立ち方ではないため、何をしても苦しいのは当然です。
誰もが違和感を感じ、できるならやめたいのだけれど、皆が逆立ちして生活しているから足を地面に降ろすことができないのです。
けれど、誰かが「やっぱり普通に歩くのがいいわ」と言い始めたら、徐々に逆立ちを恥ずかしがる人も出てくるのではないでしょうか。
人間は頭を上に向けて、両足でしっかり地に足をつけて生きるべき動物なのです。
常に息苦しいのは逆立ちをしているからであり、頭に血が下りていれば楽しくも生きられないでしょう。
そうして人々が本来のあり方・生き方を取り戻していけば、人類は自然と弥栄えていくはずです。
私は日月神示を信じるべきと言うつもりはありませんし、日本の神々への信仰を全ての日本人や世界中の人に押しつける気もさらさらありません。
むしろ、自分の信じる神秘的存在を追求し、身の回りに奇跡を感じて生きることこそ理想なのではないでしょうか。
ただ、この薄汚れた世界で人を信じれないとしたら、目に見えない存在を一旦は信じてみても良いと思います。
まして神を信じられなければ、自らを徹底的に信じてみることです。
おそらく、その姿を神々は見守り、時にはそっと背中を押すことでしょう。
いつも陰に「神様」はおられるのです。
人間が本来の姿となり、心と魂を取り戻した世界が、これから訪れる「神が再来した時代」です。
その世界が開けるまでの苦難を日月神示では「大峠」と表現しています。
その間の困難は想像を絶するでしょうが、そのトンネルの先には、必ず光の差す出口があります。