日月神示「水の巻・第十帖」に、時として「十柱の神々」に数えられる「火の神」とは、「わかひめきみの神」であると書かれています。
日本神話では、「伊奘冉命」こと「火結神ほむすびのかみ」が「火の神(火之迦具土神)」をお産みになられたことで瀕死の火傷を負い、「黄泉の国」に入られたとされます。
「わかひめきみ」とは、日本神話「天照大御神」の御幼名とも目される「稚日女命わかひるめのみこと」と考えられ、日月神示では「真の天照大御神」を「伊奘冉命」とすることから、「火の神」の御神格は「竜宮の乙姫」と同様、「つきさかきむかつ姫の神」の御顕現と考えて間違いないでしょう。
「火之迦具土神」は、伊奘冉命の死因となったことから、激怒した「伊弉諾命」によって斬り殺してしまいます。
神話では、首を撥ねられた火之迦具土神の御身体は、それぞれ「大地」の一部となり主に「山峡」になったとされます。
山や谷の狭隘には、「川」が流れます。
河川や湖水を司る女神の一柱に「瀬織津姫命」がおられ、かの御神格は「伊勢神宮」に祀られる「撞賢木厳之御魂天疎向津姫命つきさかきいつのみたまあまさかるつかつひめのみこと」、いわゆる「天照皇大神宮神(天照大御神)」の「荒御魂」とされます。
「天之御中主神」が転じた二柱の「大神」が、それぞれ「火と水」の性質を持ち、かの夫婦神から「御子神」が御誕生なされたとしたら、その御神格は「火と水」の両面を持ち合わせるはずです。
そういう意味で、「御三体の神々」にも数えられる「つきさかきむかつ姫の神」が、「火の神(火之迦具土神)」と「水の神(瀬織津姫命)」の御神能を併せ持っておられると考えるのは矛盾しません。
ただ「火」にも「水」にも「善」なる側面ばかりでなく、火事や水害など「禍事」を起こしうる力も存在します。
「善」が「光」なのだとしたら、また「悪」という「闇」の面が同時に存在してもおかしくはありません。
宇宙の理においては、「概念」の世界では全く矛盾なく存在している「表裏一体」のものが、「空間」のある世界に入ると「対偶」の存在が同時に出現すると考えられます。
人々に恩恵をもたらす神、すなわち瀬織津姫命(天照皇大神宮神)」が「光」とすれば、同時に「闇」も存在するのが道理でしょう。
日本神話において、伊弉諾命が「黄泉の国」から帰還し「筑紫の阿波岐原」で潔斎をなされた時、天照大御神を始めとした「三貴子」が御誕生なされましたが、同時に「禍事の神(禍津神)」である「八十禍津日神やそまがつひのかみ」「大禍津日神」も揃って御顕現なされたことに、深い関係がある気がします。
「荒神」として御顕現なされる「火の神」と「水の神」、荒ぶる「火水(カミ)」を「闇」とするならば、「善神」とは闇に相反する「光」であり、総体として見れば「光と闇」の「一対」で一柱の「大神」と言えます。
この御神格こそが「つきさかきむかつ姫の神」であられるのだと思います。
「光と闇」は、現象としては混ざり合う性質があるものの、「純度」を増すほどに反発性が強まり、本質的に「互いが相反する」存在です。
この絶対に混ざり合わない、対極としての「つきさかきむかつ姫の神」の性質が「火水(カミ)」として御顕現なされる際、「善と悪」の御神能を持たれた「命(神)」となると考えられます。
「善」としてのお姿を「撞賢木向津姫命」とするなら、「悪」としてのお姿が「ヤマタノオロチ」に代表される「禍津神」なのかもしれません。
「扶桑の巻・第八帖」には、「もし怒りが出た時は、神の座から外れてしまう」とあり、厳密な「神界」の定義では「憤怒」や「嫉妬」の心を持つ神は「神」と認められないために、「悪神」は「神界」に属さないと考えられます。
「神」の次元では、確かに「瀬織津姫命」と「ヤマタノオロチ」は並列に存在しながらも敵対的関係にあり、本質的には全く混ざり合わない立場の神々かもしれません。
「大神」としては「光と闇」の性質を併せ持ち、「善悪両面」「表裏一体」としながらも、「神」の次元では「和魂にぎたま」の「瀬織津姫命」、「荒魂あらたま」の「禍津神」として御顕現なされるとも考えられます。
「善神」の性格が強いほど一方の「悪神」としての性質も際立ち、平面世界に住まう神の次元では両者は敵対しうる、こう説明すると「つきさかきむかつ姫の神」の御名を冠する「大神」を捉えやすくなります。
唐突な話をしますが、これは「ドラクエ11」で、ロトゼタシアの勇者が世界に誕生した瞬間、「邪神ニズゼルファ」が出現したのと同じ道理なのかもしれません。
もちろん「ロトの勇者」は、天衣無縫の「ヒーロー」として描かれ人気の中心となる存在ですが、「邪神」は本質的に「悪」の化身であって、「憎まれ役」であり常に「退治される側」の存在となります。
人々からすれば「ヒーロー」は崇敬の対象となり、「天照皇大神宮神」や「瀬織津姫命」への信仰が篤くなるのは当然でしょう。
しかし「禍津神」は「祟りなす神」として「御霊信仰」となる以外には疎んじられ、祭祀の対象となることは殆どありません。
例えば「光と闇」は、現象としては混在するものの、本質的に反発しあうものです。
この二つの相反する性質が「火と水」なのだとしたら、敵対性のあるもの同士が揃って「一つ」と言えます。
これが日月神示に「火の神」と並び称される「竜宮の乙姫」が、「戦の神」と呼ばれる由縁ではないでしょうか。
「御三体の大神」としての「つきさかきむかつ姫の神」を正しくお祀りするためには、かの大神に「善悪両面」の性質があることを知り、「善の神」として崇敬する一方、「悪の神」でもあることも認識なければならず、これが「片手落ち」となれば正しい信仰にはならないことになります。
私が「身魂の大掃除」の一環として個人的に崇拝する「瀬織津姫命」の信仰心を手放さなければならなかった理由は、おそらくここにあります。
「つきさかきむかつ姫の神(大神)」と「身魂(神)」としての「撞賢木向津姫命」を混同し、「善神」としての「瀬織津姫命」だけをお祀りすることは、「大神」として見れば「荒神」としての「闇の側面」を無視することとなり、それでは正しい「祀り」にならないのです。
そうした「誠の信仰」に至るために、「大神」の現れとしての「悪」を敵と見做さず、抱き参らせて「弥栄」にするための心得としなければならなかったのです。
「水の神」を抱くのなら、「火の神」も抱かなければならない、それくらいの「覚悟」が私には必要だったのです。

