「一二三(ひふみ)」とは、単刀直入に言うと「神示を実践すること」にあると思います。
日月神示「日月の巻・第三十二帖」には、こうあります。
「おもてばかり見て居ては何も分かりはせんぞ、月の神様祀ってくれよ、この世の罪穢れ負いて、夜となく、昼となく守り下さる素盞鳴神様、篤あつくまつりくれよ、火あって水動くぞ、水あって火燃えるぞ、火と水と申しておいたが、その外に隠れた火と水あるぞ、それを一二三ひふみと云うぞ、一二三とは一二三と云う事ぞ、言波ぞ、言霊ぞ、祓いぞ、🌀ぞ、スサナルの仕組みぞ、成り成る言葉ぞ、今の三み一体は三み三体ぞ、一ひと現われて二三ふみ隠れよ、月とスサナルの神様の御恩、忘れるでないぞ、御働き近づいたぞ」
天地を司る「日の神」こと「伊邪那美の神」と「月の神」であられる「伊邪那岐の神」は、日本神話で言えば「(真の)天照大御神」と「素戔嗚命」に比定できます。
この夫婦神は、真逆の性格を有すると考えられ、まるで「表と裏」のような関係にあられる御存在です。
概念世界では、「表と裏」「内と外」のように「一体」であるはずのものが、「空間」の世界に出れば平面上で同時に存在する、という奇妙なことが起こります。
この時、「伊邪那美神」が主位のところ「伊邪那岐神」は従位、「伊邪那岐神」が優位であるところ「伊邪那美神」は劣勢と、完全なる「+」と「−」なのではなく、二柱の個性に「一長一短」が相互に折り重なる形で現れているように見えます。
「海の巻・第二帖」にも「火の蔭に水、水の蔭には火ぞ」と語られており、二柱が「火の司宰神」「水の司宰神」でありながら、互いに相反する属性を併せ持つことが示されています。
すなわち、二柱の神はどちらが一方的に「優位」であると言うよりは、「五分五分」と捉えることができます。
「伊邪那岐神」が「五」、「伊邪那美神」が「五」を持ちより、揃って「十(火水・カミ)」となるのです。
これこそ、元津神の総数が「十柱」とされる所以でしょう。
二柱の「五と五」の間には、結びの力「・(キ)」が働くとされます。
その力を神格化したのが、「つきさかきむかつ姫の神」とされる「御三体の大神」の一柱になります。
正反対の性格を持たれる二柱の夫婦神を「取り持つ」ならば、それを「受け持つ」と言い換えることもできます。
それが「保食(ウケモチ)の神」として現れ、「橋渡し」と「箸」を象徴する神とも言えるでしょう。
すなわち、二柱の調整役であり「調和」を司ることは、祓い清めの女神「瀬織津姫命」に繋がるのです。
「火と水」、この両者の「荒ぶる」面「光と闇」の相反を調停することで、「つきさかきむかつ姫神」は宇宙のバランスを司っていると考えられます。
「天地の岩戸開き」以前の「八方世界」では、「五と五」として別々の御活動をしておられた二柱が、「大日月の大神」となられた「十全世界」では、御一体となられ「十」で一、一柱で「五」になるのです。
これを日月神示では「五十連いつら」と呼びます。
「中の人二人、外の人三人」とされる大宇宙を司る御三体の大神、「伊邪那岐の神」「伊邪那美の神」「つきさかきむかつ姫の神」は、「三身三体」から「三位一体」となられた時、一つにまとまり三千世界は「和合」するのです。
「三千世界」を取り巻く「大宇宙」は、「火と水」という対極の性質を持つもの同士が協立、「共存」することで成り立つ世界と言えます。
あたかも「水と油」のような、正反対の性質を持つものが調和しなければ成り立たない世界と言えるのですが、これら「対極」のものが両立して一つになる世界こそ、「ミロクの世」なのでしょう。
それを「悪を抱き参らせる」世とするならば、「善悪」の両立を「善」とする世界でなければなりません。
しかし世界が「平面」である限り、「+と−」がシーソーゲームのように、どちらか一方に傾きがちなのは「神界の仕組み」からして無理のない話なのです。
「+と−」の間を取るには「0」でなくてはならず、「神の道」とは「調和」の道、「中道」なのですから、「ニュートラル」であることが理想の状態と言えます。
ただ、自然に+か−に傾いてしまうのが世の「摂理」である以上、「我」のある人間が常に「0」であることがどれほど難しいのか、想像に難くありません。
それゆえ、日月神示では「我を出すな」と語られます。
「0」を基点とし、ニュートラルの状態を維持するためには「身魂磨き」、「心の掃除洗濯」が欠かせないでしょう。
「神」に身を委ね、神の御旨に「息」をして生きるには、「我」が出てしまうようでは難しいと言わざるを得ないからです。
それこそ「神の道」が「祓い清め」であることの理由だと思います。
そして、神から頂いた「息吹」を言葉にして形にすることを「一二三(ひふみ)」と呼ぶのでしょう。
先の「一と現れて二三隠れよ」とは、「日=光」を仰ぎ「影と闇」を見るな、そういう意味にも取れます。
「祓い清め」とは「神=日」の力によるものなのですから、絶えず穢れてくる人間にとっては、まず「神」の御加護を頂くことが大切です。
もちろん人の反応は「それぞれ」ですが、「日月神示」にあるような話ををしただけでも、かなり「人生観」が変わる人もおられるのではないでしょうか。
その人にとっては、「神示を伝えること=一二三」は「気づき」となり、人によっては「救い」となるかもしれません。
こうして「救われる」人々が増えることを大神様始め、八百万の神々様は望んでおられるのではないでしょうか。
「神人共に一二三唱えて岩戸が開ける(キの巻・第十一帖)」の真意は、ここにあると私は思います。

