楽太郎です。
「審神(さにわ)」とは、日本に古くからある心霊に関する用語で、「人に懸かる霊が何者か」を問うことです。
私はこの「審神」を突き詰めると、自分の中にある「気」を「良い気」か「悪い気」か見極め、分別することに行き着くのではないか、と考えています。
自分や人に懸かる「霊」が善霊か悪霊か判断するのが難しいのは、審神者である自分がそもそも「気」の種類を分類しにくい状態だからではないでしょうか。
つまり自分に「悪い気」があるのが普通だと、「悪霊」が「悪」と判断できません。
「悪い気」を分別するには、それなりに「良い状態」を知る必要があり、また常に「気の状態」を意識し、他の気を分離できるようにしておくことも重要です。
この数日、少し体調を崩していたのですが、自分の中に「これだけ悪い気が残っていたのか」を知る良い機会だったと思います。
私は長いこと、この世に「闇」をもたらす「悪」という存在に対して、「抱き参らせる」方法を思索してきたつもりです。
時に相手が霊か人間かに依らず、「あからさまな悪意」を感じることがあります。
言葉にすれば口汚くなるような思念を受ける時、それを悪気なく感じ取り「許すことができるか」というのは、当事者になってみると非常に難しい問題です。
本気で命を取ろうとするものであったり、どうにかして人生を潰してやろう、とする深い憎悪に対して「どうすれば目前の悪に平常心でいられるのか?」ということです。
日月神示には「怒りは慢心である」とありますが、些細ならともかく首元にナイフを突きつけるような悪意に対して、どうすれば怒らずにいられるというのでしょうか。
幸いにもこの数日で、その落とし所がようやく見えてきた気がします。
今回の記事は「悪」をどうするべきかについて、人類が長いこと解決できなかった問題への一つの回答になると思います。
今回も長文になりますが、ご容赦下さい。
そもそも、「神心」とは何でしょうか。
神様は人々が争いに興じることなく、和して喜び、健やかに幸福に暮らすことを願っておられるはずです。
「神道」とは人々が自身の安寧を願い、神々から「祓い清め」を受けるためにあります。
そして、神はその心を喜び、悪しきを遠ざけ福を呼び込む、それこそが「神と人」の自然な繋がりであり、正しい関係と言えます。
「神棚拝詞」には「家門高く身健やかに、世のため人のために尽くさしめ給えと、畏み畏みも申す」という一文があります。
「世のため人のために尽くす」ことで人の世を良くする、それが「神の願い」であり、人のために尽くすことが「神のために尽くす」ことにもなるのですから、「神の御心」とは社会との協調、奉仕とも言えます。
ただ「世のため人のために尽くす」には「我良し」であっては成し得ないでしょう。
少しでも「損」をしたり、やる気も起きなくなればやめてしまうのでは「神の御心」に叶うような行動はできないはずです。
人間は「神心」になることはおろか、「神の御心」を慮ることすら難しいと言えます。
逆に「人間心」という言葉があるとしたら、道理よりも「方便」に偏り、他人よりも自分の利得や幸福を追求する考えと言えるかもしれません。
まして人は「世のため人のため」と思って取る行動が、逆の手になることすらあります。
「奉仕精神」が行き過ぎて自らを犠牲にしたり「善意」が先鋭化するあまり、却って「敵」を作ってしまうこともあるでしょう。
神の御心がわからない人間だからこそ、「神心」になろうとしても、逆に神の道から遠ざかることもあるのです。
まず、人間の「神」に対する「誤解」から解かなければなりません。
人間はしばしば「神」について、「魔を祓い福を呼ぶ存在」と考えます。
「神は良いことしかもたらさない」という考えがあるからこそ、一時的に「悪くなる」ことがあったとしても、それは「神の思召しではない」と思い込みがちです。
ただ冷静に考えて、神々は人間の時間感覚より遥かに長い視点でものを見ておられるので、半年や一年そこらで結果を欲しがる人間とは前提からして異なるでしょう。
むしろ神が「本当に」人の願いを叶えようとなさるとしたら、その成就に至るまで何度か「悪くなる」過程を経る必要すらあるかもしれません。
最終的に願いを叶えるために、人間の考える「良いこと」だけを数珠繋ぎにすることに意味はなく、またすぐに結果をもたらすならば、せっかく与えた「お陰」を落とすことになりかねないでしょう。
「悪銭身につかず」ではないですが、それこそ「神の導き」と言え、身にならない「お陰」は却って人を不幸にする原因を作り出してしまいかねません。
だからこそ、神はすぐに願いを叶えようとはなさらず、自らの努力や邁進する気持ちを大事になさるのだと思います。
ただ大体の人は、インスタントな気持ちで「御利益」だけを欲しがり、それらしい話があれば噂の神社に赴き、賽銭を投げて手を合わせれば良いと考えがちです。
これで願いが叶えば神様のお陰、願いが叶わなければ願い方が悪かったとか、神様が悪かったということにしたがるでしょう。
これは神様を「福をもたらすだけの存在」と思っているから取れる行動です。
しかし神様が本当に人の幸福を願われ、成長や将来の繁栄のために敢えて「苦難」をお与えになられるとしても、人間がその考えである限りは、せっかくの自分の成長の機会を「悪いこと」と捉え、学んだり乗り越えようとはしないかもしれません。
つまり神様は人の「願い」を叶えるために、「悪いこと」を起こすこともあるのです。
「神は善神だから禍事を起こすはずがない」という思い込みが、神と人との距離を遠ざけているとも言えるでしょう。
日月神示の「青葉の巻・第十三帖」に、こう書かれています。
「同じ名の神二つあると申してあろう、同じ悪にもまた二つあるのじゃ、この事は四海の火水ひみつぞ、この事分かると仕組み段々解けて来るのだぞ」
「◉(カミ)」にも「・(キ)」と「◯(ミ)」が存在し、やはり神であっても「・」の消失によって「◯」の「疑・悪・醜・憎」の性質が生じてきてしまいます。
前々回の記事「神の道」では、「ワヤ化」した神を「悪神=病神」であるとしました。
また人間が善神に対して「悪意」を持ってお祀りすると「悪神」が現れるという意味でも「同じ名の神二つ」とされる理由にもなり、「神に善神しかない」という思い込みが正しい信仰を妨げていると言えるでしょう。
ただ、そう解説されても神は「魔」を祓い、「悪神」から人々を守る破邪の一面があるのも事実です。
なぜ神は自ら「禍事」を起こしながら、「魔」に対峙しようとなさるのか、ここの「仕組み」がわからなければ「神の御心」がわからないのも無理ありません。
実は、この「神の御心」こそ「大神の御心」とも言い換えることができるのです。
そもそも、神が「お陰」をすぐにお与えにならないのは、人間が近視眼的である以上に「先」を見通しておられるからです。
神々の住まわれる世界は私たちの住む時間軸とは異なり、「永遠性」を持ちます。
人間と神々の視点が根本的に異なる一つの理由にもなるのですが、「永遠」の立場から人間の一生をご覧になられている神様は、「未来」を知るからこそ「現在」に求めるべきものもわかっておられるのだと思います。
つまり「先見の明」があるがゆえに、すぐに「お陰」を与えるべきではなく、むしろ先に「苦難」を与えさせた上で、人を導き成長させる方が目的達成の「近道」になる、それが神様のお考えなのではないでしょうか。
そこに起こる「苦難」は、人間から見ると「禍事」にしか見えず、すぐに御利益をお与えになられる神様に比べると「悪神」に映ることもあるかもしれません。
しかし、ここに本当の「親心」から、「悪銭身につかず」で出戻りさせるような二度手間にはさせたくないのが神様でしょう。
「先見の明」があるからこその「親心」であり、子供のわがままに合わせているだけでは「教育」しえないのと同様です。
たまには叱り我慢を覚えさせ、手塩にかけて「心」を育てるのが「親心」というものではないでしょうか。
最終的には、神様は各々の人に「自分の手で幸せになれる力を身につけて欲しい」のだと思います。
「御利益」で、仮に宝くじ一等でも当たれば大体の人は幸せになれると思っていますが、神が気まぐれで大金を掴ませて与えるような幸福は、まず長続きしません。
いつでも、どんな時でも自分の力で「幸福」を手にすることができる、そんな自分に成長すること自体が「お陰」であると、神様は考えておられるのではないでしょうか。
ただ、それが「神の御心」であるにしても、「善の神」が悪事や災難をもたらす仕組みを説明できているとは言えません。
神様が人を「親心」でお導き下さる「お陰」の裏側を伺うには、さらに踏み込んで「神界」を知る必要があります。
「日月神示」を読み解くと、地上を司る「八百万の神々」を取り仕切る「御三体の大神」は、「伊弉諾命・伊奘冉命・撞賢木向津姫命」の三柱であられることがわかります。
以上を「地の御三体の神々」とすれば、「元の大神」と考えられる「天の御三体の大神」とは「天御中主神・高神産日神・神産日神」の三柱となります。
「スの神」こと「御統」を中心として、二柱の系譜は中心の「・」で括られながら世代を繋ぎます。
また「三千宇宙」をお産みになられた後に御姿を隠された「天御中主神」は、二柱の御子神として「撞賢木向津姫命」に姿を変え、今に御顕現なされていると考えられます。
「撞賢木向津姫命」は「祓戸大神」であられる「瀬織津姫命」と比定可能であり、「天御中主神」の「・(澄みきり)」の御魂を持っておられます。
「スの神」の一柱であられる瀬織津姫命から見ると、この「三千宇宙」そのものが「天御中主神」の「◯」、すなわち「御玉体」とも言えるのです。
つまり、この宇宙に存在する森羅万象、あらゆる奇跡も禍事も「天御中主神」の「胎内」で起こっていることを意味しています。
「悪神」が「高神産日神・神産日神」の産み給われた神の一柱としても、広い視野で見れば天御中主神の分霊と言えるでしょう。
つまり「悪」とは「天御中主神=三千宇宙」の「影」であり、それは「倒錯する自由」であり「光の屈折」に過ぎないと、前回の記事「外道とは何か」では述べています。
「撞賢木向津姫命」が「表の天御中主神」とすれば、「裏」は三千宇宙そのものです。
神々が「代替わり」する度に「◉」は「・(澄みきり)」の性質を高め、反面として作り出される「◯」はより物質性を高めていきます。
そうして「あめつち」の中に幾度も生み出された「天地」は、私たちの住む宇宙の形を取るに至ります。
誤解を恐れず言うなれば、「地球」とは「穢れの塊」であり、その塵からあらゆる生命体が生み出され、そして私たち人間の肉体が造り出されています。
撞賢木向津姫命が「祓戸大神」として天と地の調和のために働かれる時、私たち人間からは「悪神」と対峙しているように見えます。
それは「平面」の視点での話であって、「立体」で見れば「◉(天御中主神)」として「御自身」の調和のために動いているとも言え、あらゆる罪穢れや禍事は、同一神の胎内での事象と言っても過言ではありません。
私が「瀬織津姫命」を崇敬していることは周知の事実だと思いますが、「裏のお姿」であられる「天御中主神」という御神格から全体を捉えた場合、「女神」としての純粋な光の部分だけを崇めるのは、どうしても「片手落ち」になってしまうのです。
「木を見て森を見ず」ではありませんが、「・」だけでなく「◯」も見ないことには、「撞賢木向津姫命」という大神様を正しくお祀りすることはできないのかもしれません。
簡単に言ってしまうと「悪」も「宇宙の一部」であり、「光」だけを求めるからこそ「闇」が際立つと言えます。
「月光の巻・第二十七帖」からの引用です。
「善と申すも悪と言うも皆、悉ことごとく大神の肚はらの中であるぞ、大神が許し給えばこそ存在しているのであるぞ、この道理をよく会得えとくせよ、祓うと申すのは無くすることでは無いぞ、調和する事ぞ、和して弥栄えする事ぞ」
「祓い」が「調和すること」とは、一体どういうことでしょうか。
私たちが考える「調和」とは、「払う」ような排他に当たる行為より、むしろ悪に迎合して同調することのように思えます。
これを理解するには、まず「祀り」についての真意を知る必要があります。
「日の出の巻・第九帖」に、こうあります。
「神は人にまつわるのだぞ、 ・と〇と申してあろうが、戦も ・と〇とまつらうことぞ、岩戸開く一つの鍵だぞ、和すことぞ、神国真中に和すことぞ、それには〇掃除せねばならんぞ、それが今度の戦ぞ」
この「◯」の掃除を「祓い」とすれば、まず「祓い」が先にあり、その後に「祀り」の段階を経る必要があるように読めます。
「極めの巻」には、以下の文言があります。
「清めるとは和すことぞ、違うもの同志、和すのがマコトの和であるぞ」
また「同・第六帖」に、こうあります。
「和すには5と5でなくてはならんが、陽が中で陰が外であるぞ、天が主で、地が従ぞ、男が上、女が下、これが正しき和ぞ、逆さまはならん、これが公平と申すものじゃ、陰と陰と、陽と陽と和しても陰じゃ、陽と陰と和して始めて、新しき陽が生れる、陽が本質的なもの、この和し方が祓い清め」
つまり「調和」が「同調」を意味しないのは、こういうことになります。
「陽」の要素を持つ事柄を「先」または「上」に起き、「陰」の属性を有する事柄を反対の方向に置くこと、むしろ「調和」とは「区別」であり、それも「・」と「◯」に「順位(いろは)」をつけるということです。
また「白銀の巻・第二帖」には、このことが詳しく書かれています。
「愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ、よろこびは形をとる、形なく順序なきもの〇であるぞ、善と真のはたらきを完全にするには善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ、融け合わせ、結んでヨロコビと現われるのであるが、区別することによって結ばれるのであるぞ」
そして、これが「日の出の巻・第五帖」の「『結び』がまつりであるぞ」という文言に繋がってます。
「・」と「◯」の間に「順位」をつけ「区別」すること、そこで「・」を優先することが「祓い」となり、「・」と「◯」は分別されることによって「結び」「和す」のです。
これは、改めて文章にまとめて感心してしまったのですが、私たちの考える「調和=同調」という考えからは全く逆になります。
私たちは、どんな嫌な相手とも仲良くなった方が良いと思い、人に対して優劣をつけず、同じ視点でいた方が望ましいと考えます。
しかし、天之日月神様からすると「そうではない」と、それが「悪平等」というものなのだ、と述べられるのです。
「五葉の巻・第九帖」に、こうあります。
「平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地を良く見よ、人民の申す如き平等も公平も無いであろうがな、一寸伸びる草もあれば、一尺伸びる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂点であるぞ、これが公平であり、平等と申すもの」
つまり、天から見れば「違うことこそが公平・平等」なのです。
対して「調和=同調」と考え、全ての草の背丈を刈り揃えるような「平等」こそ「悪平等」であると、日月神様は述べられます。
「調和」とは「・」と「◯」が「互いに異なる」という認識のもと、「・」に優先順位を定めることが「祓い」となり、祓い清められた「◉」は「和」の状態となり、好ましい「祀り」の形となるのです。
ゆえに下手な「同調」は却って「調和」の妨げとなり、「祓い」は排他的に見えて、実際は「和」の土台となるものです。
この認識のズレが、この世に「悪平等」が蔓延してしまった要因かもしれません。
だいぶ抽象的な説明が続きましたが、わかりやすい話に落とし込んでみましょう。
私たちが道すがら「嫌な人」に出会った時、一般的な倫理観なら当たらず触らず「何となく穏便に付き合おう」と考えます。
けれど、例えば新居の近所や就職先の職場などであれば、長く付き合うことから何とか懐柔策に打って出るでしょう。
その時に「同調しよう」と大抵の人は思い、同じような視点で仲良くなろうとします。
その苦手な相手に、もし好意を逆手に取って利用しようという頭があれば、同調すればするほど危険な状態に陥ります。
「軒先貸して母屋を取られる」という言葉がありますが、まさに今の日本と言えるのではないでしょうか。
まして、これが人間のように話が通じる相手ではなく、「悪神」ならどうでしょうか。
常人離れした悪感情と、論理を超越した敵意を持つ相手に、小細工は通用しません。
「酒を酌み交わす」までもなく、一方的に取って食うくらい手段を選ばない相手です。
善の神でさえも手こずるような神に対して、人間が取れる手段は一つしかありません。
それは、悪神を「祀ること」です。
逆説的なようですが、あまりに差があり過ぎる相手に対して、むしろその「格差」を利用した方が「和」に向かうのです。
日本には古くから「御霊信仰」という考え方があります。
古墳時代から顕著になった、動乱の絶えない時代が生み出した霊魂観であり、非業の死を遂げた身魂が「怨霊」となり、人や土地に祟るとしました。
「日本三大怨霊」と呼ばれる菅原道真、平将門、崇徳天皇もさることながら、長屋王や早良親王など、政争によって非業の死を遂げた彼らの災いを恐れた人々は、「神」として祀ることで怨霊を鎮めようと考えたのです。
これが「御霊信仰」です。
菅原道真公が「天神」と呼ばれ、学問の神様などとして今日でも神社に祀られているのは、こういった経緯があるからです。
人間が到底及びそうにない力を前にした時、古代の人々は「祀り返す」ことで「和合」を果たそうとしたのでしょう。
これは怨霊だけでなく、地域に災害をもたらす「荒神」に対しても同様で、被害が顕著だった地域ほど祠が多かったりします。
これは人間がどうしても抗えない「力関係」だからこそ、逆に「格差」を利用して「崇める」ことで特別な存在とし、また良好な繋がりに変えようとしたのでしょう。
それが「祓い清め」として考えれば正しく、順をつけて「・(御霊)」を優先し、「◯(人間)」の方を従とすることで、この「結び」は成立し「和」となっているのです。
そう考えると「撞賢木向津姫命」が「括りの神」、「天御中主神」が「三千宇宙」となっている構図も別の見方ができます。
「御統」の正統継承者となられる天日月大神始め、その主宰たる伊弉諾命が別の「天御中主神」となるのも、「スの身魂」と言える撞賢木向津姫命が二柱の大神の「結び」の役割を担うのも、「スの神」が神々にとって至高の存在であるからです。
神界では「◉(大神)」の「・(澄みきり)」を最上位と考えるのは、「祓い清め」こそ最高の美徳と考えるからではないでしょうか。
その意味で天日月大神始め、八百万・中津世の神々、神人を含む「大日月地大神」が全宇宙を「司る」形を取るのは、「天御中主神」の「御玉体」たる三千宇宙を、最も外側の「◯」とするからと考えられます。
「・」を優先し祓い清め、「◯」を「従」としていくと、なぜか神の「胎内」に生み出された被造物が外側の肉体に先立ってしまうことになります。
しかし常に内側に造り出される「・(澄みきり)」は、新しく産み直されるたびに「純化」の度合いを深めていきます。
こうして見ると、神界そのものが「祓い清め」の仕組みに準じており、三千宇宙こそ「神道」そのものかもしれません。
そして、私たちが住む「地球」とは言わば塵の堆積物であり、私たちは塵の化合物を「肉体」として生きる、この三千宇宙ではおそらく最も波長の低い「霊人」なのです。
「悪霊」や「悪神」といった「幽界」的存在も、「◯」の形質から生み出された被造物であり、以前お話したように宇宙にとっては「自由」の範疇にいる存在です。
「月光の巻・第六十一帖」には、こうあります。
「相手を神として拝めば神となるのじゃ、そなたは悪人は悪人じゃ、神として拝めとは無理じゃと申しているが、一枚の紙にも裏表あるぞ、そなたはいつも裏ばかり見ているからそんな事になるのじゃ、この世は皆、神の一面の現われであるぞ」
この「悪人を拝む」という言葉が、先の「御霊信仰」の話に繋がります。
世の悪に対して、「祓い」祀り合わせることに「和」があるとしたら、順序としては「悪」を一旦「区別」した後、その区別を以て「調和」に繋げねばなりません。
「まつりの巻・第五帖」に、こうあります。
「邪じゃ祓うとは邪無くする事ではないぞ、邪を正しく導くことだぞ、追い払うでないぞ、まつろえよ、引き寄せて抱き参らせよ、取り違いならん、大切事ぞ」
「春の巻・第七帖」では、こうあります。
「人民と申す者は神の喜びの、全まっとき現われであるぞ、いくら穢れても、元の神の根源神のキをうけているぞ、それを育てることじゃ、導くことじゃ、死なんとする人助けるのもその一つじゃ、宿った子殺すことは、人民殺すことじゃ、今の人民、九分九厘は死んでいるぞ、救え、救え、救え、おかげは取り徳じゃ、生かせよ、生かせよ、生かす理みちは神示読むことじゃ」
「御霊信仰」は、世に憎悪を抱く怨霊を「神」として丁重に祀り、祭祀する側の人々が「怨霊」を「善霊」に導いたと取ることもできます。
最初から「邪」を祓うつもりなら、高名な僧や神官が「悪神」を捩じ伏せれば済んだ話かもしれませんが、日本人はむしろ「抱き参らせる」ことを選択したように思います。
そして「救われた」御霊は、今度は人々の安寧のため、自ら働かれるようになったと考えられます。
この仕組みこそ、「悪を抱き参らせる」ことそのものではないでしょうか。
この100年続く「大峠」にテーマがあるとしたら、「悪を抱き参らせる」ことを通して、その学びを得るためにあると考えられます。
「悪」は本来存在せず「多様性の現れ」であるとすれば、それまで「悪」を滅しようとすることでむしろ争いが絶えなかった「闇の時代」この三千年も、人類の「教訓」に変えることができるかもしれません。
人類をお造りになられた神の「親心」とは、同類同士が殺し合い、喰い合うようなことをやめさせ、「学び」を得させることにあるのだと思います。
「平和」を「善」としても、「無抵抗主義」や「暴力反対」なだけでは「悪」を却って増長させてしまいました。
それを「神心」と称するのならば、「悪」も善の一部であり、全てが「光」の現れとして「悪を抱き参らせん」とする境地は「大神心」と呼べるのではないでしょうか。
人間の寿命は、たかだか長くて百年強です。
現代を生きる「元つ神」は、少なくとも46億年前からこの世におられることになります。
常世と現世では時間の定義が違うとは言え、人間の時間感覚がどれほど刹那的かということです。
「お陰」がすぐに欲しいのが人間というものですが、神は「見通し」だから、その導きによっては一時的に悪いことが起こるように見えるでしょう。
そして、三千年続いた「闇の世」であってもそうであり、「禍事」は先見の明を持たれた「大神」だからこそ成しうるのです。
そして、世に起こる戦争や動乱も、本質的には「一次」的なものです。
一次とは「一次元」であり、「線」であり「二項対立」が全ての世界です。
線が繋がり「二次元」となり、さらに辺が重なり「三次元」となって、ようやく全体像がわかります。
「平面」で見たら善悪に取れることでも、「立体」で見たら善悪ではないのです。
これは「神」よりも一段高い視点、「大神」の視点に立てばありやかに見えてくるように思います。
そして「神心」であるのがこれまで「聖人」の遺した教えであるなら、これからを生きる神人たちは「大神心」である必要があるのではないでしょうか。
「悪を抱き参らせる」には、現実問題として小悪人をおだて上げるようなことを行っても、ロクなことにはならないでしょう。
大事なのは「迎合」することではなく、むしろ「区別」することにあるのです。
この世界には凹凸があり、想像を遥かに超えた複雑な仕組みで成り立っています。
そこでの千差万別を一旦受け入れた上で、全ての「違い」を容認してこそ、「調和」という考えに至れるのかもしれません。
その考えは、単純に言えば「私は私、貴方は貴方」であり、「おらが村はおらが村、都会は都会」でしょう。
そこに「区別」をつけ、「自分(・)」は「・(己)」としての成長を目指すことにこそ「弥栄」があると言えます。
これは、これからの「日本」を考える上で、重要な意味を持つかもしれません。
自らに優先順位を設けることで、「自分」はノイズとなる影響を退ける、つまり「祓い清め」を行うことができるのだと思います。
降りかかる「悪意」や「敵」に対しては、それが生じるのも「宇宙の摂理」であり、どこにも「悪」は存在しません。
それがどれだけ忌まわしいものに見えても、この世に「あって良いもの」なのです。
ただ、それが自分に「関わる」可能性がある時に問題が生じます。
自分が出張って脅威を排除しようものなら、こちらが「侵略者」になりかねません。
相手が人間ならともかく、悪神や悪霊の類と繋がる部分を断つには、自分の心にある「悪」の霊線を断ち切るしかありません。
「悪心」に対して「私は私、貴方は貴方」と言えるくらいには、心の中で分別できるようにならなければいけません。
それが心霊のレベルで言う「祓い清め」であり、その実践こそ「神道」と言えるのではないでしょうか。
「悪心」を「あっても良いけど、自分にはない」と言えるほどの浄化に至れた時、「悪」は抱き参らされるのかもしれません。
「地の岩戸開き」が叶い、「天日月大神」が地上に御降臨なされる時、伊弉諾命・伊奘冉命の二柱は「高神産日神・神産日神」の次元まで戻られるはずです。
その時、二柱から誕生した「悪神」たちも再び親神の「胎内」に戻ることになり、文字通り「抱き参らされる」のです。
そういう意味で、二重に「抱き参らされる」悪に逃げ場がなくなるのは当然です。
その「良き世」を作るには、まず自分の中の「悪」と「和合」しなければなりません。

