楽太郎です。
今、12月21日の「冬至」に向けて、神々の「お祓い」が本格派しています。
これは前日の20日新月も念頭にあると思いますが、まさに邪気の「炙り出し」と言って良い状況です。
10月6日満月で霊的な山場を迎えて以降、潜在的に邪気邪霊の類も悪あがきに必死になり、先の新月あたりからは再び衝突ムードになっていました。
だから最近は、わりと霊障や憑依がよく見られる傾向にあったと思います。
日本の気場全体は落ち着いているのですが、「集合意識」周りでの混乱が酷くなってきたように感じます。
おそらく今年の冬至は、去年にも増してエネルギーの切り替わりが極端で、年明けになってもなかなか調子が整わない方が頻出しそうな雰囲気があります。
私は先回りして冬至のエネルギーを受け取っているのですが、これまでの貧弱な覇気を覆すような強い波動で、言ってみれば「漢気」溢れるエネルギーです。
これまでスピリチュアリストは、女性的な宥和感のある方が多かったので、今回のエネルギーを受けたら馴染みにくい方もおられるのではないでしょうか。
私は「神様が人の心に火をつけて回っている」と表現しましたが、この強い波動を取り込むことで、一気に壁を破る突破力に目覚める可能性もあります。
もしかして、そうして人々にガッツを取り戻させることで、神々が世に「変革」のムードを高める意図があるかもしれません。
さて、今回のテーマは「輪廻転生」についての解説です。
私はこれまで、当たり前のように「魂は輪廻する」と申し上げてきましたが、厳密に死んでわかった訳ではなく、科学的に証明できる訳でもありません。
それでも「さもありなん」と語ってきたのかと言えば、霊感のある方ならわかると思いますが、どう考えても「別の世界」の存在を認めざるを得ないからです。
その「目に見えない世界」において念頭にあるのは「霊界」です。
私は「幽霊」も「神」も「悪魔」も実際に存在すると思っていますが、残念ながらそれを証明する術がないため「輪廻転生」も実証できません。
「神」と「霊」がいるなら輪廻をするはず、と私は考えているのですが、仮に人が死んで「霊魂」になったとしても、それが一度霊界に上がりまた地上に戻ってくる、という理屈には繋がりません。
ただ私の実感に基づくならば、「悪魔」など魑魅魍魎の類は人間を不幸に陥れ、無知蒙昧な状態にさせておくことを喜びます。
そうして世に「悪逆非道」が蔓延ることを理想としながら活動しています。
対して「神」という存在は、人間に加護を与え災厄から守り、幸福や喜びをもたらすことを是とします。
この対極的な性質は、人間が「悪」に背を向け「幸福」や「平和」の先にある「神」と同じ理想を志す限り、邪気邪霊は「祓うべきもの」であることになります。
その状態において「悪」が常に対峙すべき事象であり、神と同じ思想を持ち続けることは否が応にも自己を向上させるでしょう。
つまり「神」と同じ理想を志すのは、それだけで「修行」となります。
人間が数十年、下手すると子供のうちに命を落としてしまいかねない世界で、たった一度きりの人生を全うしたくらいでは大した「修行」にならないかもしれません。
仮に人間の霊魂が一度きりの人生で終わらず、繰り返すことがあるとすれば、そのプロセスこそ本格的な修行となり得るでしょう。
「魂の修行」を一度の人生で終わらないものだと考えたら、「輪廻転生」は存在する方がむしろ合理的に感じます。
また仏教的な考え方を引き継ぐと「因果応報」という概念にあっても、一度きりの人生の時間では「報い」を必ず受けるようにも思えません。
もし本当に「因果応報」があるとすれば、極悪人が例え死後に地獄の業火で焼かれようと、「ただ罰を受けて終わり」では何の意義も感じられません。
この世の巡りを司る神が存在し、「因果応報」に重要な意味を持たせるとしたら、「報い」とは「自分が同じ目に遭ってみる」とか「罪の償いをさせる」ことで「学び」を促すことになるのではないでしょうか。
犯罪者に危害を加えられた被害者にとって、「報わる」ことがあるとすれば加害者が罪をきちんと償うことにあるはずです。
もし悪人が死んで罪を償う機会を与えられないとしたら、悪人が更生し被害者が救済されるチャンスもありません。
従って、この宇宙を神が司り秩序や公平性を保っているとすれば、人間の短い一生が単発的にある程度では、処理しきれない事象がたくさんあると思われます。
ゆえに人間の行いを司る「神」が本当に存在するとすれば、人間には「死後」と「生前」の時間軸が存在する必要があり、それは「輪廻」という概念に結びつくのです。
では、なぜ人間はこの地上に何度も生まれ落ちるのでしょうか。
それは先に挙げた通り「魂の修行のため」と考えられます。
人間が何度も人生をやり直すことで、前世の反省や教訓を引き継ぎ、また再挑戦することや過去世での罪や過ちの賠償も果たすことができます。
ただ、この説は比較的一般論に近く、仏教の根強い我が国では広く知られた考え方です。
このブログでは「日月神示」を取り扱っているため、折角なので神示ではどう語られているのかを見ていきたいと思います。
「白銀の巻・第二帖」に、以下の文章があります。
「天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ、天国は霊人のみの住む所でないぞ、そなた達も今住んでいるでないか、霊人も現界に住んでいるでないか、現界を離れて天国のみの天国は無いのであるぞ、故にこそ、現界で天国を生み出し、天国に住めん者が死んで天国へ住める道理ないのじゃ」
日月神示によれば、人間は「天国」と「現界」二つの世界にまたがって二重に存在しているとされます。
ここでの「天国」は「霊界」と同義ですが、死後に初めて霊界に行く仏教的な解釈とは食い違う部分が生じます。
人間は「生きながら霊界に住んでいる」と言っているのです。これはどういうことでしょうか。

わかりやすく解説するためにスライドを用意したのですが、注釈をつけるべき事項が多いため多少混乱なさるかもしれません。
できる限り簡潔にご説明したいと思います。
人間の意識は「大我(ハイアーセルフ)」と「小我」の二つに分かれるとされます。
「大我」とは無意識、超自我としての「自分」であり、対して「小我」は自覚可能で、コントロールできる範囲の自我です。
この「大我」は霊魂として「霊界」に属し、これを神示では「天国は霊人のみ住むところではない」と評するのだと思われます。
とすれば、「小我」とは「現界」にある自分の意識そのものであり、「大我」や「霊界」を認識し得ない説明にもあります。
ここで「大我」をゲームの主人公を操る「プレイヤー」に見立て、「小我」をゲームの操作キャラ「アバター」として扱っています。
この部分は、わりと後になって重要になってくるポイントです。
「小我」というのが日常にあくせくしながら思い悩む私たちの「リアル」ですが、この苦労を土台にして「霊的修行」が行われることになります。
「黄金の巻・第七十八帖」には、こうあります。
「先祖は肉体人を土台として修業するぞ、めぐりだけの業をせねばならん」
「霊人」にも種類というか「階層」があり、図に示したように「神」から「幽霊」まで幅広いランクが存在します。
上位に行くほど霊格は高まっていくのですが、「先祖霊」よりも時代を遡る「遠津祖(おや)」や現代人の加護につく「守護霊」は、やはり霊格が高い扱いになっています。
どうもこれらの様々な「霊人」が、霊界に住まうもう一人の自分、「大我」と交流を取りながら「小我」の自分にアプローチをしているようなのです。
「冬の巻・第一帖」に、こうあります。
「霊界に於ける自分は特に先祖との交流、交渉が多いぞ、よって自分の肉体は自分のみのものでないぞ、先祖霊と交渉深いぞ、神はもとより一切の交渉あるのであるぞ」
こうして考えると、私たちが先祖からの血の繋がりから「因縁」を体感することもあるのは、現に「先祖霊」が霊界にある大我と直接関わっているとすれば、あながち無理な話には感じません。
おそらく「血族」とは「類魂(グループソウル)」の一種であって、大我は過去世全ての因縁と肉体由来の因縁を持ち、非常に複雑な背景があるのかもしれません。
同じ文節の続きに、こう述べられています。
「その祖先霊は神界に属するものと幽界に属するものとあるぞ、中間に属するものもあるぞ、神界に属するものは、正流を通じ、幽界に属するものは外流を通じて自分に反応して来るぞ」
日月神示では、「本守護神」という自分の霊魂本体に対して、神界に繋がる「正守護神」と幽界に繋がる「副守護神」があると説かれています。
この「正守護神」を「正流」とするなら「副守護神」は「副流」とし、それぞれ「神界」と「幽界」に繋がるということです。
そして現代を生きる私たち「肉体人」は、「神界に住まう霊人」と「幽界に住まう霊人」と大我を通した交流の中で、肉体を土台にして修行するとされます。
また小我のある「現界」では、同じ境遇の「アバター」の人々、霊人にルーツを持つ肉体人との関わりもあり、その現実的な交流の中で修行することで関わる全ての霊魂が磨かれていく、そういうことだと思います。
さて、次のスライドから「人間が死んだらどうなるのか」を解説します。

まず、「白銀の巻・第五帖」に重要な文言があります。
「天地の中間を中界と申す、天の息吹きと地の息吹きの中間ぞ、天国へ行くも行かんのも、先ず落ちつく死後の始めての世界であるぞ」
岡本天明氏による著述と思われる「地震の巻」では、「中界」が人間の死後「四十九日」を過ごす場所とされており、ここで生前の癖や執着を抜け切って霊界に入っていくと述べられています。
ただ上手くいかない人もいるようで、最長期間としては「約20年」だそうです。
人間の霊魂は死後、肉体を離れて「中界」に入り、霊界に戻って「大我」と合流し、おそらく人格的統合が行われることになると思われますが、ここで現世に「未練」や「執着」が強く残っていると、その想念が霊体から分離して現界に留まってしまうようなのです。
「春の巻・第三十二帖」に、こうあります。
「想念は永遠にはたらくから、悪想念は早く清算しなければならんぞ、中の霊は天国へ行っても、外の霊はこの世に残るぞ、残ってこの世の事物にうつって同じこと、所業を繰り返すことあるぞ」
これがつまり私たちの認識する「幽霊」というものであり、霊体を残さず「残留思念」として土地に残ることもあれば、「浮遊霊」や「地縛霊」のように、特定の物事に執着するために浄化されない霊体となります。
ここで興味深いのは、「中の霊」と「外の霊」が別体になることがあり、つまり「霊魂」本体は「成仏」して霊界に上がっても、「外の霊」は幽霊になりうるという点です。
これは心霊マニアの私としても、かなり納得のいく説明で腑に落ちる部分があります。
人間が死んだ後、浮かばれず霊界に上がれないとしたら、「幽霊」となった霊魂は輪廻転生しないのかと疑問に思っていたのですが、こう考えると本体は「成仏」して転生までしているのに、自分から乖離した「幽霊」は地に残ることもあるのかもしれません。
そう考えると、霊の世界は人間の常識では推し量れない気がします。
そして、大我と合流した小我の霊体は、子孫がいないにしても「先祖霊」の仲間入りをし、今度は後裔の血縁者の肉体を介して「修行」することになるはずです。
また、肉体的な縁だけではなく、もっと大きな括りでの「類魂」や因果の巡りの中で、霊魂は広く様々な交流を持つのだと思います。
あと付け加えるなら、最近は特に「生き霊」を飛ばし合う人々が多いせいで、どう見ても死霊ではない霊体が多いのですが、これはどうも「憑依」に押し出された人の念が、まるでトコロテンのように不浄霊の邪気に乗っかって他人を襲うケースが見られます。
これは「悪魔」や「魑魅魍魎」の仕業よりもタチが悪い場合も考えられ、人間の念は今を生きている「神」のエネルギーなので、実体のない霊に比べて遥かに強力です。
だから私は、やはり「生きている人間」以上に怖いものはないと確信したりします。
さて、ここまでは「生まれ変わり」の流れを解説してきましたが、「肉体人が霊人の土台となって修行する」のはこういうことです。
それは「修行のために地上に生まれる」という根拠にもなり得るのですが、もう一つ人間が地上に生まれる理由があるとしたら、「神の宮となるため」とも考えられます。

「黄金の巻・第四帖」からの引用です。
「神は人となりたいのじゃ、人は神となりたいのじゃ、霊は形を、形は霊を求めて御座るのじゃ、人は神の入れ物、神は人のいのち」
どうも神様は「人間になるために人間を作った」と考えられる節があります。
このことについて、掘り下げてみます。
天明氏の霊界解説と思われる「地震の巻」を読むと、どうやら霊人たちは似た波長の者たちで「世界」を形成し、それぞれ時間や空間を同一にしないコロニーに生きていると考えられます。
スピリチュアリズムには「引き寄せの法則」なるものが存在しますが、それが実際に霊界では強く働き、「似た者同士」でいい塩梅の「楽園」を形成してしまうようなのです。
他の霊人が「天使」のように純粋で優しい人たちなら、私たちが想像する「天国」に近いでしょう。
しかし「サバゲー」を愛好する人々のように、戦いや殺伐とした空気が好きな霊人は戦場的な世界を「楽園」と感じるでしょう。
これを私たちが見たら「地獄」のようにしか見えませんが、彼らはギリギリの命のやり取りをすることを至上の喜びとする「戦闘部族サイヤ人」みたいな人種なので、「ちびまる子ちゃん」の世界に生きる私たちには違和感が生じるだけかもしれません。
こう考えると、天国に住まわれる神様も蝶よ花よの世界に暮らしておられると考えられ、しかも「全知全能」であられます。
まさに「完全無欠」の「超平和な理想的世界」に生きる神々にとって、人間の住む地上は全く異質極まる世界でしょう。
それどころか、全く世界の「法則」が異なる物質宇宙は、神ですら能力に制約のかかる「不自由ある有限の世界」です。
全てに万能の神々にとって、有限で凹凸だらけの不完全極まる世界は、自らの再発見や成長を促す魅力的な空間かもしれません。
「白銀の巻・第二帖」に、参考になりそうな文言があります。
「竜神と申しているが、竜神にも二通りあるぞ、地からの竜神は進化して行くのであるぞ、進化を嘘だと思うは神様迷信ぞ、一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ、この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ」
人間が「神」になりたいと思い、霊界の上層に上がるために魂の修行をするのはわかる理由です。
しかし、すでに「全知全能」となった神々は、それ以上成長することが難しいのかもしれません。
神々が自ら望んで「退行=堕落」を志すとは思えないので、おそらく更なる成長のために人間という「不条理の塊」の肉体を通して、知見を深められるのではないでしょうか。
そう考えると、「弥栄」という未来永劫の発展を理想とする神々の目的と一致します。
霊界と現界では「フトマニ」と呼ばれる、神ですら破れない宇宙法則があり、それが神能に制約を作り出しているようです。
万能の神々にとって「思い通りにならない」ことはむしろエキサイティングなことかもしれず、それは人間とは真逆の感覚でしょう。
ゆえに「二つの龍神」は互いに利害が一致するために、補完関係になり得ると言えます。
そして、人間からボロカスに扱われても見放すことなく、人間を救い育てようとなさる神様たちが、なぜここまで人間にご献身をなさるかと言えば、それだけ人間のことが大好きだからとしか考えられません。
それに対して人間は「神様なんていなくたって生きていける」と強情を張り、チャチな技術に天文学的な予算を突っ込んで「ニセ神」を電子空間上に作ろうとしているのですから、未だに現代文明人は思春期の子供のような感覚なのでしょう。
そう考えると、神様から見れば人間はまだ「手のかかる子供」なのかもしれません。
話を戻しますが、「同じものの見方」が集まっただけでは大した成長がありません。
似た者同士で意見の帳尻を合わせているだけではいずれ議論も骨抜きになり、なあなあになっていきます。
こういう時「別の視点」を持つことは重要で、霊界上位の天人や神々は全く視点の異なる人間と関わることで、知的な刺激を受けているのかもしれません。
「白銀の巻・第一帖」に、こうあります。
「各々の世界の人がその世界の神であるぞ、この世ではそなた達が神であるぞ、あの世ではそなた達の心を肉体としての人がいるのであるぞ、それがカミと申しているものぞ、あの世の人をこの世から見ると神であるが、その上から見ると人であるぞ」
やはり、私たちから見た「神」も神界では「人間」であり、その神が地上では人の心に住まうことで生命するのでしょう。
まとめると、人間はこの地上で「霊人」が修行するため、また神が人の心に住まうための「依代」であると言えます。
そのために地上に人間が作られたと考えられますが、人間はさらに「霊人」として向上するために、この理不尽な世界で肉体を通して「修行」をすることになります。
これが「日月神示」を元に考察した、大まかな「輪廻転生の理由」です。
最後に「先祖霊は肉体人を土台にする」ことについて述べ、終わりにしたいと思います。
子孫や末裔の肉体を通して先祖霊が修行するということは、子孫がこの世で「修行」すると霊界での待遇が上がり、怠けていたらご先祖様の霊格は上がらないということです。
現代人は自分の頭で大して考えず、お金を使って楽をしようと思い、楽をするのが人生の目的と考えている節があります。
まあ、そうは言っても現実は上手くいかず、楽をしたいのに一向に楽にならないのですが、それでも現代は自分を成長しないようにする仕組みが沢山あります。
ご先祖様からすると、自分の「霊格」を上げてもらうために霊界から子孫に発破をかけるでしょうが、本人の大我が命じても小我の意地で指令を捻じ曲げてしまうのが人間というものです。
肉体人が修行に励んでくれないと、霊人は霊界の上層部に上がれないため、「天国」に近づきたくても行けないでしょう。
これは逆に言えば子孫が修行に励めば、先祖霊は「天国」に近づけるということです。
つまり、肉体人の修行そのものが先祖霊の「供養」となるのです。
私たちは仏壇にお花を備えたり、お経を読むことを「先祖供養」だと思っていますが、霊的な説明に基けば子孫が修行に励んでくれた方がご先祖様は報われるのでしょう。
また、人間が身魂を磨き神の依代になるというのは、それだけで神の役に立つことになるはずです。
子孫が神様から神徳を得ることで、ご先祖様はさらに霊格が上がることになり、供養に繋がると考えられます。
その上、自分も神様から「お陰」を得られるはずで、どの方向から切り取ってもWINWINになる仕組みとしか思えません。
今は神界・幽界・現界を巻き込む霊界大再編の時「大峠」だからこそ、神世を前にしてご先祖様は霊格を上げてほしいと思っておられるかもしれません。
私たちは無意識にそれを受け、霊界から発破をかけられている最中かもしれません。
ただ、藪から棒にこんな話をされたところで「じゃあ今からがんばります」とならないことはわかります。
ご先祖様はともかく、自分の身の振りすらどうにもならないと感じている方もおられると思います。
それでも、時代が変わり世が一新する時を寸前にして、そのチャンスを掴まないのは勿体ないと私は思います。
今回は「転生勇者」に引っ掛けた図解にしてみましたが、私たちは異世界に飛ぶことなく、まさに異世界に生きていると言えます。
「違う世界に生まれたらよかった」と思ったところで、残念ながら実際に死んでみないことには巨乳のエルフとは出会えないかもしれません。
それでも、この超ムズゲーの世界に生まれてきた私たちは「勇者」に違いありません。
これから異世界に飛ばなくても、命がけで努力すれば無双することだって夢ではない世界に今を生きています。
もし「輪廻転生」を人間が死んでから生まれ変わることを言うなら、正しくは「死に変わり」でしょう。
「生き変わり」という言葉があるならば、それは「生きながら変わる」ということです。
別に死ななくても、この困難な世界に転生さてきた私たちは今でも「勇者」であり、これからさらに立派な「勇者になれる」のです。
私は生きながら「転生」できると信じてますし、それは人間の意志で決められることだと思います。
今は、神々から「勇者の旅立ち」が促されている、そんな時期だと思います。

